「バックストローク岡山勉強会」で喋ったことを話し言葉風にしてーーー、むろん、整然と喋れたわけではない、躓いたり繰り返したりだったのだが、いかにもこのように喋ったとばかりの書き方なりますが。
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同人欄の句の読み難い傾向についてお話しします。
いきなりですがクイズ三問。
一に富士、二に鷹の羽の打ち違い、三に上野の仇桜
この言葉の意味をご存知の方おられますか?。子供の時に聴いたことなのです。
答え。仇討です。富士の裾野の曽我兄弟、鷹の羽の打ち違いは忠臣蔵で知られた家紋。上野は伊賀の上野での仇討、荒木又衛門。「仇桜」は美化した言い方です。
メモなんてしないでください、こなこと知っていても一銭の価値もない。
次、私が子供の時にはじめて接した川柳
瓢箪の留守に桔梗の花盛り
この句の意味は?。―――――。答え、高松城水攻めで西の方に秀吉が来ていたとき、本能寺で信長を殺した光秀が天下を獲った。瓢箪が秀吉、明智光秀の紋が桔梗でした。
では、「一に富士」「瓢箪の」の共通点は?。
答え、両方共に家紋という象徴が使われていることです。
上野は井沢八郎でしたか「ああ上野駅」のあの上野ではありません。伊賀上野。
でも上野駅という言葉が集団就職や出稼ぎなどを思わせる象徴的な言葉であった時代がありました。皆さんに上野駅や井沢八郎が通じてはなしがしやすい。
同じように「辛や切なや塩屋の岬」という歌詞があります。あれ、「塩屋」だから星野哲郎でしたか、書いたのでしょう。味噌屋や砂糖屋では書かない。「塩」が心を伝える象徴として書かれているわけです。
このように流通している言葉のなかにある共通する認識や感覚、象徴性を用いて書く川柳がこれまでたくさん書かれていました。いまも書かれています。
三角に三角に未来図を折ろう 時実新子
三角という尖ったかたちと心を重ねて伝えようとしている書き方です。
寒菊の忍耐という汚ならし 時実新子
「寒」という言葉です。寒い中で健気に咲いている。生きている。でも作者はその「忍耐」を汚いとして非難しています。「寒」という境遇からの自立を望む心から書いているからです。
夜逃げせし女ありき自転車だからなあ 寺尾俊平
「自転車」が、夜逃げした女性の暮しぶりや、あるいはその人柄などを思わせます。
カレーライスがうまくて死ぬのをやめた 定金冬二
「カレーライス」が日常生活を象徴しています。
指の疵 僧百人をならばせる 定金冬二
わかり難いと感じられる方が居られるかもしれない句です。日常生活の中で指を傷つけた。その、やりばのないはらだたしさ。そんな運命への、やむにやまれぬ気持ちが、日常生活から離れたところに居るような「僧」を「百人」並ばせる。「僧」「百人ならべ」!!!と命令したいような、といった気分の句です。定金冬二さんは数を象徴として書くことに秀でた作者でした。
いま取り上げた作者はご当地(和気)の近く、吉井川の流域から出られた作者です。
A
上野駅が象徴していたような象徴性が、やがて拡散する時代になりました。長崎や函館や伊勢崎町や柳ヶ瀬などが流行歌で出たわけです。流通する言葉の中で全国的に通用する象徴性の力が弱まって、地方での象徴性が外に向かって流通する時代を我々は過ごして来たわけです。
そうすると、川柳に書かれる言葉の象徴性が変わりました。どうも言葉の象徴性がちからを弱めたように感じられるのです。
オットセイの喉うるわしき徒労かな 筒井祥文
「オットセイ」のあの「喉」。つややかな「喉」は餌をもらうために伸び上がっています。作者はそこに日々を生きる現在の人間の姿を重ねて見たのでしょう。「徒労」であること、でもその「徒労」を見せる「喉」を「うるわしき」と
言っている。「うるわしき」こそ、自嘲気味な意識の表現です。一見、「オットセイ」や「喉」が象徴のようで、実際、作者が言いたいのは、「うるわしき」です。「オットセイ」「喉」は、句の前面からうしろへ後退しているのです。
二の腕に明日は追いつく西の京 小池正博
小池さんの句は難しくて、この句も80%ほどしかぼくの能力では読めません。「二の腕」という普段あまり気にしないところ、その腕では掴めないところに「西ノ京」があるというのです。小池さんは自分の知識や認識のなかにある歴史性を客観的に見つめようとする姿勢をもつ作者です。「西ノ京」は京都にある地名であり奈良にもあるようです。古い歴史的な感覚がその地名にあり、王朝の雛壇の世界のようなロマンチックなものも感じさせます。それが自分の身体の中にある。「西の京」が象徴しているようで、むしろこの句は、自身の認識の中にある歴史性がどのような距離をもち、どのように認識すれないいか、という主題があって、象徴性は句から排除されるか主題についての説明の位置へ後退している。
B
いま、バックストロークでは、思いや、意識や、意味や、認識が、流通する言葉と重ならないという自覚をもった作者が増えてきています。流通するがゆえに象徴は幾分か自分自身から離れている。
この辺のところを例えば石部明さんは、自分の中にある象徴性を取り出して客観的な視線で見て、過去と現在と未来を考えようとしています。樋口由紀子さんは言葉の象徴性から遠いところで自分自身の言葉を書こうとしているのです。
バックストロークの同人の句に、言葉の象徴性のところで書いている句と、そこから離れようとしている句があって、読み難いと感じさせるところであるようです。つまり、従来の、言葉の象徴、からでは読めない句があるのです。
もちろん、それらの句が先輩の方々の書かれた、作者の思いや感情の書かれた句を否定しているのではありません。
言葉の象徴から抜けて書こうとしている作者は、先輩と同じように日常生活を送り、同じようにいろんな思いや感情をもっています。ただ、言葉の象徴から抜けて書こうとする作者には、思いや感情の質を見ようとする姿勢があって、そこから言葉と向き合って句を書いています。
<以上が概略です。短時間であること、初心の方々への留意を言われていたことがあって、焦点を象徴に絞ったのだけれどーー。象徴性の変転についての認識の強弱によって、聴いていただいている皆さんが少しづつ表情を変えられたことを付記しておきます。初心の皆さんにとって聞き慣れないことになるだろうと思い、また、川柳の世界は、川柳歴数十年の新人と初心ながらベテランを凌ぐ作者のあるのが常であり、あとの質疑応答や分化会で、言葉の象徴性について反応が見えたことが喋った当人の手応えになりました。皆さんありがとう!。>

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