「鴉」を一冊持っている。昭和32年4月発行の25号。ガリ版、謄写印刷。宮田あきらさんに貰ったもので、もうぼろぼろの状態、裏表紙はちぎれてしまい、ページを繰るのに注意しないと破れる。門外不出。冨二はまだ富山人を名乗っている時代である。
眸を描けば 春の記憶の皺があるぞ
パイプの穴の怠惰の意志は通るかな
露地に窓の限り無きとき 春であった
物賣るに 坂降りゆけば 暗きあり
稼げば死ぬぞ 乾きたる掌の空より垂れる
税務署に 金魚を置けば うごく哉
男六十の葱きざみつゝ 涙あらむ
などがある。「露地の窓の限り無きとき」の句は、「路地裏を夜汽車と思ふ金魚かな」(攝津幸彦)を思うと頭をよぎる句だ。
そそり立つ/ビルの暗さの/東京運河 松本芳味
女の掌から 静かな庭が流れ出す みどりの 山村 祐
眼よ しろい骨の林を 私に見たか 同
春の夜のさまよう雪の唇に溶けし 片柳哲郎
盃は冷めたし 春の刃のごとき 同
眼鏡を出るいくじなしの表情 金子勘九郎
なども載っており、いまでは貴重な記録といえるだろう。なお、現在「川柳学」誌に堺利彦さんが二回に分けて、「中村冨二と「鴉」の時代」でこの辺の概容を見事にまとめた文章を発表している。
冨二はたしか明治末年生まれ、昭和32年は四十代なかばだったので「男六十の葱きざみつゝ」はフィクションであり、冨二の戯作精神とかサービス精神を思わせる句だが、冨二の見た誰かの像かもしれない。
中村冨二が、当時の革新派とごく自然に一線を隔していたことは知られている。伝統を独自に受け継いだ川柳人であり、かと言って作品に展開される知性や思想が日常の表層ばかり写している人達になじむものでもなかったのだろう、評価は革新派で高く、一般の川柳界では句会上手という評価であったらしい。「皺があるぞ」「春であった」「うごく哉」「涙あらむ」などの冨二らしさには、川柳人なら誰しも、句会の空気や、句を書くことや川柳の話しを好み、愉しむ冨二の闊達なこころを感じるだろう。この闊達さがフィクションや戯作性の句を書かせたと思われるが、革新派のかなり素朴なリアリズムやそれを深めようとする姿勢からは、フィクションや戯作や句会好みなどを静観するにとどまっていたようだ。
冨二が川柳という文芸をそのように思っていたことは理解できるところがあり、そこから河野春三を畏敬の念をもって見ていたことも知られているが、冨二の見ている世界、人間の態様、などの認識が革新派との違いとしてあったと見る方があたっていると思われる。古書店のおじさんに満足していたかどうかはわからないが、店で、冨二の句集を二冊買うからと値切られたり、自分の分として句集を持っていなかったとかは、冨二の川柳観と世界(人間)観の現われであったのだろう。
これが解らないと、「稼げば死ぬぞ」という措辞は読めないのではないか。「稼」ぐことに没頭する生き方や自己目的として生を費やすこと、その「稼」ぐ姿と時空を「乾きたる掌の空より垂れる」と書いているのだが、ではこの句、血眼になって稼ごうとする現代人の態様を批判しているのだろうか?――違うと思う。
「男六十の葱きざみつゝ 涙あらむ」と書く冨二には、何かに打ち込んで一生懸命に生きていようが、怠けていようが、落伍していようが、個人が個人の生を生きていること、その生と、生きざまを愛しいと思うこころがあったのだ。
冨二は、眼の前に生きている人達が先の世から受け継いで生きている、近代、背負わざるを得ない近代というものを見ていたと思うのだが。

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