河野春三 1902(明治35)年生〜1984(昭和59)年没
泉 淳夫 1908(明治41)年生〜1988(昭和63)年没
松本芳味 1926(大正15)年生〜1975(昭和50)年没
河野春三
昭和10年以前
自転車が続きみすぼらしき自分
夕陽あまりに尊き麦畑に立ち
赤い赤い夕陽のなかの竹箒
越えられぬ溝を人妻知っている
凧一つ妻と和まぬ眼に親し
憎らしいほどの理性を見せられて
ピアノ鳴る階級意識しきりなり
シャンデリアの下にはぐれし心なり
黄昏のこころインキをおとしいる
電話口使われている身と気ずき
日記見てさびしいひとと妻の知る
昭和30年以後
流木の哭かぬ夜はなし 天を指す
濁流は太古に発し流木の刑
母系につながる一本の高い細い桐の木
今も眼底に ブランコの不逞垂る
堕ちて黒縄地獄の 責めの甘美を
泉 淳夫
昭和40年以前
炭をつぐ妻の手もとを子と見ている
深々と吾子の独楽澄む他郷の土
人に極月われに喪の月昏れんとす
玩具蔵い妻にいちにち終りたり
鉄錆を寒く子の掌がつけてくる
昭和47年以後
たぐり寄せては小面の紐に泣かれる
小鳥倒れ コトリと倒れ 声なき玩具
馬と芒とたてがみを空に流し
芒野の顔出し遊び何処まで行く
松本芳味
昭和30年以前
月光や「救われたいとおもいます」
かなしみや障子の桟を指にて拭く
暗い雨降りそゝぐ日に生まれしか
金借りに母が行く街 灯ともれよ
生きたいか生きたいあわれ道化の面
ぼろぼろの船が出て行く 丘まひる
昭和31年以後
キノコ雲
上ったままの
時間である
暗い運河に
花を
投げても始まらない
烈しく揺れる橋に
わが足と
そして 手
炎天の 鉄板
下部少数は
抹殺される
1967(昭和42)年の「平安川柳社創立十周年記念 明治百年全国川柳大会」のプログラムの討論会で、「川柳は人生経験を積んだ中年の文学だ」(山村祐)との〈中年文学論〉が出た。後日、当時二十代だった何人かで祐さんを詰問したことが懐かしい。
人が自転車に乗っているのを見送るしかない「みすぼらしい自分」、「ピアノ」の音に「階級意識しきり」になった春三。「越えられぬ溝を」「人妻」は「知っていて」、あるいは「凧一つ」を見て「妻と和まぬ」、また、夫の「日記見てさびしいひとと」知る妻など、事実であれ虚構であれ、具体的な事象と心境が書かれている。後に「階級意識」は、「太古に発した」「流木」や「一本の高い細い桐の木」などに、歴史とこころの繋がりへの思考へ収斂され、抽象された認識として書かれている。そこに社会に対する「不逞」の意識のあることも確認されている。「溝を人妻知っていて」「憎らしいほどの理性見せられ」などの具体的な意識は、「堕ちて黒縄地獄の 責めの甘美を」と、かなりナマな表現となり、社会の規範や倫理の堆積を放擲するかの表現に至っている。いうまでもないが、社会性の意識が具体的な事象から歳月を経て収斂、抽象された認識になったことと逆に、恋愛感情や性的衝動には、若いときから社会規範や倫理の抽象された認識が付いてまわる。「地獄の 責めの甘美を」とは、個我のエロスを上位へ転倒する表現で、春三はここで世界についての認識を捨てる気になっている。だれもが持つ内奥をひろげ出したのだ。
泉淳夫の「小面の紐に泣かれる」は、内在する世界(人間)認識より、美意識が前面に出ていて、春三のエロスの開陳と同じ位相にある句で、疑念を伝えたところ、これ以上、美へ行かないとの返信を貰った思い出のある句だ。「小鳥が」「コトリと倒れ」るという表現には、生への冷徹な視線の働きが有る。泉淳夫が、具体的な妻や子との生活から、抒情の質を世界(人間)の認識へ変えていった軌跡を知る人は多い。しかし、周辺にあった川柳人が、淳夫の句に安直な感傷や世俗的な美を望んでいたので、抒情の変化に作者の強い意志と思考の収斂があったことをいう人が居なかった。「小鳥」が「コトリと倒れ」た、それを「声無き玩具」と、喉を病んだ自身を冷たく対象化する表現意欲の強さを、言挙げする人はなかった。感傷にのみ凭れる読み方に囲まれた泉淳夫の悲劇である。
松本芳味が、母ベソの芳味といわれた句から、決然と多行表記に移ったのには、多行で書くべき社会性川柳が、それまでの感傷的な抒情を包括できるという意識があったからだろう。昭和30年代の川柳界には、まだ、小手先の芸比べや花柳吟やダンナ芸があった。ときに妾がどうした、といった句が書かれ、それらには、具体的な事象を書くことが読者を刺激するという意識があったに違いない。思考の収斂や抽象へ向かう姿勢は単純な革新思考ではなかった。ダンナ芸などをあからさまに否定する風潮があったのだ。だから、思考の収斂や抽象は、旧態の不文律を破壊するものであったのだ。そんななかで、社会性の意識とヒューマニズムに立つスタンスには、自らの川柳の質の上昇という意識があっただろう。
作者の自己革新、質の上昇に、思考の修練と抽象がともなっていることを示しておきたかった。そして、優れた川柳には作者の個的上昇があるように、川柳が近代化を目指して100年、ゆるい歩みのなかで収斂も抽象もさまざまに進んでいる。作者のそれと川柳のそれを、縦軸と横軸と見ることも可能だろう。近代的進歩史観に組みするところから俗物的にいうのではない。先の〈中年文学論〉は、この辺のアウトラインを掴んだところで言われたものだ。そして、高学歴化した社会で、少しでも文学的な意識の有る人たちが川柳に足を踏み込むことがあれば、彼らの関心は、かつて言われた本格とか伝統とか革新とかのカテゴリーを過去のものとして、川柳が書いて来た世界(人間)観の先端に向かう。
川上三太郎は、江戸川柳の蔓延する川柳界で、「個を主軸とした回転」を考えていた。「外道」といわれるものだったと句集の「あとがき」に書いている。そちらに向かった三太郎の句に、意識の収斂や抽象のあったことは、表現者意識の上昇とともに句集に残されている。
団塊の世代を親にもつ若者たちは、いきなり具象から離れた句を書く可能性を持っている。
もう、思考の収斂とか抽象を言う必要のないところに、川柳は逢着した。川柳は、書くべき「思い」からのみ書き始められるものではなくなったのだ。いきなり、言葉や、映像や、嘱目や、音楽や、いや、もっと、ただ五七五に納まる言語の秩序感からでも、川柳が書かれる時代が始まっている。これを可能にする知性の具わった新人が出てくるだろう。
今夏の、玉野市民川柳大会で、「なんでや?」という声があからさまに上がったことは、共感要素が、意味性から今風の感覚に変わった句が書かれるという認識の有無が露出なのだ。
意識や認識の落差がモロに句会や大会で出始めている。
日常の表層を無感動に書けば句会や大会に人数が集まるという時代は、そろそろ終わりかけている。感動の無さ、虚しさの実感される時節が来た。当面、あらゆる方面で、人数集めが強化されることだろう。そこで今までの川柳史が問われ、のりこえる新しい川柳が出るかも知れない。

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