1965(昭和40)年「川柳平安」5月号
甲賀にて
砦は比叡を焼いた信長の余燼 所ゆきら
砦あと五百戸の町の三角帽子
砦あと見上げる寺の屋根の鬼の鼻
とりであと銀メッキした櫛は比良の連峰
天台から本願寺に改宗した村の伝説
遠い平和
膚の色は金持ちテロリストは地下に 山本 礫
けだものの街に仏はおわす遥かな童話
テロリストへ街の大時計たちまちねむる
おどろおどろにテロの偏平足がゆく
テロの尻尾をはさむ地下への扉
野性ならされ朝ごとの牛乳や 坂根寛哉
ビル仰ぐときにみるみる口渇く
生きることここに蛇口の水がある
靴の泥自縛が深くなってゆく
火の山をたしかに通りぬけている
新撰苑上位
熟睡の象胎内の灯を点けろ 寺尾俊平
君は創造する歳月の皮袋だよ
冷房機にスイッチを入れると軍歌が流れた 山本ひよこ
ブラックコーヒーの匂いが女につきあたる
ほんとうはクラシックの好きな起重機で 定金冬二
おんなの塔に犯すと書いて下げに行く
密林の罠に真摯なものがある 千葉和男
それは操り人形の見事な演技
敗走のこめかみ白く仮死続く 坪井枯川
夜の駅のパントマイムに深く犯され
胎児盾を持ち策略の夜となる 山本祥三
胎動の行く手は冷えた地球のみ
夕焼けに私の生理些細なる 川上湧人
五十六すでに十指を食い潰し
夕やけを貪っている怪童ら 鶴本むねお
少数党の空砲響かず春の天
雑音に死ねる弱さをためてゆく 徳永 操
想い出にぶらさがった手が握手する
空腹へ吏員の笑いつきささる 田中一窓
報復の報復墓標列となる
砂利取りの昼飯魚焼けてます 田中博造
底が上にある空間の平和
殻破れば敵に囲まれている 浜崎貴代坊
非常階段降りると穴があけてある
「熟睡の象胎内の灯を点けろ」「君は創造する歳月の皮袋だよ」と妊娠中の伴侶の像を書いて、寺尾俊平が豊次選に信頼を寄せている。俊平の句と豊次の選に通い合う空気があり、家庭詠を書く豊次の位置取りに俊平の共感があったと思われる。
当時の家庭詠は、生活の一場面を切り取って書かれることが多かった。生活感の切り取り方とかイメージ化に作者の私性開陳のレベルが出たのだが、新撰苑には日常詠や家庭詠に社会への思いを重ねる句が多く寄せられていた。これは社会性川柳の一つのパターン化であったが、初心でせっかちな私など早くそのパターンの書き方を修得したかったことを覚えている。社会性川柳のエピゴーネンになりたかったのだから、思考の幼児性丸出しで、稚拙というより何も考えていなかったのだ。
しかし、すでにベテランの一部では、其処からのレベルアップが考えられていたのだが、その人達は豊次と同世代が多く、主に河野春三に信頼を寄せていたので、新撰苑を傍観していた。
寺尾俊平は家庭詠と社会性の重ね方に柔軟だった。
社会人として生きて行くなかで、個人の情感がすなおに通い合うところは〈家庭〉であるという思いが一般的にあり、豊次も同じであったが、俊平は時代の急な変化のなかでの新しい家庭詠を模索していた。大方の家庭詠が、日常生活の表層を綴り方的になぞる、いわゆる報告川柳にとどまり、一方、社会性川柳での家庭詠も、社会の影響を浴びる個人の社会的感慨を日常生活や家庭に繋いで書くパターンにとどまっていたのである。
投句者俊平と選者豊次の家庭詠についての模索は、家庭の表層の報告や社会問題との結びつきから離れた位相を目指していたと思われる。胸中では革新派であり社会性川柳の推進を望んでいた豊次は、俊平の家庭詠に変化の速い社会状況と個人の心性との関わり、時代の特殊性が含まれるだろうと目算していたかもしれない。
無理を無理と思わせぬ経済の強引な上昇政策下で、民主主義のもたらせた近代的な自我の意識が社会生活のなかに浸透してゆく時節であった。世俗的な新旧の意識の衝突は日常生活のなかで頻発していた。極端に言えば、近代化と現代化が混在して時勢を造っていたのである。俊平はこれを家庭詠の表面から除いた。新旧の対峙を裏にまわして世俗的な衝突も無視、いわばその時節を越えた新しい家庭の精神のリアリティーを採集する方法を思い付いたのである。全面的な創造性が働いたわけではない。むしろ俊平の意識の実景といえる。社会的に造幣局の吏員としてあった俊平個人の独立した家庭、その夫婦の実像を書く、いわば新しい家庭詠への、作者自身のサンプリングによって成ったものである。
これには、俊平の父が早くから政治に関心を寄せた人であり、社会党の江田三郎の近くにあったことなどが関係している。俊平は青年期をリベラルな雰囲気の家庭で過して戦後に流行った無頼派に親しみながら民主主義社会に変わってゆく世の中を見ていたのである。リベラルと無頼を混在させた青年が、お堅い役所に椅子を得たのだ。近代文学と戦後の文学が俊平にどのように影響したかはわからないが、早い時期の句から見れば、リベラルと無頼の風潮が感じられるがモダニズムは感じられない。保革対立の政治状況と吏員の自分という現実から反転したところに川柳があって、初期の素朴な自己表現になったと思われる。
新撰苑での家庭詠が青年期のそれを超えて客体化、離れる傾向を見せているところに、口に出さない現実でのもろもろの深化が推察できる。
堀豊次は、義母と妻子を抱えた染色の職人として働くつましい生活のなかで川柳を書き、新撰苑の選者になっていた。戦後社会の呉服業界の浮沈が、豊次の庶民的な善性と穏やかさに被さって川柳革新の志向を横から煽ったと思われる。暮しのきびしさは、初心の我々の眼に感じられ、世俗臭の濃い川柳界での清貧の人との感があった。
豊次の眼に俊平の書く家庭と家族の様子は、意識的に地続きであっても、現実的に大きく離れたものであった。
オリンピックを成功させた社会状況は、日常生活で例えば、家父長制度について、あるいは名目だけの男女同権や労働環境の悪さ、労働運動の台頭などなど、様々な確執を広く伝播させていた。
新婚家庭が家父長性から離れて独立する。象徴的に言えば、2DKでの生活が新世代の手っ取り早い夢の実現であった。急な団地の造成と家電品の普及が、川柳に書かれる〈家庭〉を新しくさせていたが、生活の表層描写の川柳より、現実の方が感情につよく働く時節であった。石原裕次郎の活躍する映画のそれは、主に、俊平の書く家庭のレベルを舞台にしており、観にゆく観客の大多数は豊次の方にあり、誰もが時々刻々、社会の変貌に参加し続けていた。
むろんこの変化が革命的に家父長制度の心性や前近代的な諸々のしがらみを解消したわけではない。当然、世俗的な相克や妥協や諦念などを負いながらの〈家庭〉の変貌であった。その社会的変容の中で、唯一こころの打解ける〈家庭〉、個人の孤立と個人の存在より仕事が上位に位置するところから振りかえる〈家庭〉であった。豊次と俊平は、時代の相を意識しつつ、夫婦、家族などについて旧習から出たところで考え、新しい情のありかたの実践できる位置を、家庭詠の新しいポジションとしたのであった。同時代的なリアリティーが新撰苑の俊平の川柳にあり、特に夫婦間のもろもろが、読んですぐに読者自身のものと感じさせるリアルなものであった。
「熟睡の象」の句は、旧弊の家族の構造や関係や態様などを気にすることなく、一人の男の妻として家庭にあり、孕んで「熟睡」しているコミカルな「象」のごとき妻が書かれているのであり、それを見ている夫の、「胎内の灯を点けろ」というマンガチックな無言のモノローグあり、父となる男の、胎児への無言の呼びかけとも感じさせる。家という制度から解かれた新しい生活形態が出来て、それに適う認識を持つ一組の夫婦の呼びかけ、「君は」であり、新時代に生きる生命を「創造する歳月の皮袋だよ」というユーモアである。
やや飛躍するが新風を求める傾向は社会に多かった。例えば小説や映画の『青い山脈』に描かれた新しいタイプの女性の名が新子であり、時実新子というペンネームが川柳界に現われたことにも当てはまることであった。
俊平と豊次は、ことあらためて社会性と言わずとも、時代の潮流と庶民生活の関係を庶民史として裏張りする家庭詠のキャッチボールをはじめたのである。
旧来の無感動な家庭詠の氾濫と飽和は、やがて誰かが超えただろうが、俊平のそれは、当時の川柳で決定的に新しかった。しかし、やがて俊平は、新家庭にのみ心身の安息を求める個々人の社会での孤立感や弱さ、仕方なさを知りつつ、家庭詠と併行する独自の社会観を豊次にぶつけることとなる。それは時勢の具体的な源にある世界の政治状況、東西の対立の影響下に生きる一般市民の心性を書いて共感性をキャッチボールしようとする。これを豊次がどのように考えたか――は先のことである。
新撰苑を舞台にするキャッチボールは、定金冬二の川柳にも見られた。戦後の社会状況のなかで、「子がみんな寝てからリンゴ妻が出す」など庶民の生活感情の表現から川柳に入った定金冬二が、現代的な表出レベルに変えて新撰苑にぶつけていると感じることが度々あった。
冬二の川柳観と豊次の川柳観の重なるところには、伝統的な書き方をどのように現在化するかがあった。冬二は持ち前の大衆性を展開、いわば川柳的発想と川柳的表現を新撰苑に向けていた。中村冨二の「川柳に残されたものは技術だけ」云々という言葉は知られているが、この意味で、冬二も豊次も、冨二同様の伝統川柳を書く川柳人であった。さらに伝統的で大衆的な好作家の名を何人も挙げることが出来るが、新撰苑が社会性の濃い革新派の感を持つこともあって、距離をとって川柳界にあったと見えた。
俊平・冬二・豊次らの姿勢は、当時の川柳界からは革新派の姿勢と見られたが、三人ほどの極端さはなくとも、そしてレベルの差が甚だしく見えたのだが、各地の似た姿勢の川柳人が句をぶつける投句欄、やがて、ふあうすと、ますかっと、柳都などの誌上で<第三雑詠>と呼ばれるページの必要性の顕現となったのである。
いわば、本格派と革新派の中間と感じさせる<第三雑詠>という用語の在った時期は短かったが、川柳界から革新へのパイプとしての新撰苑という豊次の目的は、俊平・冬二の句の上位への定着をもって、概ね成ったかに見えた。
しかし、十年も経たぬうち、<第三雑詠>という用語が言い交わされたときには、社会性川柳の行き詰まりと革新派の句の凋落が始まっており、<第三雑詠>という用語は、短い時代の特別な用語として現在では知る人も少ない。
だがオリンピック明けのこの時期、「川柳平安」誌は、一党一派に偏せずという結社の無言裡のテーゼのもとに、同人間の相互批判を控える編集法を活かして、おだやかな総合誌的色合いに向かい、川柳界の大方から活力のある結社誌との印象をもって見られるところにあったのである。

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