山本礫さんが亡くなられた。
昭和30年代に地元の結社、平安川柳社の指導で川柳をはじめた田中博造・川村富造・千葉和男・北川裕子・戸田照夫・石田柊馬、少し前に始めていた岩村憲治、少し後の奥山晴生、小林満寿夫(当初、寿夫)らにとって、礫さんは良き先輩であった。いわゆる革新系の句風だったこともあり、初心者にとって仰ぎ見る存在のお一人だったが、河野春三さんを核とする革新運動から見れば、礫さんは革新の外縁に位地しておられたようだ。
我々が川柳に接した前の、革新川柳の力強い動きがあった頃。昭和33年の「天馬」(9号)に、「天馬賞」に投じられた山本礫さんの十句が載っている。
京都 山本 礫
寸鉄帯びぬ吾は父なりセールスマン
童話に入れるはかなき父の知恵許せ
此の手紙の負担に耐えよと云うのか
すりへった消ゴムの青臭い話さ
妻よエスカレーター二段上の婦人は見るな
新聞社の鳩群れとび卑屈感去らず
鏡の貌は気まぐれな個人に支配されてる
態度保留の言葉を今日も吐きしかな
ドラム缶皆天を向き放尿す
今日はスポンサーつきのバスにゆられて

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