昭和39(1964)年「川柳平安」10月号
玉杯ありや一人のボクに一足の靴 山本 礫
無防備で秋を確かに歩いてはいる
錆びた釘打ち信じねばならぬ
何の負債もなきかさわやかなる青年
眼を閉じて無題のテーマと歩け
ヘルスセンターで汗を拭いている喜劇
円画き終わる日はいつたそがれを帰る
下半身が童話の国を歩いている
国境越えるすべなき某夜の怒り
賭けた掌に玩具は今日も鳴らず
御在所山にて
やがて銀化するススキの未熟な冠 所ゆきら
その日の風に意表される四日市の調息
ゴンドラは四次元に吊られ中の十三人
知多半島を彫る零線の白描
琵琶湖が見えるはずの指標に雲重畳
総理のレントゲンを聖火走り抜け 堀 豊次
完敗の庶民を並べ聖火走る
政治家の義眼の中に聖火燃ゆ
聖なる火は燃える弱者は滅びよと
「無防備で秋を確かに歩いてはいる」「歩いてはいる」の「は」が「無防備で」に繋がっている。句の要の「は」。
1964年10月10日。東京オリンピック開会。「川柳平安」は毎月一日に発行していたので、10月号にはオリンピック目前の九月に書かれた句が多く載ったはずである。豊次は聖火とその騒ぎが嫌いだった。国の威信を示すオリンピックという政策、それは「弱者は滅びよ」と世の強弱を分け隔てる「聖火」である。これを国民こぞって歓迎する有り様が、豊次の厭戦の感情にぶち当たったと思われる。「聖火」を嫌う豊次さんの感情が世間ばなしのなかで昂ぶって、聞く方がとまどったことを憶えている。
山本礫の十句のうちに「歩いて」「歩く」などの表現が三句ある。庶民は歩き聖火が走た64年の9月である。
新撰苑上位
火葬場でくるくる舞えり三回ほど 定金冬二
火葬場の人夫が聴いた勲章の会話
汚職は終わらず火葬場の煙突や
きょうはまず皮膚に裏切らせてやろう 山本祥三
皮膚に罪を被せて骨がとことこ逃げる
ネクタイの会話首が重そうだ 服部たかほ
しろい雲だれもだませず歩いて行く
正直な影は虚実のとぼけ役 乾ふたよ
ぬけがらのわたしは昼の月捜す
人道がない自転車を売る店に 川上湧人
フライパン東京を炒る個展する
手すりのある階段は悲劇の序曲 山本ひよこ
鏡を透り抜けて死の影と逢う
疾風となり少年きょうを犯す 坪井枯川
夜の傾斜失意の色の日が登る
俺の分身を煽動に乗せてみる 千葉和男
資本家のペースで見事に踊ってやる
一句組みに
憎しみのおんなをつめる風船買う 長町一吠
プロローグアジアのギニョール鉄砲担ぐ 川村富造
乱読の中に個性を磨き得ず 海地大破
後に読めば、新撰苑の句から社会性が薄れていく時節が来ていたのだが、月々読んでいる慣れのなかでいろいろな句が現われる投句欄との意識があったので、問題視することもされることも無かった。思えば服部たかほの句に常時あった社会性の訴求力が薄れ、冬二や枯川などの常連の句が実人生を見つめて共感を呼ぶ方向を強めていたのである。この方向性が新撰苑のその後の変化となり、投句者に名の知れたひとたちが増えて行くこととなった。つまり新撰苑は社会性を多く書く革新系の色合いを漂わせる色合いから、ごく自然に幅を広げていったのである。
これを豊次がどのように思っていたかはわからないが、川柳は庶民の文芸であるとの認識を示していたことから、庶民的な共感性があれば、社会性の有無に拘らなかったと思われる。この意味で対川柳についての豊次の認識は、川柳の質の向上と文学性志向がどこかですれ違うものであったと言える。しかし、新撰苑に社会性川柳が減ることがレベルを下げることにならなかった。むろん入選した社会性川柳のレベルがとび抜けて高かったのではないが、他の傾向の佳作が増えて、そのレベルに見合う作者が集まり、のちに一頁から二頁に増えてもなおレベルの高い選句欄との感を川柳界に広めて行ったのである。
句会に「五輪ムード」という題がある
関係ないから五輪音頭唄っとく 和男
選手村芝生に大物が寝てる 秀果
最悪の日が近づくように聖火来る 豊次
聖火走っているどこかで誰かが儲けてる 同
工事場へ聖火だんだん近くなる 同
聖火見んならんと七十才の夫婦 子寛
ヒロシマを忘れた頭へ五ツの輪 礫
そこのけそこのけ聖火が通る 幸男
あしおと欄に
「俳句研究」では現代川柳をとりあげて、金子兜太氏などの俳句作家、川柳家側は河野春三、山村祐、松本芳味諸氏らの座談会記事が11月号に掲載されることとなり、川柳と俳句との接点について話題が提供されることとなった。
とある。初心時代の私にとって仰ぎ見る座談会だったが、春三が古川柳から話しを始める姿勢を見せたことが印象的で、あとはまだまだ及び難いレベルの話題だった。ただ、社会性川柳や革新系の話題を展開してくれるだろうと思っていた春三が、古川柳から喋り出したことが奇妙だった。春三の姿勢を理解できたのは後年のことで、いまも川柳味や川柳性の話題になるとこの座談会のことが浮かび出る。理解出来なかったことへの苦笑である。
昭和39(1964)年「川柳平安」11月号
朝に座す日ごとに育つ愛である 坂根寛哉
傾かぬビルに殺されてはならぬ
バス走る都会で弱者たらんとす
凡人のいのち馴らされパイプ椅子
栄光の座が見えているばかりなり
血の流れたしかに罪を追憶す
もう一人歩くひとあり雨へ和す
落日やかつて童話を育てし日
膝のある夜が正確な音をもち
幻想譜やがてはみんな地に帰る
セーターのすき間から幸逃げてゆく 千葉和男
愚痴いっぱいカバンに詰めて父帰る
旗染めるてごろな色が俺にない
青年を狂わせ平和な日が落ちる
夕焼けにビル美しく殺される
音が音を食ってしまって砂漠となった 山本ひよこ
政治をあざ笑う高圧線のたるみ
パッケージにのさばっている植民地
コンクリートで造られた立像の欺瞞
テクトへの挽歌を雑草が生む
能面展より
灰色にめしいて弱法師のひたい髪 所ゆきら
これより自らを絶つ頼政の鼻と眉
ほのほのと春都は遠し孫次郎
朱唇金泥の瞳丸く白き夜を恨み
石にもの言い終わり老いたる小町
切り札にくっきり男の指紋つく 川村富造
夕焼の重さつるはし担ぎ変え
喧騒にぽつんと心浮き上がる
音階をひとつずらしたくらしの灯
6Bで画き足すくらしのあたたかみ
所ゆきらには「石庭」(二十一句で構成)という傑作があり、ほかにも佳作が多く、独特の美に気負いもイヤミもない洒脱な表現のここちよさがあった。この「能面展より」は比類の無い美しさを持つ川柳である。なにしろ川柳は近代化以来私性を書く句が多かったので、アルカイズムやナルシシズムにまみれる美意識を振り撒く例は探すまでもなく並べることができるが、それらの自己陶酔型の美はこの五句の美しさに遠くおよぶものではない。初心時代であったので受けた衝撃の大きさは自己増殖したが、以後、川柳に書かれたアルカイズムやナルシシズムの臭気を判別できる視線を私に備えてくれた。オリンピックの喧騒を離れて能面展の静かな空気に居るゆきらの痩身を思い浮かべると、いまもうれしくなって来る。ゆきらという川柳人が豊次さんと共に初心の我々、川村富造、千葉和男、田中博造らのそばに居てくれたことの喜びは消えない。
新撰苑上位
千円銀貨で歴史を購いに行く気かよ 定金冬二
絶句した男にスイッチを持たせ
おのれへの刺客を放ちしんしんたり
きょうの階段に庶民よ聾せるか 坪井枯川
独りの壁に炎々と私を焚く
いく本かの背骨へ無言劇始まる 服部たかほ
幕があくとカラスばかりだった
琺瑯鉄器に盛られた脆い平和 山本ひよこ
売るものを持たないかまきりの虚構
滅びるは悪魔の住めない魂 鶴本むねお
祈祷師の白衣いつしか兇器となる
体温を残し歴史の譜がちびる 徳永 操
遮断機よお前にわかるものか恋
現代に斬られ転倒する父子 奴田原紅雨
赤札の伴奏エスカレーター昇る
聖火消え方向失いし仮面ら 千葉和男
天窓だけは空を映している
空のあるかぎり歩調は乱すまい 川村富造
背伸びやめたら有刺線瞳の高さ
父と子の視界這う瀕死の蝿である 中村土竜
透明なドラマに賭ける父よ子よ
僕が振るサイコロだけゼロゼロがでる 田中博造
果たされぬ恋腐乱する美しさ
自由席 (通信からの抜粋欄 柊馬注)
坪井枯川(岡山市) 新撰苑欄のありかたに大きなたのしみを抱いています。文学のはげしい自己充足の希い、自己否定の苦悶などがこの場に提示されてこの欄に対する興味は深まるばかりです。毎月全没を覚悟して投句していますが、少しも苦になりません。

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