オネショしたことなどみんな卵とじ
ビニールの木に水をやったら笑ったわ
この二句を最初に読んだとき、この手放しのやさしさは一体何だ?と思い、これは文七元結にある手放しのやさしさではないか、あっけらかんと明るい長屋の花見のようなものだとも思った。
通常なら、やさしさを手放しで書かれると、押し付けになって鼻持ちならないし苛立たしくなるが、この二句は真っ正面からやさしさを書いていて、それがここちよいのだ。ここちよさを句の道具立てに見れば、「みんな卵とじ」「ビニールの木に水をやったら」が、漫才でいうボケになっており、いわばマンガ的行為を(作者が、と読ませ)演じて汚れ役を被ることで、鼻持ちならない感を除いているのだ。むろん、この句、芸ではないエネルギーを持っている。
二年前、《バックストロークinきょうと》のパネルディスカッション「川柳にあらわれる悪意について」で、パネラーの広瀬は開口一番「悪意というテーマをもらった時に、なんでここに私が座らなきゃならないんだろうという気がして、ただただ善意だけでここに参りました」と言っている。テーマの主旨がどうあれ、「悪意」は広瀬の川柳から外しているものであって、それに触れることは広瀬のスタンスを揺るがせることなのだ。
しかし人情噺は、非人情な現実より人情を上位に置くところで成っている。仮構の世界でいかにもこれが自然であるかのように非人情な現実を半ばシャットアウトするのが芸であり、少なくとも人情と非人情は、芸の力で表裏一体のごとく聴衆に意識させる。やさしさのみを川柳の一句にするということは、作者の現実認識の半分だけが書かれるということであり、作者も読者も、句語に表われない現実を、おおむね同じように認識しているということなのだ。短い言語空間では観念的であることがこれを容易くする。問題は句の表と裏、人情と非人情の堂々巡りでは芸に終わることであり、「ただただ善意だけで」と言っても、上昇意識は芸にではなく、書くべきことの方に常に重きを置いて持たねばならない。つまり極端に言えば、やさしさが自分の川柳の到達点ではないことを最もよく知っているのは広瀬である。
しかし、やさしさを書く際にシャットアウトした外側をどのように認識するかは、広瀬にとってかなり難問の感がある。生きる者にとっての死、ということは広瀬の川柳の内部にありつづけて、そこから出るやさしさの表現に大きな魅力を感じつつそれを上昇させねばならない。
頬被りで博物館を脱走す
仰向けになったら土をかけてゆく
博物館には歴史以前から今日までという長い長い時間が示されており、広い広い空間の様々が凝縮されたようにある。この時空からは、広瀬は外れたい。シャットアウトする後ろめたさで「頬被り」して「脱走」する。広瀬の人間性が端的に現れた句だ。死ねば土をかけられて終わりというニヒリズムは彼女にない。「仰向けに」なると「土をかけ」られる、その痛々しさが広瀬の神経ではこの世にあるので「頬被り」をしてごめんなさいと「博物館」を「脱走」するのである。
このように、死者と生きている者の関係は広瀬の手に余るものの、世界のありさまと共に度々表現を替えて句集にあらわれる。
しかし、シャットアウト自体、川柳の書き方と繋がっているから、堂々巡りへ滑る要素は濃い。広瀬にとって大きな問題だ。
書くべき日常はいつでも抽象される。それを彼女は「私の観念的なところから生まれてくる言葉が」日常的事象に「寄り添う瞬間がある」、つまり具体的事象は抽象となって川柳になると言っている(「川柳木馬」76号)。やさしさに居座る要素は整っているとさえ見えるが、広瀬が上昇志向を抱きつづけているのは、死者に対して、あるいは死者から見える作品が、芸であってはならないという誠実を貫こうとしているからだ。死者への誠実を換言すれば、死者へのやさしさであり、それはそのまま現実へ、流動する日常性へ向うやさしさであろう。
日常を抽象しているとは広瀬の場合、日常の個々の事象を〔死〕を交えて見ているということだ。この視線から世界を、人間を見るとき、やさしさのみに居座ってはいられない。死者と広瀬自身が自分の川柳の上昇をうながす。
しかし、現実はナマの生臭さをもって流動しつづけている。広瀬の「観念」というところには、現実の様々な関係性を書くことをやや避けているかの感がある。
心臓のきれいな魚だったのね
流れ着くワカメ、コンブを巻きつけて
コンセント入れるとかすれ声が出る
「心臓」の句は日常的な人間のこころと対象させる広瀬らしい書き方。「ワカメ、コンブ」は遇わねばならぬ状況、「コンセント」は時代状況と生を、それぞれの関係性を抽出して書いており、湿循感は少ないものの、他の句も同じように、よく読むと句意はかなりきびしく、この三句もきびしさがリアリティーになっているのだがーーー、関係性をこのように川柳に書きましたという赴きを否定できない。
ナマのものをそのまま取り上げることが苦手なのだ。ナマのもの(こと)を主役に書くことを避ける感じは、やさしさが包み込めないかららしい。
一本の糸になるまで笑いけり
心臓のところにつける糸印
糸ぴんと張って一日中走る
「糸」は本来的に縫い合わせるべき関係性をもつが、広瀬は関係性を外側においている。「悪意」というテーマに遭ったときと重ねて想像すると、おもわず、やさしさを展開するだけで充分じゃないかとも、いや、やさしさの限界を直視すべきだとも、どちらもなんだか当人に言いにくい。ともあれ「糸」は広瀬の能動性によってなんらかの具象になってゆくと感じられる。抽象から具象へ観念が変化して行く過程は、とても大きなカーブなので読み取り難いが、読み込めば、句集の配列をよくぞ概略にでも時系列にしてくれたと思わせるほど感じられる。
以前
雨の日はおなかが痛いことにする
と避けていたものと近年の広瀬は接触しはじめたのである。
傘さして父のカミソリ買いにゆく
十六分音符が喉にひっかかる
遠い街に向かって夜毎弾くピアノ
音楽に鍵が掛かっていた月日
コサージュをつけて出かけてゆく心
首伸ばす羊歯植物の間から
いろいろな関係性を書いており、「遠い街」は異界かとも思わせるが、これらの句の抒情の意識が濃くなっていくのが面白い。なぜなら、広瀬ちえみの川柳は現世に死の存在を並列させつつ世界を見るという位相が増幅しているので、世界や人間の実相をもろもろの関係性としてナマで見ると悲哀が湧くのだ。つまり、やさしさの及ばない関係性がとても多いという感慨があらためてせりあがる。それが抒情になるのだ。むろん、この抒情は堂々巡りではない。
やさしさを源基にした世界像を少しづつ鮮明にしながら螺旋を描いて上昇して行く。その実際が『広瀬ちえみ集』の最大の見所である。

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