征夷大将軍といえば、相当位の高い官職と思っている人たちが多い。
が、それは鎌倉幕府の開祖「源頼朝」が正二位 権大納言・右大将に任じられた後に征夷大将軍になっていてからの話です。
そもそも「征夷大将軍」とは蝦夷(えみし=アイヌの人たちの事です)を征圧する将軍という意味です。
アイヌの人たちを征圧して蝦夷地(蝦夷の国という意味です)に大多数を追い払って後に、東北地方に移住した和人(要するに坂東以西に住んでいた人たちです)の事を「蝦夷」と呼んだり「俘囚(ふしゅう)」と呼んで都人はバカにしていました。
第1代の征夷大将軍は大伴弟麻呂です。官位は従四位上です。4人の副将軍の一人に坂之上田村麻呂が任命されています。793年のことです。
坂之上田村麻呂は当時、従四位下で「陸奥守」「鎮守府将軍」「鎮守府按擦使」を兼ねていた。東北地方における要職を全部兼ねている。要するに副将軍の中ではトップだったのです。
東北で起きた蝦夷のアテルイと母主たちの乱の鎮圧のためです。この前に朝廷の官軍は大敗していました。
795年、大伴弟麻呂が死去して、796年に坂之上田村麻呂が征夷大将軍に任じられました。官位は従四位上になっています。
諸々の戦を経て、801年にアテルイ達を征圧しました。
その間にも他に高い官職も兼任しています(東北地方に居ながらです)。
アテルイたちは翌年降伏しています。
アテルイと母主を伴って帰京し、朝廷にアテルイたちを許してやるよう懇願しますが、認められず。アテルイと母主は斬首になっています。
征夷大将軍はこういった蝦夷を征圧するための臨時職でした。
他の役職をしている武官が任じられることになっていました。
この頃は「武士」という概念や言葉はなく田村麻呂のような人は「武人」「軍閥貴族」「武者」と呼ばれていました。
後に田村麻呂は軍功を認められて「左中将」「中納言」「右大将」「大納言」になって官位も従三位、正三位と昇進していますが、征夷大将軍の役目が終わった後でした。征夷大将軍の職は反乱を鎮圧した後、消滅しています。
木曾義仲(源義仲)も征夷大将軍になっています。水島の戦いで平家に大敗して、後白河が頼朝に義仲追討を命じたので危機感から後白河上皇を脅して任じてもらったのです。官位は従五位下のままでした。が、結局は名前だけの征夷大将軍に終わりました。
頼朝が征夷大将軍になった時は、正二位 権大納言・右大将でした。1192年です。
その子「頼家」は従三位、正三位で左衛門督で左中将で征夷大将軍を兼任です。
3代目の「実朝」は幼少で初めての任官でしたので、従五位下で征夷大将軍でした。年功と朝廷に接近したために官位・官職はうなぎ上りで、最終的には正二位 右大臣で征夷大将軍でした。
その後の鎌倉幕府の征夷大将軍は官位はそんなに高い人は珍しく、従五位の将軍もいます。執権が朝廷から与えられていた官位と同じです。。。
足利尊氏は征夷大将軍に任じられた時は、正三位 権大納言でした。
3代目の「義満」は従一位 太政大臣になっていますが、征夷大将軍を息子に譲った後です。それまでは 正二位 内大臣でした。
以降、9代将軍までは 正二位 内大臣で征夷大将軍を兼任していました。
10代目以降の将軍は、権力を握っていた幕臣に早々と殺されたりしていたために官位・官職はあまり高くなかったです。
15代将軍の義明は最初は 従四位下 左中将で征夷大将軍でした。後に、従三位 権大納言になっていますが、織田信長によって追放されたために、昇進はストップです。
明智光秀も織田信長を討った後、征夷大将軍に任命されたらしいです。が、あっという間に秀吉に敗れたので、朝廷は証拠隠滅して事実は闇に消え去りました。
徳川家康は、正二位 内大臣でしたが、関が原の合戦後に、従一位になり右大臣に任じられて征夷大将軍に任じられています。
その後、将軍職を秀忠に譲って、左大臣になり晩年は太政大臣になりました。急病で亡くなる数ヶ月前です。
秀忠も正二位内大臣で征夷大将軍になり、右大臣、左大臣になり将軍職を家光に譲っています。最終的には 従一位 太政大臣になっています。
以降、江戸幕府の征夷大将軍は 最低でも正二位で内大臣を兼ねています。
江戸時代の末期までは幕府・征夷大将軍の権威や権力が強大だったので、征夷大将軍=位が凄く高いというイメージになっています。
鎌倉幕府以降の征夷大将軍は本来の「征夷大将軍」の使命はなくなり、江戸時代では「夷敵を征圧する将軍」という意味になっています。朝敵や日本侵略を目論む外国を打ち払う将軍という意味です。
なお、各々の幕府で征夷大将軍として権勢を振るったのは初代だけか、数代目までです。以降は実際に政務を取り仕切る「執権」「管領」「老中」「大老」などによって実権のない名前ばかりの将軍でした。天皇が藤原北家に権限を奪われたのと似ていますね。
なお、親皇(宮様)が征夷大将軍になった例も数件あります。
鎌倉幕府の第6代将軍「宗孝親皇」と数代後にもう一人。
鎌倉幕府を倒した功績で後醍醐天皇の子「護良親皇」です。
いずれも最期は悲劇的ですが。
というわけで、征夷大将軍に関しての大雑把な記述です。

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