曲馬団とは大げさな百日紅
レイ・チャールス「わがこころのジョージア」を鳴らしていたとき、この句が読めたと思った。書き継いできた近代との対峙に思いを廻らしている作者を想像した。「わがこころ」の近代であり、感懐の情を突き放すような「曲馬団」の一語が書かれたのだと思った。テクストとして、自分なら「曲馬団」のところにどのような言葉を嵌めるかと思うと、「大げさな」という句語と、「百日紅」が「百日」「紅」と読ませるような、時制の逆転を許さぬ指示力があって、過去形の言葉に限定させられてしまう。過去を一括りに総括しようとする意志が「大げさな」と、にべもなく言い切る気勢となったのだろう、それが「曲馬団」という過去のパノラマ化を引き寄せたのだ。気勢は、現在の実質を見ようとする確たる志向から出ている。一つのハードルを越したとの自覚が句の裏にあるにちがいない。そして
体臭は消すに消せない稲光
の句は、「曲馬団」の句を曳きつつ、一括りにした《石部明の認識している近代》が、「稲光」となって現実を照らし出すと読める。この意味で、次に置かれた
死んでいる馬の胴体青芒
の句の、「死んでいる馬の胴体」のイメージと相互に被さりあい、「死んでいる馬」が、「曲馬団」とその「馬」であることを明かしている。もちろん、各句は独立して書かれており、書かれた時期も違い、他の意味性を寄せ付けぬ力で立たせた句だが、振りかえって見るとき、同じ語句が句語としてある事実と、その質がズレる部分を持つところに「馬の胴体」という一編の構成が現われたのだ。同じことを書き継いだとの、先刻承知の句にズレがあることを見直したとき、石部明に、わがこころの近代が生動感をもって立ち上がったと想像できる。
われわれは自己の認識を自己のコスモスとして自覚し難い時代に居る。押し付け合い、押し付けられたものと自身の存在を分けて検証できない[私さがし]の時代に居る。象徴的に言えば、せいぜい自己の内なる「諏訪湖」を見渡すことができても、「琵琶湖」は、[私(現代人)]に見渡せない。この意味で政治屋や政財界や官公庁が言う地図的規模やスケールを負いながら、石部明のスケールは謙虚である。なぜ謙虚か。川柳を書くことが、世界や私(人間)の不思議さや不可解さや見極め難さに迫って行くことだとの【書くことの実質】を、身体化しているからである。この一線で、川柳も石部明も社会科学から離れた文芸の場に居る。
―――『遊魔系』以後、という気概。過去をふっきったのではない、もう過去を彷徨しない、ここ、現在に在るとの存在確認。「馬の胴体」はアリバイの十四句なのである。―――
最初に「馬の胴体」を一読したとき、揃えたな!という感じがあった。セレクション柳人のシリーズが在る川柳の現在、外の具眼の士に読まれる現在の川柳、という意識を持って句集のプロローグを考えたのだと感じて、胸をうたれた。堺利彦さんから「出たね、いいね、馬の胴体について何か書きたいね」と電話が来たのは句集の届いたあくる日だった。「同じ句語をピックアップしてみる」「できれば十四句についてブログに書きます」と答えておいて、そのあと、同じ句語が重なり、少しズレる十数例の一覧表をメールした。堺さんをまどわせたか、との感が残っている。
ブログに書きたいと思ったことは二つあった。一つは、作者自身が感じている十四句についての評価であり、いま一つは十四句とその構成の読みだった。(1)にも書いたが、起承転結や連句的な句の渡り合いなどの、いわばストーリー性も循環性も若干感じるのだが、これは私的捏造になるので、一つの立方体の構成に絞った。
一つの立方体を創るだけであれば、過去の句を様々に配列して、もっと密度の濃い結構にできる。しかし十四句は構成のための配材としての十四句ではない。セレクション柳人のシリーズの存在を意識してのものだ。作者はこれをもって評価を確定的に下している。
ヤボを承知で『遊魔系』以後について少しだけ触れたい。というのは、以後の句について「あとがき」に「自己模倣の繰り返し、テーマの混乱、あるいは言葉の不在感など、どれをとっても気に入った作品はほとんどなかった。多少どころではない迷いがあった」との一節がある。当方はいい訳になるが、「馬」は死んでも「犬」となってという、十四句の表題を無視しては読んだことにならないのだ。「馬」から「犬」へ、作者の、深化への継続の意志が表現されている。小事に拘らず笑い飛ばす気風、サラッとした石部明の内側に、将来を希求する輪廻の思想がカタルシスをまじえてあるかもしれない――。
メモ書いて秋の桜に伝言す
梔子を持ってひとりは殉死せり
またがって桔梗の首を締めている
百合に似て精霊の息生臭し
山茶花のこれは不敵な散り具合
たてつけの悪い雨戸の奧に菊
ぞろぞろと敵は無数のきんぽうげ
親戚がきて苦しめているさくら
武力にてあのヒヤシンス制圧す
例えばこれらの花の名は、俳句の伝統的な歳時記から脱けて、言葉として書かれていると感じられる。他に、月夜や枯野や雨や鶴、吹雪、花見、夕暮れ、梟、鳥、朝ぼらけ、白雨、夕景、八月、秋、稲妻、春、野などの、心境や感情に見合う伝統的な象徴性や概念に倣う句語があるが、花の名だけは、その気分の脱臼を目論むような方向が感じられ、他の伝統的な象徴語もゆるやかにだが、この国の伝統的な美から抜けそうな気配を感じさせている。
「曲馬団」の「死んだ馬」の目線と、「冬の(おそらく作者自身の歳や身体感覚)犬」の目線がどのように違って行くかは進行中だが、確実に見えることは〈言葉〉を物として対象化する書き方が増えていることである。石部明の作句のほとんどが川柳的な問答体であるところから見て、〈言葉〉という物、という意識は漸進性に強く働くだろう。
「冬の犬」をポンと、一人の川柳人の道程へ突き放して見れば、とにかく柔軟性と自在さが増している。むろん伝統的な象徴語を全否定しているのではない。現実を肯定的に見ている一句がある
器からはみだしながらヒヤシンス
キザな言い方で終わることになるが、「青芒」の句語と比べてこの「ヒヤシンス」を見れば、語感にある生気を好ましいものとして書いていることがわかる。

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