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『in東京』の懇親会で幾人かの方々と話しがはずんだなかで、いわゆる私川柳の話題があった。
三、四十年前に、個性的な句、個性的な表現とされた数々の佳句、とりわけ多くの女性の手になる、生活の中に隠れている情念の表出と、多くの男性の手になる社会性をおびた情念の表出などの句が、いま読めば一般的な思念であり、ほとんど個性を感じないということと、川柳における私性の問題との関わりについてに焦点が絞られたことが嬉しかった。まだまだ短時間の立ち話の話題としては大き過ぎるものだが、このような場ではなかなか川柳の質の話しが出にくいものだと感じていただけに嬉しかった。
時代の変遷の中で階級や階層がかなり均されたことと、正月でも口にできなかったものが目の前のテーブルに並んでいることなどは、川柳の私性についても句の個性についても、いま見え辛い情況であることに関係があるに違いない。そして実は本当に個性というものがあるのだろうか、というところにまで話題が及んだ。いま等し並みに均されている精神性が、個々の顔が違うように句も違うというところにまで至ることができるだろうかと?。いまの川柳のむつかしさがあらためて炙り出されることとなり、自己対象化と言葉というものとの関係が、平凡かつ現実的な問題として浮き出したかに感じられた。(ちょっと喋り過ぎたことを、あの場におられた諸氏、お許しを)
この雰囲気を引いていたので私小説などについて、2次会での松永千秋さんとの会話の焦点が定まった。
ともに『名短篇』(新潮創刊百周年記念・荒川洋治編集長・今年1月発行)を少しづつ読んでいることが前提となっていたので、ここでも話題が絞れて、川崎長太郎にはもうお手上げだと笑い、続いて『死の棘』(島尾敏雄)や武田百合子の随筆の文体に及び、一転『眠狂四郎』『御宿かわせみ』『鬼平犯科帳』を話題に。話題の書物のすべてを共に読んでいるわけでもなく情報交換のようになったが、川柳での私性と表現について考える契機かも、などと思った。
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『in東京』の会場に、できたての『樋口由紀子集』が並べられた。実際、由紀子さんもはじめて完成品を手にしたとのこと。
川柳の歴史を直感的に収斂するような見事な一節が句集のあとがきにあり、セレクションシリーズに並ぶ現代川柳を包括する視線としても説得力のある言葉だと感心――。
その一節
川柳はかぎりなく自由な文芸であったはずなのに、時代時代の読者の要求に従うあまりにその自由を切り売りして発展したところがあります。だれにでもすぐわかり、おもしろおかしく、自分の思いや考えを述べる、確かに読者に望まれた川柳は価値を持ち、多くの人に支持されました。(中略)しかし、それでは川柳の歴史の中で落ち零してきたおもしろさや味を掬い上げることは出来ません。また、川柳は大きく化ける可能性のある文芸です。ピリオドを打たず、コンマを打って次の時代に繋ぎたいです。(後略)
「自由を切り売りして」の見方と口調や「化ける」をとても面白いと感じ、その口調が「繋ぎたいです」という口調と同質であり、同集の句の言葉の出方と地続きであることを思った。句語にある親しさ、一句を書く際の思考回路やその文体を納得させる口調がいみじくもあとがきに象徴的にあるのだ。

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