明さん。「思いを書く」についてのつづきです。とはいえ、前便のぼくの文のひどさ。整理のできていないことを書こうとするから、あんなことになる。オッチョコチョイ、軽薄、あさはか、と落ち込みつつ、も少しだけ――。
明さんが掲示板で、「思いを書く」意識はここまで到達できるんだと、俳句を引かれたことは良く解かっているつもりです。
そしてぼくは、「思いを書く」を大切にして川柳が歩んできた背景をかなり否定的に列挙しました。むろん論戦のためではありません。「思いを書く」という言葉が、川柳を低レベルにとどまらせるように働いたことは、明さんもぼくも同じ見方をしていますから。
実は、確認しておきたいことがあって、前便の編集者批判はその長いマクラでした。今日がその主意です。お付き合いください。
前の前の世代が《共感》を川柳の価値に据え、情の共有をもって「思いを書く」ことの正当性としていたことは前便で触れました。
昭和30年代から始まった経済上昇時代の中で、情が薄くなってなお「思いを書く」対象を日常の思いとしていたのだから川柳が低レベルになった。日常の中の無感動な描写がおもしろいはずがない。残念なことに六大家の死がほぼこの時代に重なったようです。
「思いを書く」に立ちつつこの状況をほぼ正確にとらえていた少数の人があった、いわゆる革新系の中の少数です。そのとらえ方が時代に急かされたように超性急な心情と混ざっていました。
「思いを書く」は、一方で無感動な川柳の大量生産へ拡散しつつ、――ただ一つの寄る辺となり、あまねく結社のあまねく護符となって今日に至り、いま一つは、「思いを書く」を深化させようとして、おりからの社会性、あるいは前近代との様々な拮抗などの実質を剔抉して情念の表出を展開するに至った、と見ています。
つまりぼくは、革新川柳と呼ばれたものが「思いを書く」をつよく受け継いだと思っているのです。
それが続けば、明さんが引かれた俳句と同様のレベルの「思いを書く」川柳があってしかるべきだった――。この視点が明さんの掲出された真意であったのでしょう。この気持ちはよく解る。革新系の終局状況を経たぼくには、それが革新系で成されるべきだったとの悔いのような淋しい感情があります。
ところが「思いを書く」の問題はもっと複雑だった。
嫌悪の感情がからむほどに、本格川柳(川柳界の大勢)と革新川柳(少数)の乖離があったかに見えるものの、「思いを書く」という一点から見れば、同じところに見え、革新の方がかなり良質の句を書いたことはご存知のとおりです。河野春三の「馬」誌に載った「樹海」五十句(時実新子)など「思いを書く」の大きな収穫だったと位置付けできるはずです。
話をとばします。先日の掲示板に、川柳であることの「自己規定」が個々の作者にあるのかとの問いが、2001年にあったことを書かれました(投稿者 明さん)。
この問題はいまの川柳に、川柳が川柳であるところの川柳性が在るか、とぼく流に翻訳して、胸中、俺の川柳を読んでくれと呟きつつ受けとめました。
けれど、あきらかにこの問題の根幹は「思いを書く」という言葉の曖昧さをこれまで誰も思わなかったところにあります。人情を求めて書くことが川柳であった過去にあります。川柳を「思いを書く」文芸として一括りにしてしまったとき、《共感》に大きく川柳性を負わせたのです。鶴彬もここに居ました。近代から現代への100年間「思いを書」きつづけた川柳でした。
その心的背景には、文学であろうとする純粋な志向も働き、結果的には日常の共感をでることはなかった。いや、極端だけれど「思いを書く」ことが文学性だと思っていた人が多くあったのでしょう。川柳性を気にしなかったのではないのかもしれない。「庶民が思いを書く」ことが川柳だと安易に思っていたのではなかったか、と思われます。
「思いを書く」の問題が立体的で、時を遡る要素を持つと前便に書いたのはこの辺のことですし、さらに詳細に見ればそれぞれの時代に詩性を追求した動きも関わる問題ですね。そして川柳特有の、ひざポン、報告、日記、綴り方、思い、などの言葉の検討の無かったことが付随し、うがちや省略がそれぞれの時代に濃度の違いがあったことが関連し、もっと大きく私性が絡んでいます。
いまぼくたちは一方で「思い」――文学志向を見つつ、一方で川柳性への目配りをしている。
前の世代の革新運動が盛んだったころ、革新的な句を多く書く中村冨二が、一方で句会巡りをして時代遅れの人情や遊戯性に居ると、批判が革新側からあったと聞いています。革新の中核にあった河野春三と交誼の厚かった冨二は伝統色の濃い句会をたのしんでいたのです。春三も冨二も「思いを書」きながら。このへんがこの問題を見る上での面白さかも!!。
明さん。冨二の晩年にちかい頃の風貌は、『大いなる西部』のバール・アイブスを小型にしたような感じでした。春三は晩年、川柳に絶望を感じていたと思われます。
いまから16年前にぼくと松本仁は、春三・冨二を批判的に継承したいなあ、などと話したことがあります。
思えば春三・冨二は、「思いを書く」を、書くべき対象から切り離すことを考えていた途中で亡くなったのでしょう。句がそれを思わせます。
近代川柳が江戸時代の狂句100年の負債を負って「思いを書く」川柳に文学性を意図した。そしてぼく達は「思いを書く」100年のツケを見つめるところに居るようです。柊馬

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