「セレクション柳人」発刊記念川柳大会が明後日にせまった。既刊十三冊それぞれの「読み」をコメンティーターが発表、という川柳では異色の大会である。
他者の句を読む、その「読み」について、中村冨二の書いた文章の一節を紹介したい。大好きな文章であり、好きなものを他人に見せたくないというような、自分だけの大切な文章、という気があるのだが。川柳に足を入れて数年後に、涎の出るような文章に出会ったしあわせ、その一節を蔵出し――。いまも、「読み」についての(自分の)原点のように、読み返すことの多い文章である。内容は川柳誌によくある前号作品評であり、個々の作者の姿勢や句についての冨二の軽い自己表現でしかないのだが、その軽いところがなんとも嬉しいのだ。
「鷹」23号 昭和40年(1965年)8月発行
ボクは元来読者であって、批評の後から歩いてゆく公算が多く、弥次馬に本質的な前進が無いように、ボクには趣味があるだけであった。作家と作品の間に存在する批評の重要さは認めても、好き嫌いの感情がそれを上廻り、その原因がおゝむねスタイルによるのだから申訳ない。(後略)
さて現代川柳におきましては、知性によるリズムねじ伏せや、生ぬるい抒情の否定が、定型から自由律への変転を見せても、その必然性を説く人々の作品は相変らず抒情のお化けであった。ボクだって十七音定型にこだわる訳ではないが、短詩が対象を語り得る型式の貧弱さを思うとき、リズムを強調した先人の見事な知識を感じるのだ。「作品は秩序を得て作者から離れ、独立する」のならば、短詩の中でのリズムか、秩序の邪魔かどうかは「短詩的抒情」などと知性の優先を詩人の自由さを、たちまち自分のモノだと考える安易さにあるかどうかはボクは知らない。しかし機会詩としてすぐ芸術家になれる安易さを指摘されたときの、はかない抵抗としてリズムは読者の期待に応える為の美しい姿だとボソボソつぶやくだろう。(何を言ってるのか、さっぱり解らない)閑話休題。(後略)
(「地獄好き」 中村冨二)より
このあと、作品評になるが、前号と対照しながら読まねば理解し難く、たいした評を書いているわけでもない。冨二調の、言葉の運びの軽快さが冴え渡っていて、とにかく読んでいて愉しい文章である。
その一部
「MEMO風な回想」で芳味は、名作家は寡黙であるべきだとこぼしているが、ヴァレリーも芭蕉も朔太郎も相当なお喋りであって、しかも名作家であった。「喋らないのは、喋らないのではなくて、喋れないのだ」と言う横光利一の言葉が本当である。喋ってばかり居て、作品も出来ぬクダラヌ作家も居るが、春三、芳味、哲郎ともども、見事な作家であると 思う。
写していても愉しい。そしてコワイ。まったく個人的には、この文体の言葉の繋がりを自分が好んでいるから好きなのだと感じたりするが、およそ40年も前に、「読み」についてこんな姿勢をもっていた人が居たことを、大会を目前に、吹聴しておきたいのである。

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