新聞にフランキー・レインの訃報が載っている。1913年イタリア系移民の家庭に生まれたとか。あの声の張りはどこかカンツオォーネの感があって、そうだったかなどと勝手に納得したりするが、実は「ローハイド」「OK牧場の決闘」などと、カンツォーネの流行った時期が一緒だったからだろう、なんとなく感じていたにすぎない。もともとポップスの歌手だった。
でも「ローハイド」や「OK牧場の決闘」などの、唸りあげて張りを伸ばすような歌唱に浪曲を感じたのは、自分と同じ昭和十年代生まれの人だったのではないか。つまり片方でポップスをポップスとして享受しつつ、古い演歌の情感も十分に感じる感覚が体内にある世代。そこに、OKコラルの争闘や本所松坂町の討ち入りを、映画で同じように好む位置付け(摺り込まれたというべきか)があるようだ。
伝えられるものがたりということでは、アラモもOKコラル(決闘の実演を見せているという)も赤穂城も同じだ。
こんなことを思っている時に、川柳人の一人から電話があって、そのなかで、バブルのはじける前と後の人心の違いを、川柳は反映できていないのではないか、ほとんどが気にしていないのではないか、などと話し合った。実際、菓子の製造販売の現場に居たところでは、はじけた後の、製菓や包装機器の設備投資の変化が聞こえ、景気の回復を待つ気分は職場での生産計画や生産数に現われ、マスコミでは、あらゆる製造業種の在庫高の膨張が政治や経済の大問題として大きく報じられていた。リストラという言葉が溢れたことだけでも、人のこころにどれほどのことをもたらしたことか。製造でも流通でも販売でも、変化にともなう様々なこころの問題が、神経にも身体にも生じたはずなのだ。サラリーマン川柳の出現などは、はじける渦中の何かの必然が作用していたにちがいない。目に見え、感じた、とても身近な変化だった。川柳界でいう私性とか個性とかへの信頼は、サラリーマン川柳に嘲笑われる感をもって見直しを思わされ、川柳の近代化に固執する川柳人は、文芸としての川柳という幻をもってサラ川より自分達の川柳を上位に置こうと思っていたはずだ。サラ川の出現をバブルの前後と照応させる見方を、ほとんどの川柳人はできなかった。それは、私、自身、の存在を信じることで済ませられるという思いの甘さであって、実は、自分にサラ川的なものが居座っていることを気にしなかったのだった。サラ川はそれを生み出す要素をわれわれが造っていたに過ぎないのだ。別と思うより一緒に抱え込む認識が、いま、必要だろう。
おそらく、バブルのはじける前と後の心性の違いは、昭和十年代出生の世代が浴びた特殊性とどこかで似ていて、後世になって検証されれば同質性が見えてくるのではないか。
昭和三十年代から40年代生まれの世代は、こころの近代化指向と、経済上昇を浴びている。そこから「カネで何でも買える、実現できる、株主の利益に尽くす」ことを自己実現とする、マネーロンダリングの首謀者の愚かしさが出る。バブルの前と後の捻じれを身に摺り込まれた極端で象徴的な例だ。
社会性川柳を称揚するものではないが、昭和十年代生まれの特殊性もバブルの前後の変化も存分に浴びた自身の神経には、そこから半歩外へ踏み出したところで遊びながらでも川柳を書く、――自身の世界(人間)観を掘り出さねばとの思いがある。いわば翻弄されつづけた神経が川柳に向かう。一例を言えば
OK牧場の決闘であれ忠臣蔵であれ、ものがたりの変化や受け取り方の変容は、客が来なければ大損する映画産業に端的に現われる。それはまた、フランキーレインの歌声がかなりの年月に聞こえた時代と、いま、瞬間的に大売れして、次の商品に耳目が移る短い時間、いわば歌声のライフサイクルの違いに極端に見える。
CDショップを歩くとサントラ物の変化が現実を反映していて、面白い。おいおい、このうしろでは在庫数を示す数字が無機的にパソコンに現われているぞ、そんなにたくさん並べて大丈夫なのかい?――と思ったり。
そして、この現実を、人のこころに見る川柳が新しい川柳人によって書かれるといいな、と――。いや自分のことであるぞよ、と、かなりふてぶてしいハンセイもしてはおりますが。

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