いま、作者にとって川柳がどのように有るのかわからないことが多い。作品は作品としてその一句を読めばいいという考え方に頷きつつ、川柳が本音の受け皿として有った頃があり、いまもサラリーマン川柳などでは、本音の書かれている句が面白いのも事実だ。
20世紀後半の川柳は、それ以前からあった「思いを書く」という意識をもって、本音や情念の表出を含む状況をつくっていたが、その感動が薄れる方向にすすみ、「思いを書く」に重なるように「意味を書く」意識が強くなって現在に至っている。「思い」と「意味」では間口の広さがまったく違うのだが、ここでは触れない。
読みについては、「思い」の方の句に作者の像を想像したり求める欲求がともない、「意味」の方の句に、一句の独立性を感じて句の後ろの作者を思うことが少なくなる――といった、まさに20世紀後半特有の現象があった。
この整理が出来ずに混乱を感じている川柳人が沢山あって、句会や大会のあとの歓談で、はなしがすれ違ったり、妙なセクト感の生じるのを避けたくて喋り難いことがある。
誠実さが本音の表出となった川柳を少し紹介。
句集『不協和音』 小泉十支尾 昭和49(1974)年、川柳ジャーナル社 刊。
鉄路青光り 人生還すすべもなし
失望の歴史を さらに刻もうとする
つぶやきの それが灯となるひとつづつ
さがしあてた皓歯の かたむけつくす坂
いつも遠くに冬陽を燃やすいのちの丘
噴きあげる呪詛 冬天は夜もきしむ
裂けやすき樹々 背くとは死すること
雑踏の 同じ高さで触れ触る肩
倦怠充ち 絹の直線ときにはきらめく
坂も乳房も匂う まばたく霧のなか
垂直に饒舌に また今日が来る
ひきつった顔を向ける 天地はない
ぼくの言語消滅させて雨期はじまる
運河に浮いた工場から 転がる死
挫折の椅子 何処にも 色のない空
あふれる 掌の間の 身もだえる 飢え
塗りつぶされて しかも 未来の確かな時間
群れ棲んでそのくせいつもひとりの睡り
ふたたび地を打ち 弱肉の追われる果て
「つぶやきの」「さがしあてた皓歯」の純な恋愛感情が眩く、「絹の直線」「あふれる 掌の間」のエロティシズムも美しい。『不協和音』という書名が象徴するように本音の川柳であり、句語の存在感の強さには作者が自己の現実に誠実であろうとする姿勢がある。川上三太郎門下であり、「鷹」「川柳ジャーナル」と革新系の集団で活動。ジャーナル社では同人間の調整役であったと聴いている。一度お目にかかっただけだが、温和で芯の強い先輩との感があった。後年、当方のささやかな活動にも必ず通信を頂いていたが、先年、亡くなられたとの報があった。

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