小説『地を潤すもの』  書籍関係

[書籍紹介]

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1980年発刊の本を
2018年6月に再刊したもの。
曽野綾子さんの本は全部読んだと思っていたが、
これは未読だった。

語り手水島譲は、65歳の閑職(顧問)の人。
あることがきっかけで、
弟が死んだシンガポールを訪ねてみようと思い立つ。

譲は、ただシンガポールを訪ねるのではなく、
30年前、軍隊で弟が辿った死までの道のりを
追体験してみようと、
タイ・バンコクからマレー半島を列車と車で南下し、
シンガポールに入ろうというのだ。

弟の水島団は、シンガポール攻撃作戦に参加し、
日本の敗戦後、
現地住民虐殺の戦犯として処刑された。

シンガポールには、
団の婚約者だった菜々枝の息子の真野新平が
偶然赴任していた。
菜々枝は団が帰らなかったため、
他の男性と結婚し、新平をもうけたのだ。
                     
現地で一江という
戦前からシンガポールにいる人と知り合った譲は、
敏腕と人脈のある一江の世話で、
団が罪を問われた住民虐殺の詳細と事件現場を訪ねる。
そして、団が刑死したチャンギ刑務所や
弟ゆかりの地を訪ねていくうち、
事件の意外な真相が明らかになる・・・。

東南アジアに造詣の深い曽野さんらしく、
タイやマレーシア、シンガポールでの
自然や住民の描写が秀逸。
その風土が事件に関わっていることを感じさせる。

それと共に、団の母親に送った手紙を素材に
団の足跡と感じていたことが織り込まれ、
物語に深みを与える。

団が罪に問われた背景には、
シンガポールを日本が占領した後の
架橋への圧政があったことを明らかになる。
団への死刑は、いわば「報復の報復」だった。
しかも、団が罪に問われた原因は、
欧米人が人を呼ぶ時、名前を主に呼び、
日本人は苗字で呼ぶ、
ということが原因だったことも明らかになる。

譲は帰国後、
当時シンガポールにいたある人物に会いに行くのだが、
前に曽野さんが書いた、
アウシュビッツで身代わりになって死んだ
コルベ神父によって助けられたユダヤ人のその後、
という小説を思い出した。

自殺未遂をして入院している菜々枝の存在は、
団がもし、生きたまま日本に戻っていたら、
どんな人生を送ったかを想像させる。
おそらく菜々枝との結婚生活は、
菜々枝の奇矯な性格故に乱されたと思われるからだ。

しかし生き延びたからといって、
団が幸福になるという保証もまた、
どこにもなかったのだ。


人間の幸不幸は分からないものだ、ということだろう。

日本に帰国してからの行動について、
甥の向野はこのように言う。

「おじさんのこころのままにしたほうがいいですよ。
これは誰のものでもない、
おじさんの終戦処理なんだから」


その言葉に譲は気づく。

国家が戦争の後片付けをするという考えは公式論であった。
戦争に限らず人間は、
一人ずつ自分の心理に結末をつけてゆかねばならないのだ。
いかなる社会も、個人の完全な代弁者になることはあり得ない。
私たちは、究極においては、
一人で歩く他はない。


戦争を題材に、
人間の生きることと死ぬことの意味を問う、
やはり曽野さんらしい作品だった。


ノンフィクション『葬送の仕事師たち』  書籍関係

つい先日、
トラピックスが送って来たハガキ↓。

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9月に家族で行った、
香港・マカオ旅行のツァーの案内。
14日に、BSでツアーの様子を紹介するらしい。

ん?

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11月14日って、水曜日じゃ?

制作段階、校正、送付段階、
沢山の人の目に触れながら、
誰も気付かなかった
というのが驚きです。


[書籍紹介]

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誰もが死の瞬間を迎える。
美男も美女も、
高い地位に付いた人も、
功績のある人も
何もなせなかった人も
みんな等しく死を迎える。

そして、その後には、葬送の儀式がついて回る。
我々は葬儀というと、通夜葬式火葬場だけを思い浮かべるが、
それは「表舞台」であって、
その背景には、様々なことが行われていることを
この本は教えてくれる。
しかも、知られざる専門技術だ。

葬送にまつわる専門家たちについてのノンフィクションが、この本。
書いたのは、ノンフィクション作家の井上理津子

目次は、次のとおり。

第一章 「葬儀のプロ」を志す若者たち
      「あの人のような仕事をしたい」
       葬祭ディレクター技能審査
       あの空襲の日に
       座ってお別れ
       かすかな微笑み

第二章 それぞれの「葬儀屋稼業」
       きれいな「ご遺体」ばかりではない
       「イベント業の感覚で」
       とっさに浮かんだ詩
       給料袋が立つ

第三章 湯灌・納棺・復元の現場
       葬儀業界の裏側を知りたい
       モノトーンの「劇場」で
       「神業だ」
       この仕事を続ける覚悟

第四章 エンバーマーたち
       血液を薬液に交換する
       死をひきずらないために
       ベースは黄金率
       別れの時間をコントロール

第五章 火葬場で働く人々
       急がれた火葬場の建設
       点火の後の一時間
       「きれいに焼く」
       最新の火葬炉であっても

第六章 「超多死社会」に向けて
       「尊厳あるシンプルなお葬式を」
       立体駐車場方式
       「思い」をくみ取る
       究極の小さな葬儀とは

斬り込むのは、次のような内容だ。
葬儀の専門学校、納棺師、湯灌師、
遺体の防腐処理をするエンバーマー、
火葬場の職員


葬儀の専門学校で、
その仕事に着きたいと思った動機が
概ね、人生のある時期に出会った葬儀の
荘厳さや温かさだというのは興味深い。
普段の生活では死については考えないが、
肉親の死に触れた時、
人間の死について向き合わざるをえない。
普通はその時だけで忘れるが、
それが職業にまず向かうのは、
その人の感受性によるものだろう。

専門学校で学ぶ内容もすごい。
葬儀概論、受注技法(渉外)、
施行技法(司会、室内装飾、受付・遺送)、
フューネラルビジネス総論、宗教と葬儀、
グリーフサポート、ファイナンシャルプランニング、
フラワーデザイン、フューネラルメイク、
葬祭科学概論、公衆衛生学、微生物学
月曜から金曜まで、朝から夕方まで90分授業が4限。
実習も行う。
とにかく授業で真っ先に認識するのが、
「遺体は時間とともに腐敗する」
という事実だ。

事故や長期療養の結果、
生前の面影を無くしてしまった故人の顔を修復する仕事もすごい。
瞼と眼球の間に綿花を差し込んだり、
開いた口をとざすために、上下の歯茎を糸で縫いつけたり、
唇をアロンアルファで接着したりする。
じきに焼いてしまう遺体になぜ、という疑問に対しては、
残された方が故人との思い出を大切にし、
別れの時を暖かくすごすためだという。

外国の例では、椅子に座らせ,
会葬者と対面しての別れをする例もあるという。

特にエンバーミングがすごい技法だ。
やせこけたり、変色してしまった遺体に
薬液を注ぎ込み、血液を押し出して、
体液をかなりの部分入れ換える作業。
これにより、故人は生前の面影を取り戻すという。
その技法をアメリカから取り入れる過程や
内規を整えるのに時間がかかったという話。
しかし、エンバーミングをされた遺体と
対面する遺族には感謝されるという。

圧巻は、火葬場の職員へのインタビューと現場。
普通、炉に入れてスイッチを押せば、
自動的に火葬が仕上がる、と思いがちだが、
現実は違う。
小窓から中の様子を見ながら、
デレッキという曲がった鉄の棒を差し込んで、
手作業で焼くのだという。

「棺が燃え終わると、
デレッキでまずドライアイスや花、
食品など副葬品を除けるんですね。
副葬品があればあるほど温度を下げるし、
火の回りを悪くするので、
火葬の邪魔になるんです。
私の感覚では、
女性の方が燃えやすくて男性は燃えにくい。
一番手を焼くのが五十代の筋肉質の男性ですか。
火室はまったく力仕事です」


そして、こう言う。

「みんな、どんな家に生まれるか選べずに生まれてきて、
人生がはじまる。
そして辛いことも楽しいことも経験して一生が終る。
その人が火葬炉の扉を越えたら、
家柄も血筋も辛いことも楽しいことも、
全部一緒に過去になる。
お金持ちも貧乏人も、
名声のあった人もなかった人も
みんな平等に全てが無になる。
骨になり、灰になるって」


火葬完了後、「前室」という
炉前と火葬炉の間の空間(そんなものがあるとは知らなかった)
に移動させ、熱をさまし、
台車上の五徳を取り除き、
散らばった骨を拾い集めて、
人体標本のように整えるのだという。
(それも知らなかった)

なお、欧米には、骨上げの習慣がない。
遺族は遺体を火葬場に運ぶと、帰宅する。
遺体は、火葬場の都合のいい時間に火葬され、
遺族は2〜3日後に「灰」を受け取る。
遺骨にこだわるのは、
日本ならではのようだ。


チリの映画にその場面が出て来て、
「ホントかね」と思ったが、事実のようだ。

アメリカで学んだエンバマーは、こう言う。

「亡くなった人への『愛』はアメリカも日本も同じですが、
ご遺体に対する執着が異なります。
日本にはご遺体に寄り添うのが愛、みたいな感覚があるけれど、
アメリカではご遺族は病院で手続きが終るとさっさと帰宅し、
次にご遺体に会うのは数日後の葬儀の日なんです。
ご遺体を家に連れ帰る習慣もなければ、
葬儀までの間に故人に会いに来る人もいません。
カルチャーの違いだと思います」


本書を読んでつくづく感じるのは、
これらの仕事に携わる人が、
遺体を「モノ」として扱っている人が皆無なことだ。
宗教がある人もない人も、
人が死ぬという荘厳な事実を厳粛に受け止めている。
遺体の顔を修復する人も、
エンバーミングをほどこす人も、
遺体に話しかけながら、生きている人のように扱う。

遺族が水を含んだ脱脂綿で故人の手や足を拭くときは、
「皆さん、ひと言ふた言、心の中で越えをかけてあげて下さい。
その際に、悲しい、残る、の二つの言葉は
避けてさしあげてくださいね」


と言うのだという。

ある霊柩車の運転手は、
「コップの水をこぼさない」運転をこころがけているという。
実際乗せてもらうと、加速も減速も全く分からず、
車線の移動も体感ゼロ。
ブレーキをいつかけたかも分からず、
コップの水はこぼれなかった。

団塊の世代が80歳代になる2027年以降、
死者の数は増加の一途を辿る。

これからの葬儀だが、
昔のような「ぼったくり」の時代は終わり、
葬儀が小さくなる傾向があるという。
通夜をはぶき、告別式と火葬のみを行う一日葬
家族だけで営む家族葬
病院から火葬場に直行する直葬などが増え、
費用がかからない葬儀に向かっている。

そもそも、昔の葬式は「葬列」で、
それが霊柩車の利用で葬列がなくなり、
棺は昔、祭壇の3段目に組み入れられていたのが、
「顔を見られるように」祭壇の前に置かれるようになった。
葬儀も時代と共に変化する。
だから、「葬儀社の言う“常識”は疑ってかかれ」だという。

生と死の境目にたずさわる人々の言葉は重く、深い。

最後に一人のエンバマーの話。

「自分と同世代の人をたて続けに二人、
施術したことがあったんです。
一人は長い闘病の末にやせ細って亡くなった人。
もう一人は自殺した人。
二人とも、たぶん僕と同じ音楽を聴いたり、
同じアイドルを好きになったり、
同じドラマを見たり、
同じ時代の空気を吸って生きてきたんだと思うと・・たまらなかった。
気がつくと、闘病の末に亡くなった人には、
『すごく頑張ったなあ。えらかったなあ』、
自殺した人には、
『なんでもうちょっと頑張れなかったんだ。
生きたくても生きられなかった人もいるんだぞ』と、
施術しながらぶつぶつ言っていました。
生きるって、死ぬって、
どういうことなんだろうと
いろいろ考えさせられたんです。
病気と闘って死んだヤツ、
自分で死んだヤツ、
ここに生きている自分・・・。
それまでは、人は生きているのが当たり前で、
死ぬのが特別なことだと思っていたんですが、
逆に、生きるってすごいことだ、
ありがたいことだと思うようになったんです・・・。
うまく言えないけど、
死にたいというヤツがいたら、ここにおいでよ、死体をご覧よ、
僕らがエンバーミングしているのをご覧よって思う・・・。
少なくとも、エンバーマーはこの人のことを必死で考えているんだ、
この人は一人じゃないでしょ、って。
人はいずれ死体になるのが当たり前だから、
生きることがどんなにありがたいかわかるよって」


類書に、
外国で亡くなった方の遺体を受け入れて、
処理し、遺族に届ける人々のことを書いた
↓「エンジェル フライト」がある。

「エンジェル フライト」


小説『ファーストラヴ』  書籍関係

ヘルシンキから帰国した娘は、
グランプリ・シリーズの録画したものを観て、
感激を新たにしています。
現場にいた者だけに許される特権です。

↓は、羽生選手とのツーショット
金髪のお姉さんの頭の上に写っているのが、娘。

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この角度のカメラでは、
随分写っていました。

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[書籍紹介]

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直木賞受賞作

主人公の真壁由紀(まかべ・ゆき)は、
テレビ出演もこなす新進の臨床心理士。
その由紀に、聖山環菜(ひじりやま・かんな)という女性の半生を
臨床心理士の視点からまとめる、
というノンフィクション執筆の依頼が舞い込む。   
環菜は、その頃、世間の話題にのぼっていた
殺人事件の犯人だった。

アナウンサー志望の女子大生が、
キー局の二次面接の途中で辞退し、
帰路に包丁を買って、
父親が講師を務める美術学校を訪ね、
女子トイレで父親を刺殺して、
多摩川沿いを血まみれで歩いていたところを逮捕された、
という事件だ。
父親が高名な画家であったこと、
環菜が美人であったことから、
マスコミの注目を浴びていた。

環菜の国選弁護士として付いた庵野迦葉(あんの・かしょう)は、
由紀の夫の我聞(がもん)の血のつながらない弟で、
由紀は取材のために迦葉と接触した。
実は、由紀と迦葉は大学の同期で一時期恋人だったことがあった。
そのことは夫の我聞には隠していた。

由紀は環菜と面会し、
カウンセリングの形を取りながら、
環菜の心の中に入り込もうとする。
拒絶と容認を繰り返しつつ、
環菜は由紀に心を開きつつあった。

大学時代の環菜の恋人や
小学生だった時、父の絵画教室でモデルをつとめ、
男性の視線にさらされていたこと、
自傷行為を繰り返していたこと、
が判明し、
環菜の母親、
環菜の親友、
環菜が小さい時に関係を結んだ男性、
などに接触するうち、
由紀は環菜の子供時代に何か重大な問題があり、
母親との間にも問題が横たわっていることを推測する。

やがて、裁判になるが、
それまでの供述を翻し、
環菜は殺人ではなく、事故だったと主張し始める・・・

という話に、由紀と父親、母親との確執、
迦葉の母親との軋轢などが浮き彫りになり、
環菜との関係を通じ、
由紀も迦葉も自分の人生の問題と立ち向かうようになる・・・

それを通じて、「家族」という名の迷宮を描く、
というのだが・・・。

小説の中にメンヘラという言葉が出て来るので、
調べたら、
「心の病気を患った人」を指すネットスラングで、
「精神疾患・精神障害を持つ人」という意味。
「メンタルヘルス」(心の健康)という言葉が
匿名掲示板の2ちゃんねるなどで「メンヘル」と略されるようになり、
さらにそれに -er形がついて「メンヘラ」という言葉が生まれた。

つまり、この小説は、
心の病気を患い、事件を起こした女性の
過去を探り、事件の遠因を明らかにする、
という内容。

読んでいて、
アメリカ映画によく出て来るシチュエーションだと感じた。
日本より精神分析医や臨床心理士が多いアメリカでは、
こういう話がよくあるのだ。

弱々しい印象だった環菜が
裁判になった途端、何だか強くなるのは、
ちょっと意外に感じた。
それに、父の死の真相も、
ちょっと無理筋ではないか。

それについては、迦葉の言葉が重い。
裁判では主張を変えたことで心証が悪くなるが、
「事件の背景が隠されたままのほうが良かったなんてことはないよ」
と言う。続けて、
「たとえ刑期が多少短くなったところで、
納得いかない理由を押しつけられた記憶や理不尽は
死ぬまで残る。
どっちが幸せかなんて言い切れないしさ。
本人が納得いくようにやるよ」

ただ、裁判員裁判にもかかわらず、
裁判員の反応があまり描かれていいないのは何故なのか。
そもそも、環菜のようなトラウマを抱えた人格の持ち主が
局アナになろうとするなど、あり得るのだろうか、
という疑問は残る。

また、登場人物の大半が
家族関係に問題を抱えている、
というのも作られた感じがする。

こういうジャンルに斬り込んだ著者の着眼点は認めるが、
あまり納得いく内容ではなかった。

正直言って、これが直木賞?
という印象が強く、
最近の直木賞候補のレベルダウンが選ばれた原因であると共に、
選考委員もこのジャンルに戸惑ったのではないか。

選考委員の評価。

北方謙三
抑制が利いて、行間が豊かだと感じた。
闇を、ゆっくりとまさぐり、かき分け、
気づくと、人の心の奥底に眠る、
真実というものに手が届くかもしれない、という快感がある。

宮城谷昌光
理不尽あるいは不条理とむきあう者は、
その対峙する時間の経過のうちに、
自身がかかえている理不尽、
不条理の解明がなされるか、
潜在的なそれらが浮上するというのが、
小説の原理におけるふりあいというものである。
この作品ではある程度それはなされているとはいえ、
構成的明確さに欠ける。
小説全体がもっている質感はかなり佳い。

浅田次郎
受賞に異論はない。
ページを繰るたびに、才能のしずくがこぼれ落ち、
香気が立つような気がした。
それでも本作を強く押せなかった理由は、
構造上の疑問であった。
このストーリーを一人称で支えるのはつらい。

桐野夏生
全体的に薄味な印象だ。
いつも感じるのは、作者の心の裡にある、
異性との間に生じる違和感やトラウマの存在である。
決して声高には言えない、そのヒリヒリした痛みと躊躇いは、
若い女性の共感を呼ぶことだろう。

東野圭吾
主要登場人物の大方が
深い精神的外傷を引きずっているというのは、
ちょっとやりすぎではないか。
ミステリ的には、警察ではどう供述したのか、
犯行の再現はどう為されたのか、といったところを指摘したくなる。
しかし迦葉と我聞という兄弟の関係はよく描けているし、
作者の都合で人物を動かしていない点に好感が持てたので、
今回はこの作品を○とした。


林真理子
私は強く推すことが出来なかった。
精神科医でもジャーナリストでもない臨床心理士が、
判決の出ていない殺人事件について本を書こうとするのが不自然。
「女子アナウンサーの試験を受けた日の殺人」というのが
キーワードになっているが、
女子アナは自己肯定のカタマリのような職業。
殺人者のキャラクターとまるで合っていないのである。

高村薫
「文章がいい」という声が多かった。
結局、最後に残るのは、現代の都市生活や働く女性の、
ありがちな空気感だけなのだが、
「文章がいい」本作の好感度の高さの正体は、
この現実感の無さなのだろうか。

宮部みゆき
残念ながら私の感覚はこの「ファーストラヴ」という作品世界に
合わなかったらしく、支持できなかったのですが、
体温に近いような酷暑のなかで、
この物語に浸っているときに覚えた冷ややかな恐怖と閉塞感、
作中で暴かれてゆく秘事への嫌悪感には
忘れがたいものがありました。

伊集院静
作品のテーマ、構成、展開、登場人物それぞれの存在感、
そして何よりこの作家だけが持つ、
どのセンテンスからも伝わって来る叙情の込もった文章が、
今回の候補作の中で群を抜いていた。
とくに本作で感心したのは主人公・真壁由紀から感じられた、
内面に潜む、戸惑い、不安の表現であった。


評論『逝きし世の面影』  書籍関係

娘がヘルシンキのアイスホールから写真を送ってきました。

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4列目通路側とは、↓の白いマークの席。

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角度からして、テレビには写りそうもありません。

松岡修造サンもいます。

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演技が終わった後、娘に電話。
羽生選手のインタビューを聞かせました。


[書籍紹介]

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著者の渡辺京二氏は、京都府出身の日本近代史家。
法政大学社会学部卒業。
書評紙「日本読書新聞」編集者、河合塾福岡校講師を経て、
河合文化教育研究所主任研究員。
熊本大学大学院社会文化科学研究科客員教授。

「逝きし世」とは、
徳川末期、明治初期の日本にあった「文明」
(「文化」ではなく、「文明」と称する)のことで、
開国と西洋文化と工業化の波の中で、
いつの間にか失われてしまった日本人の在り方を
哀切をこめて綴る。
しかも、それを描くのに、
当時日本を訪れた外国人の手紙、論文、エッセイを膨大に集め、
分析し、引用する、という方法を取る。
対象文献は120を越える。
そして、こう書く。

文化は残るかもしれないが、文明は滅びる。

モースという動物学者は帰国後、
腕足類の研究に執着していた時、
共に来日したことのある日本美術蒐集家であるピゲロウの勧めで、
「日本その日その日」を書いたのだが、
そのピゲロウの説得の言葉がすごい。

腕足類などは溝へでも棄ててしまえ。
君と僕とが四十年前親しく知っていた日本という有機体は、
消滅しつつあるタイプで、
その多くはすでに完全に地球の表面から姿を消し、
そして我々の年齢の人間こそは、
文字通り、かかる有機体の生存を目撃した最後の人であることを、
忘れないでくれ。
この後十年間に、
我々がかつて知っていた日本人は
みんなベレムナイツ(化石としてのみ残る頭足類の一種)のように、
いなくなってしまうぞ。


目次は、

ある文明の幻影
陽気な人びと
簡素とゆたかさ
親和と礼節
雑多と充溢
労働と身体
自由と身分
裸体と性
女の位相
子どもの楽園
風景とコスモス
生類とコスモス
信仰と祭
心の垣根


外国人の目に写った、当時の日本はどう見えたか。

明治期の有名なジャパノロジスト、チェンバレンは、このように書く。

古い日本は妖精の住む小さくてかわいらしい不思議の国であった。

また、このように書く人もいる。

世界にはまだこのような夢のような場所が残っていたのか。

日本の地を初めて踏んだ欧米人が最初に抱いた印象は、
国民が満足しており、
幸福であるというものだった。
いつも上機嫌で、笑い、
世の中に悲哀など存在しないかのようだ、と。
遊び好きで、何でも楽しんでしまう気質がある、と。
そして、こう書く。

日本には、貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない
          
その理由として、渡辺が挙げるのは、こうだ。

日本人の表情に浮かぶ幸福感は、
当時の日本が自然環境との交わり、
人びと相互の交わりという点で
自由と自立を保証する社会だったことに由来する。


そう思うのは、西欧においては既に産業革命が始まっており、
それによってもたらされた人間関係の破綻
まだ日本には押し寄せていなかったからだという。
民衆は豊富な自然によって耕作し、
豊かな実りの中で、親和的な生活をしていたからだと。

当時は徳川体制。
西洋人から見れば、専制政治のもとの生活であるはずだ。
しかし、当時の民衆と支配層とは隔絶しており、
市民たちはその階層とは別個に自由を享受していたのだ、と。
言われてみれば、そうかもしれない。

日本を天国のように見る感想は、
単に日本を初めて訪れた異国、という経験からではない。
来日外国人は、他の様々な国を訪ねており、
最後に行き着いた日本を「天国」と称しているのだ。

その念頭には、中国という対照があった。
中国の不潔、気質、自然全てが
日本と対照的だったのだ。

そして、置いておいた財布などが
全く手をつけられずに存在する、
今の日本にも通じる良さに感嘆したりする。
中国だったら、すぐに盗られるのに。

礼節を守り、親切で、深い情愛で守られた社会。
そして、職人の美意識で作られた様々な調度品の素晴らしさ。

日本の職人は本能的に美意識を強く持っているので、
金銭的に儲かろうが関係なく、
彼らの手から作り出されるものは
みな美しいのです。


と外国人婦人は述べる。

ただ、外国人が驚いたのは、
日本には混浴の習慣があり、
往来から見える場所での行水など、
裸体を恥ずかしく思わない点だった。
それを淫蕩と見るかどうかだが、
西洋のキリスト教概念からすれば不埒に見えるそれも、
アダムとイヴ以前の人間の姿、
肉体という自然に罪を見出していない、
と見ることも出来る。
しかし、西洋人の指弾によって、
混浴そのものも失われていく。

また、日本を「子供の楽園」と感じた外国人も多い。
町中で遊びまくる子供たちの姿は、
幸福そうだ。
そして、子供を叱らない親、
子供を大切にする親たちの描写。
しかし、子供は礼節を忘れないように育てられている。

日本ほど子供の喜ぶ物を売るおもちゃ屋や
縁日の多い国はない。


という記述した本もある。

外国人の一人は、屋敷の召使の子供二人を連れて
夜市を散歩した時のことを
このように書く。

十銭ずつ与えて
どんな風に使うか見ていると、
その子らは地面に坐って悲しげに三味線を弾いている貧しい女、
すなわち乞食の前に置かれた籠に、
モースが何も言わぬのに、
それぞれ一銭ずつ落とし入れたのである。


欧米人たちに日本を楽園と感じさせた要件の一つが、
恵まれた自然の美しさだった。
数々の著作が日本の自然の美しさを讃える。
四季があり、季節に応じた花が咲く。
その自然の景観に魅了される。
特に江戸に住んだ外国人は、
江戸が田園都市であると述懐する。
そして郊外に行った時の景観の美しさに呆然とするだけでなく、
その中で暮らす日本人の自然との親和ぶりを讃える。

日本人は何と自然を熱愛しているのだろう。
何と自然の美を利用することをよく知っているのだろう。
安楽で静かで幸福な生活、
大それた欲望を持たず、競争もせず、
穏やかな感覚と
慎しやかな物質的満足感に満ちた生活を
何と上手に組み立てることを知っているのだろう。


そして、農村の美しさについては、こう言う。

日本の農民にあっては、
美的感覚は生まれつきのものなのだ。


そして、自然を楽しむために、行楽に出かける日本人の姿に
感動する。

日本の市民の最大の楽しみは、
天気のよう祭日に妻子や親友といっしょに
自然の中でのびのびと過ごすことである。


自然だけでなく、花が大好きな日本人も称賛する。
また、生き物に対して大切に扱う姿も讃える。
キリスト教的な
被創物の頂点に人間を置く思想とは異なり、
牛馬は家族の一員であり、
池に泳ぐ魚や亀さえも愛情を注ぐ存在なのだ。

その滅び去った文明は、
犬猫や鳥類をペットとして飼育する文明だったのではない。
彼らはペットではなく、
人間と苦楽をともにする仲間であり
生をともにする同類だった。


外国人から見ると、
日本人は信仰を持たない民族のように見えたらしい。
特に武士階級はそうで、
寺や神社に詣でるのは、貧民と女性ばかり、
と書いてあるものもある。
しかし、自然の中に共存し、自然の中で育む
日本人の宗教意識は外国人には理解できないだろう。

しかし、明治に入り、
西洋化の波が押し寄せて来るにつれて、
こうした日本人の気質は失われる。
それは、ごく自然に、
全く意識しないで喪失する。
何かを得れば、何かを失う。
近代化の代償で失った人々の心・文化は大きい。

ただ、今の日本人の中には、
当時の面影が若干は残っていることを感じる。

この本はそうした日本人像を
来日外国人の目というフィルターを通じて描く、
たいへんな労作である。

お寺での月例会での講和、
雑誌への掲載、
熊本短期大学での講座、
「週刊エコノミスト」での連載などを経て一冊にまとめられたこの本、
B5より少し大きな体裁で500ページ近い。
読むのは大変だったが、
示唆に富む、内容の濃い著作だった。
1999年度和辻哲郎文化賞受賞
「日本近代素描」の「1」だというから、
続きがあるに違いないが、
続編が出たという話は聞かない。
著者は既に88歳
もはや無理だろうか。


小説『宇喜多の楽土』  書籍関係

今日は、午後から神宮前、つまり、原宿に出掛け、

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ビルの地下へ。

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このホールでコンサートです。

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昔、私はクラシックの演奏家たちと交流した時期があり、
その流れの人々の演奏会。

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音楽というものは、
「無」から「有」を誕生させる仕事で、
その瞬間に立ち会う思いをしました。


[書籍紹介]

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「宇喜多の捨て嫁」で、
戦国時代の中国地方の武将、宇喜多直家を描いた著者が、
その息子宇喜多秀家を主人公にしたのが本編。

「宇喜多の捨て嫁」の本ブログでの感想は、↓をクリック。

「宇喜多の捨て嫁」

直家の死で、わずか11歳で家督を受け継いだ秀家が、
父の遺志を継いで、干拓に力を注ぎ、
民衆の安堵を求め、「楽土」を作ろうと努力する。
しかし、戦国の世は、そんな理想の実現は許さず、
隣の毛利家の脅威に常にさらされ、
秀吉に重用され、いやいや朝鮮出兵に付き合わされ、
家臣たちの不統一に悩まされ、
豊臣政権の五大老となり、
秀吉の死後、政争に巻き込まれ、
関が原では秀吉への忠義を貫いて西軍に与して敗走、
人々に助けられて命拾いした後、
八丈島に流され、流人としての生活をするところまでを描く。

秀家の人となりは、温厚で優しい人物として描かれている。

秀家の肖像画↓に見られるように、
知的なインテリである。

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たとえば、落ち武者狩りで捕まった武士を
密かに短剣を渡して逃がしたりする。
秀吉の養女、豪姫とのむつまじい夫婦関係も心地よい。
だが、戦国時代を生き延びるには、
冷酷さが欠けており、
それは従兄の宇喜多左京亮と対照的で、
常に左京亮の存在に脅かされる。

そして、秀吉晩年の愚かしさや、
徳川家康の腹黒さや小早川秀秋との確執に翻弄される。

「宇喜多の捨て嫁」のような強烈さはなく、
温和な武将の生涯としては、平凡な描き方。
最後に八丈島で「楽土」のような生活を送るが、
それも個人的な安寧であって、
宇喜多の地と民の安寧とはほど遠い。

戦国時代に生を受け、
二代目武将として生きるには、
あまりにも優しい人格の悲劇
ともいえるもので、
そうした切り口が鮮明に描かれたら、
もっと面白い読物になっただろうが、
全体的に平凡な印象。
主人公の魅力も欠け、
話も歴史的事実に則しており、
読む気持ちがあまり進まなかった。

秀家の悲劇は、
徳川家康に
「流れには、抗わぬ方が身のためですぞ」
と忠告されながら、
「この生き方は変えられませぬ」
と言った一途さで、
戦国時代を生き延びるには、
生まれた時代が違ったとしかいいようがない。

それにしても、戦国武将の生き様は
権謀術数に次ぐ権謀術数と、
陰謀と裏切りへの猜疑心ばかりで、
平安とはほど遠い。
まだ法治国家にはなっていないから、
権力者の一存で命も奪われ、
家の安泰のために無理難題も断れない。
あの時代に生まれなくてよかった。

なお、秀家は関が原を戦った武将の中では
最も長生きをし、
没した時は83歳で、
既に徳川4代将軍家綱の治世だった。
なにしろ、八丈島には50年も在住
元和2年(1616年)に刑が解かれ、
前田利常から10万石を分け与えるから
大名へ復帰したらどうかとの勧めを受けるが、
秀家はこれを断って八丈島に留まった、とも言われる。
まさに秀家にとって、八丈島は楽土だっだのだ。

豪姫は、こう言う。

「豪も、いつの日かお館様と──
八郎様と平穏な暮らしを送りたいと思っていました」

今度は、キリシタンでありながら、
殺戮の限りを尽くす宇喜多左京亮
主人公にした作品を書いて、
「宇喜多三部作」としてほしいものだ。

「宇喜多の捨て嫁」に続き、直木賞の候補になったが、
受賞には至らなかった。
選考委員の評は、辛い。

北方謙三
殿様の甘い理想と、血で血を洗う時代の峻烈さが、
うまく絡み合っている。
理想の非現実性が扱われているが、
それが切実なものとして迫ってこないのが、
小説的欠点ではないだろうか。
秀家の楽土は、流された島であろう。
それが幕藩体制のなにを照らし出したのか、
そんな物語を読んでみたかった。

宮城谷昌光
読後感にはいくつか不満があった。
小説内の事象が増大したものの立体化しなかったといううらみがある。
また歴史小説としての風趣もけっして佳いとはいえない。
とはいえ、この種の小説を書くために、
どれほどむだなことを学ばなければならないかと想えば、
作品を評する場合、かんたんに否とはいえない。
私は真摯に努力する人の味方になりたい。

浅田次郎
どうして時代にそって書いてしまったのだろう。
平穏な島暮らしをフレームとした懐旧譚ならば、
けだし傑作になりえたろうにと悔やまれた。

桐野夏生
史実を忠実に追っているだけで、
「宇喜多の捨て嫁」のように、
自由闊達に想像され、動き回る人物がいないのが寂しい。
これは余計なことだが、
八丈島で暮らした秀家の人生を描いた方が
面白かったのではないだろうか。

東野圭吾
前作に比べると全体的にインパクトに欠ける。
主人公をはじめ、登場人物たちに魅力が乏しい。
エピソードも小粒で、歴史的事実を超える面白さがない。

林真理子
達者な書きっぷりと宇喜多への愛は、
とうに当選圏内なのであるが、
今回はあまり魅力を感じなかった。
主人公の優しさが、次第に歯がゆいものとなっていくのである。

高村薫
外連味が身上の時代小説の小説作法と、
華々しさに欠ける宇喜多秀家という題材のミスマッチが、
小説の完成度の低さにつながったのかもしれない。

宮部みゆき
「宇喜多の捨て嫁」があまりに斬新で力強かったので、
「楽土」は(技術的にはさらに成長しておられるのですが)、
優等生的にまとまって見えてしまい、
強く支持することができませんでした。

伊集院静
この時代の小説の総論を読まされている気がして、
以前のような氏だけが持つ
破天荒な歴史観が影をひそめているように思えた。






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