映画「靴ひも」  

[映画紹介]

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イスラエル映画
ヘブライ語でセリフが語られる。

ルーベンは従業員が自分を含めて二人という
小さな自動車整備工場を営んでいるが、
彼に一本の電話が入る。
30数年前に別れた元妻が事故で亡くなったというのだ。
葬儀にかけつけたルーベンは、
一人残された息子のガディと再会する。
38歳のガディは発達障害で、
普通の就職は出来ない、自称音楽家。
施設が空くまでの間、
ルーベンが引き取ることになる。
この障害者独特のこだわりの数々に戸惑うルーベンだが、
次第に二人の間に絆が生まれ始める。

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ルーベンには、罪意識がある。
生まれたガディが障害児だと分かった途端に、
酒に溺れ、家に帰ることが遅くなり、
ついには、妻と息子を棄てたのだ。
もはや中年になった息子の行く末を案ずることは、
自分の罪滅ぼしになると考えているようなところがあり、
少しでも良い施設に入れるように探しまくる。

そんなルーベンに末期の腎不全が発見された。
透析をしていては仕事に差し支えるし、
根治するには腎臓移植しかない。
提供を申し出る人の血液型は合わず、
利己主義者の弟からは、中国人の臓器を買えと言われる、
最終的にガディが提供を申し出るが、
「36年も無視してきた息子から
臓器なんかもらえない」
とルーベンは拒む。
その上、「被後見人は臓器提供ができない」という
法律の壁が立ちふさがる・・・

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35年も離ればなれに暮らした息子が
突然生活の中に侵入して来る。
その戸惑いは想像を越えるものだろう。
その上、かつて棄てたという罪意識に責めさいなまれる。
その父親像をドヴ・グリックマンが魅力的に演ずる。
本当にうまい。

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ガディを演ずるのは、ネヴォ・キムヒで、
生まれつきの障害を辛く思うのでもなく、
悲しむのでもなく、
受け入れて奔放に生きる姿を見事に演ずる。
彼にとっては、自分は
「特別な支援を必要としている人」というだけなのだ。
同じ冗談を口にし、
女性を見ると「恋人いる?」
と口説く明るさだ。

この二人に、ケースワーカーの女性や
近所の食堂のおかみなどが彩りを添える。

題名の「靴ひも」は、
ルーベンが審査官の前で、
靴ひもを結べるかどうかを試される行為を言う。
3回出て来て、3回とも違う結果を生む。

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障害者と離婚と臓器提供と、
かなり深刻な話だが、
終始、明るく、ユーモラスに描かれる。
このあたりが、まさに手練で、
監督はヤコブ・ゴールドヴァッサー。
自分自身も障害のある息子の父だ。
イスラエルで報道された
実在の父子の臓器移植にまつわるエピソードを基に描いた。

2018年イスラエル・アカデミー賞を席巻し、
ドヴ・グリックマンは助演男優賞を獲得した。

悲しい話なのだが、
「読後感」はすこぶる良く、
心が暖められる。

5段階評価の「4.5」

予告編は↓をクリック。

https://youtu.be/jTJnngIBEn8

渋谷のシアター・イメージフォーラムで上映中。


『死ぬときに人はどうなる 10の質問』  

[書籍紹介]

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10の質問とは、次のようなもの。

1 死を語るあなたは何者ですか?
2 死ぬときに人はどうなりますか?
3 人はどんな風に思って死んでいくのでしょうか?
4 人は死期を悟るのでしょうか?
5 健康に気をつかっていれば死ににくいですか?
6 なぜ死を見つめることが必要なのですか?
7 死後の世界について言い切らないのはなぜですか?
8 孤独死は不幸でしょうか?
9 死とは不幸ですか?
10 死をも左右する力を手に入れた人間は、本当に偉いのでしょうか?

著者の大津秀一氏は、
ホスピスで主に高度進行期・終末期がん患者の心身の苦痛を和らげる
「緩和医療」を行っている現役医師。
これまで2千人以上の患者を看取ってきた経験から
書いたのがこの本。
「死ぬときに後悔すること25」の続編に当たる。

人は誰もが死ぬ。
どんな業績のある方も、
素晴らしい会社を経営し、
大きな社会的影響を果たした人も、
最後は衰え、死を迎える。
死を免れた人は、歴史上、誰もいない。

事故死など不慮の死に方をした以外は、
病気で、医者の手にかかる。
その死に方を大別して3種に分類する。

1つ目は、最後の2か月くらいで急速に機能が低下するタイプ。
代表例はがん。
2つ目は、悪くなったり、戻ったりをくり返しながら
徐々に機能が低下し、
最後は比較的急な経過をたどるタイプ。
代表例は心疾患や肺疾患の末期。
3つ目は、機能が低下した状態が長く続き、
ゆっくりと衰えていくタイプ。
代表例は認知症や老衰。

特に、がんで死ぬ場合は、
急激に悪くなるので、
その衝撃は大きい。

残りの余命が数週間になった時、
人はどうなるか。
全身倦怠感。つまりだるさ。
やがて歩けなくなる。
これが患者にとっては一番辛い。

だからこそ、人は動けるうちに、
いろいろなことをしておかなければいけないと思う。
                                                     
と筆者は書く。

その段階でも、

頑張れ、歩けるようにならなくちゃと叱咤激励する
家族・医療者も少なくなく、
「希望」ということについて考えさせられる。
実現不可能なことを可能だと表現し、
あるいはそれに向かうように励ますより、
上手に現状を受け止められるように動くのも
大切なしごとなのだと思えてならない。
本当に難しいことである。


やがて、余命が週から日の単位に進むと、
寝ている時間が増えて来る。
体力が低下するので、そうなる。

むしろはっきり起きていると、
身の置きどころのなさを感じる場合もあるので、
眠っているのは
患者さんにとってそれほど苦痛ではないようだ。


余命が数日になると、
会話や応答の障害があらわれてくる。
寝たきりとなり、
ほとんど排尿、排便も困難となり、
おむつ等のお世話にならなければならなくなる。
見舞いに来た家族も、患者が寝っぱなしなので、
張り合いがなくなるが、
それでも家族はいた方がいいのだという。

たとえ患者の反応が一見なくとも、
家族が傍らにいることはとても大切だ。
反応がなくても、
患者は家族の存在を感じ取っているのではないか、
そう思える事例はたくさんある。
辛くても、なるべく患者のそばに足を運び、
そっと語りかけ、あるいは触れてあげてほしいのだ。


死の直前は、意外や苦痛は少ないという。

死の直前は、一般的に苦しくないと言っていいようだ。
自然に苦痛を自覚する感覚は失われ、
眠っているような状態となることで、
苦痛を回避しているものと思われる。
永久に眠る「永眠」の前段階の眠り、というところだろう。


死ぬ時は、苦しくない
というのは、大変救われた思いがする。
私見だが、私は死ぬ時は、
苦痛を和らげるような物質が脳から出て、
夢を見るような状態になるのだろうと思っている。
何億年もかけて進化した生物だ、
それくらいの装置は作り上げているだろう。

医者が死を宣告するタイミングが難しい、
と筆者は書かれている。

ご家族が患者の死をまだ受け入れられない間は、
「頑張れ」「死ぬな」「行かないで」「しっかり息をしろ」
などと呼びかける。
しかし、部屋の空気が変わる瞬間がある。
「よく頑張った」「もう頑張らなくていいよ」
「今までありがとう」「あとは僕たちがしっかりやるから大丈夫」
と声かけの内容が変化するのだという。

こどもたちを残してしななければならない時、
「私が病気になって死ぬのは、
決してあなたたちのせいじゃないのよ」
と告げることが必要だという。
残された者は、
たとえば母親の死に、
「自分のせいで死んだ」と思いがちだからという。

死がタブー視されるようになったのは、
まだ日が浅く、
昔は死は身近なものとして容認されていた、
という説には目を見張らされた。
西洋の医者は、次のように書く。

「死をなじみ深く、身近で、和やかで、
大して重要でないものとする昔の態度は、
死がひどく恐ろしいもので、
その名をあえて口にすることもさしひかえるよになっている
われわれの態度とは、
あまりに反対です」
「親戚、友人、隣人たちが立ち会うことが必要とされていました。
子供たちが連れてこられました。
死に関する物事から子供たちを遠ざけようとする
今日みられる配慮とは何と異なることでしょうか!」


死がタブー視されるようになったのは、
20世紀初頭からだという。

山岡鉄舟の話が興味深い。
昔から胃痛が持病であった山岡は、
一時危篤になった。
その2年後の1988年(鉄舟53歳)の時、
病状が悪化し、胃癌、肝硬変と診断され、死期を感じ取った。
それに際し、鉄舟は死装束に着替え、見舞い客と応対した。
その一人、勝海舟との会話。

「いよいよご臨終と聞き及んだが、ご感懐はいかがかな」
「現世での用事が済んだので、
お先に参ることにいたす」
「さようか、ならば心静かに参られよ」


次のような記述も含蓄深い。

長く生きることは貴重であるが、
私はどのように生きるのか、
そのことのほうがずっと重要だと思えてならない。
いつの間にか、
生の目的が「ただ生きること」になっていないだろうか。
私は生とは目的ではなく、手段だと思えてならない。
我々は生があるからこそ、
経験することが出来る。
そして夢や希望や、生涯を通じて
追求するものに辿り着けることが出来る。


「夜と霧」を書いたフランクルは語っている。

「どれだけ長生きするかということは、
本質的にはまったくどうでもいいことだということが
はっきりするでしょう。
長生きしたからといって、
人生はそれだけでは
かならずしも意味のあるものにはならないのです。
また、短い生涯に終っても、
ずっと意味のある人生だったかもしれません」


このことについて、著者は次のように例える。

例えば東京から博多まで新幹線に乗っていっても、
ずっと眠っていれば
何も感動がない旅かもしれない。
けれど、名古屋まで乗ったとして、
途中右手に美しい富士山の姿を見たとする。
それはとても美しい経験と言えるのではないだろうか。


来世の存在について触れたところで、
世界で最も早く「あの世」を発明したのがエジプト人だった
というのには瞠目した。
なるほど、言われてみれば、そのとおり。
実は、イエス・キリストも仏陀も
来世については語っていなのだ。

それでも、世界の宗教は来世を強調する。
生前、良い行いをすれば極楽に行け、
悪行をすれば地獄に行く、
という話が、
どれほど人を善に導いたか。
十字架に磔になったキリシタンたちは、
来世のパライソ(天国)を思って極刑に耐えたのである。
私は殉教者が苦しみに耐えたのは、
あの時、快楽物質が脳から排出されたのだと思っている。
人間の脳は、そういう風に作られているのだ。

最後に前出のフランクルの次の言葉でしめくくろう。

「結局のところ、人生の意味など問うべきではなく、
自分自身がそれを問われているのだということに
気づくべきだ。
つまり一人ひとりが、
人生からその意味を問われているのであり、
自分自身の人生のすべてを引き受ける、
つまり責任ある生き方をすることによってのみ、
それに答えることができるのだ」


それもおおげさなものではない。
何も大きな業績を上げる必要はない。
ほとんどの人は無名のままで結構だ。
普通に育ち、青春を謳歌し、
結婚し、家庭を持ち、
社会で仕事をし、家族を養い、
次の世代に引き渡していく。
それで十分だ。
これほど人生をまっとうするものはない。


小説『Iの悲劇』  

[書籍紹介]

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南はかま市は、9年前に4つの自治体が合併してできた。
市の出張所の一つである間野出張所に「甦り課」がある。
妙な名前だが、「甦り」とは、
6年前に無人になった蓑石地区に
移住希望者を募って蓑石を復活させようという目論見だ。
名付けて「南はかま市Iターン支援推進プロジェクト」
一度死んだ村に、人を呼び戻す。
前市長を破って当選した現市長の肝入りで作られた。

課の職員は3人
課長の西野と用地課から異動になった万願寺邦和(まんがんじ・くにかず)と
新人の観山遊香(かんざん・ゆか)。
西野は何もせず、定時きっかりに帰宅し、
面倒なことは万願寺に押しつける。
遊香は学生気分が抜けない感じだ。

意外にも移住希望者が集まり、
12世帯が入居してきた。
問題は定住するかどうかで、
万願寺の心配はつきない。
そして、次々とトラブルが起こる。

開村前に入居した久野から苦情が来る。
隣家(といっても離れているのだが)の久野が
大音声で音楽をかけて、
野外バーベキューをするというのだ。
しかも、火の不始末で小火騒ぎを起こす。
その報告書を読んだ西野課長は大胆な推理をして・・・
が第1章の「軽い雨」
無能かと思った西野が意外な才能を発揮するのに驚く。
この2世帯は早々に村から出て行った。

第2章「浅い池」では、
開村式後に移住した10世帯のうち、
地域再興をもくろむ牧野が養鯉事業を始めるが、
その稚鯉の数が減っていて、
誰かが盗んだのだという。
養殖のための休耕田に水を張りネットを張っているので、
逃げ出したのではないという。
数日の間に稚鯉は一匹もいなくなってしまった。
そのわけは・・・
10世帯のうち、牧野は最初の退村者となった。

第3章「重い本」は、
アマチュアの歴史研究家、久保寺の家は、
大量の本が持ち込まれ壁の四方に高く積まれていた。
近所に住む5歳の立石速人くんから
本の小父さんと呼ばれて懐かれていた。
ある日、速人の母親から
息子が行方不明になったと連絡が入る。
久保寺の家へ遊びに行ったままだという。
万願寺と由香は速人の行方を探すことになり、
やがて、ある場所から速人が発見されるが、
市の端にある蓑石では、
救急車が到着し速人を運び出すのに
1時間以上かかってしまう。
その結果、久保寺家と立石家の両方が村を去ることになる。

第4章「黒い網」は、
車の排気ガスが健康に悪いと苦情を言ってくる移住者、河崎由美子は、
近所に住む上谷が庭に建てた
アマチュア無線のアンテナについても抗議している。
病気を患い療養中の独身男性・滝山は、
由美子から夫がいない時に食事に招かれると困っていた。
移住者の一人・長塚の提案で
秋祭りが開催され、
由美子が毒キノコを食べて体調を崩す。
これについても、
西野が見事な推理で真相を突き止める。
その結果、上谷も河崎夫妻も出て行き、
10世帯中5世帯が蓑石から消えてしまう。

第5章「深い沼」では、
相次ぐトラブルで移住者が蓑石を去って行ったため、
課長と共に万願寺は市長に呼ばれ説明を求められた。
叱責を覚悟していたのだが、
甦り課は責任を問われることすらなかった。
同僚との雑談の中で、
万願寺は課長の西野が実は切れ者だという話を耳にする。
西野は火消し役として名を馳せているという。
そういえば、西野課長は
火事や毒キノコ事件など、
見事な推理で真相を究明したことを万願寺は思い出した。
万願寺は東京に住む弟と話し、
甦り課の仕事が消耗戦であり、
もっと有意義な仕事についたらどうかと示唆を受ける。

第6章「白い仏」は、
若田夫妻が住んでいる家に円空の作という仏像があり、
長塚は蓑石を「円空の里」として発展させたいと構想する。
しかし、若田夫妻は円空仏を誰にも見せたがらない。
なにか宗教的な呪縛を感じているようなのだ。
というのも、若田は移住前、
周囲で次々と不幸が降りかかった結果、
占い師の勧めで蓑石に移住してきた。
住み始めた家から仏像が見つかったことに
運命を感じているらしい。
家の貸主の日記を調べることを要請され、
万願寺と由香が手伝いに駆り出されることになった。
すると、円空仏の入っている離れのドアが開かなくなり・・・

この怪異現象で若田と長塚は村を去った。

終章「Iの喜劇」

ついに残った3世帯も村を去り、
そして誰もいなくなった。
プロジェクトは有名無実になる。
課長の西野、遊香、万願寺は蓑石地区が一望できる場所で話す。
万願寺はこれまでに起こった騒動によって
移住者らが次々に蓑石を去って行ったことは、
偶然ではなく何者かが裏で糸を引いていたのではないかと話し始める・・・

ちょっと風変わりなミステリーだが、
背景にあるのは、
限界集落の取り扱い。
蓑石は市の端にあり、
救急車が来るのは45分もかかる。
除雪も行き届かず、
子どもが学齢に達したら、
たった一人のためにスクールバスを回さなければならなくなる。
その負担が市にのしかかる。
過疎地域が行政の負担となる、
という過酷な状況に、
背筋が寒くなる思いがした。

職務に忠実で、精一杯仕事をする万願寺の姿には共感を覚える。
それだけに、最後に明かされる真相は過酷だ。
あの後、万願寺は、
弟の勧めるままに都会に出てしまうのではないか、
いや、それでも地方都市に留まって住民のために働くか、
と心配になる。

遊香と万願寺の間で、
「絵に描いたような本音。万願寺さんって大人ですよね」
「公務員だよ」
というような会話がしばしば出て来るのが笑える。

「何かあったら、またおっしゃってください。
なんでも相談に乗りますから」
何かあってからではばうしようもないと
わかっていながら、そんなことを言う。
そして、仮に本当に何かあったとしたら
警察の領分であって、
やっぱり甦り課は何も出来ない。
自分は何をしているんだろうと思う。


弟との会話。

「まわりとくっついて、
南はかま市なんて変な名前になって。
小さくても一つの町だったのに、
大きな市の辺境になっちまった。」
「たいした産業もないのに
税金を呑み込む深い沼だと思ったことはないか、兄貴」
南はかま市は広い。
市域を維持することは
老朽化や大雪や台風や地滑りと永遠に戦い続けることで、
その戦いは、市域が広ければ広いほど厳しいものになる。
南はかま市の税収では
到底その戦いを続けることは出来ず、
市の財政は地方交付税に頼りきりだ。
・・・南はかま市の歳入を倍にしても、
歳出には遠く及ばない。


市の行政の本音。

「われわれは、行政は、
そこに市民が一人でも住んでいるのなら
総力挙げて生活を支える。
インフラを整備し、ごみを収集し、
道路を直して住人が住んでいけるようにする。
行政はそのためにあるからだ。
・・・けれど、集落が無人になるなら、
これは夢のような出来事だよ。
その地域への支出をほぼすべて停められるんだからね」


遊香の本音。

「蓑石を維持するためにお金を使えば、
ほかの何かが後まわしになって、
このまちのどこかで誰かが苦しむんだって」

ますます進む、地方の過疎化。
ミステリーやコメディのように描きながら、
米澤穂信の提起する問題の奥は深い。


映画『フリーソロ』  

[映画紹介]

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「フリーソロ」とは、
ロッククライミングの一種で、
安全装置を一切使用せず、
素手だけでクライミングするものを言う。

この映画は、フリーソロの第一人者、
アレックス・オノルド↓が、

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カリフォルニア州のヨセミテ国立公園内にある、
高さ975メートルの「エル・キャピタン」

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を登攀する様子を記録したもの。
975メートルといえば、
東京スカイツリーの634メートルや
世界一の超高層ビル、
ドバイのブルジュ・ハリファ(828メートル)をしのぐ。

なにしろ、命綱となるロープやボルト、ハーネスを一切使わず、
もちろんアイゼンも使わず、
使用するのは、滑り止めの粉のみで、
岩肌の裂け目や突起に手をかけ、
足の力、手(指)の力だけで引力を押し退けていく。
水さえも携行しない。

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そのための準備も周到で、
ロープにぶら下がった状態で、
岩肌の形状を確かめ、
ここでは右足に力を入れる、
ここでは両足を交差するなどと詳細な記録を作って
登攀ルートを確保する。

滑落すれば確実に死亡する、
生と死の境目を行くわけで、
実際、フリーソロ仲間の滑落事故での死亡も描かれる。
どうしてそんな命懸けのことをするのかと、
我々凡人は思うが、
まあ、一種の「業」なんだろう、と理解する。
テレビ番組「クレージー・ジャーニー」などを見ると、
そういう「業」の持ち主はゴロゴロしている。

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映画はアレックスの生活を活写し、
車の中での生活から
恋人サンニと共にラスベガスに家を購入する姿などを描くが、
興味深いのは、撮影クルーを描写した点で、
登攀の邪魔にならないようにするにはどうしたらいいか、
などと苦慮する姿が表現される。
最後の登攀シーンでも、
ロープにぶら下がったカメラマンなどは存在せず、
ひたすら超望遠レンズで撮影する。
気の弱いカメラマンが、
画面を見ていられず、
顔をそむけるシーンなどリアルだ。
ヘタしたら、友の死亡事故を撮影したことになるかもしれないのだから。
ただ、やはりドローンは使用したようで、
それだけ、アレックスに肉薄した画面が出来上がる。
ドローンを飛ばしたりしたら、
アレックスの邪魔にならないかとも思うが、
途中でアレックスがドローンのカメラに向かい、
「よう、相棒」などと語りかける場面を見ると、
邪魔にはならなかったらしい。

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一回目の登攀を途中で中断したアレックスが
2017年6月3日
ようやく決意して登攀する
最後の20分は緊張の連続だ。
(実際は3時間56分かかった。)
CGも特殊撮影も合成ない、
正真正銘の本物に勝るものはない。

監督は、自身をクライマーであるジミー・チン
その奥さんのエリザベス・チャイ・ヴァサルヘリィ

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先のアカデミー賞で長編ドキュメンタリー賞を受賞した。
この時、アレックスとサンニも登壇。

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外国語映画賞と並び、
アカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞受賞作にはハズレがない。

5段階評価の「4.5」

予告編は↓をクリック。

https://youtu.be/fyqDgfizUqw

新宿ピカデリー他で上映中。


映画『チェイサー』  

[映画紹介]

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これは、拾い物の好篇。

シングルマザーのカーラは、
6歳の息子のフランキーと暮らし、
食堂のウエイトレスをしているが、
親権を巡って、別れた夫と争っている。

公園のイベントにフランキーと一緒に出かけたカーラは、
弁護士と電話で話して、一瞬だけ目を離したすきに、
息子がいなくなってしまう。
駐車場で一組の男女がフランキーを車に押し込む姿を見たカーラは、
車にしがみつくが、振り落とされてしまう。
自分の車に戻ったカーラは、
息子を連れ去った車を追いかけていくが、
携帯電話も失くしてしまい、
警察に連絡する術がない・・・

この映画、冒頭の食堂の場面と
真ん中あたりの保安官事務所と
最後の家を除いて、
全編、車での追跡シーンに終始する。
そういう映画を作りたいという、
その志がいい。

その過程で追跡に焦るあまり、
他の車の横転事故を起こしたり、
犯人の車と自分の車で白バイをはさんでしまうハプニングもある。
車を追い詰め、犯人を轢こうとするが、果たせず、
犯人の女に車に乗り込まれ、殴打されるという事態も起こる。
最後はガス欠で立ち往生したところを犯人の車に襲撃されもする。

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こうした困難を乗り越えての母親の執念が
ハル・ベリーの好演で説得力豊かに演じられる。
製作もつとめるハル・ベリーは出ずっぱりで、
最後の最後までカーラの視点が物語が進行する。

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途中保安官事務所に立ち寄ったカーラが
助手の鈍い反応に苛立ち、
壁にある行方不明の子供の沢山の写真を見て、
警察は当てにならない、
待つのではなく、
自分自身たった一人で
最愛の息子を救い出す覚悟を決める場面もいい。
最後に犯人を追い詰めた後の展開もサスペンスフルだ。

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犯人を倒した後、犯人に言うセリフ、
「誘拐する相手、間違ったわね」
もなかなかいい。

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「チェイサー」(追跡者)は、日本で付けた題名で、
原題は「KIDNAP」。「誘拐」、中でも「児童誘拐」の意。
日本題は韓国映画「チェイサー」(2008)とまぎらわしいが、
意味はよく伝えている。
アメリカで社会問題化している児童誘拐を題材に、
母親の愛情を描くアクションスリラー。
なかなかの作品である。

監督は、ルイス・プリエト

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なお、本作は2014年末には撮影を終了、
2015年10月9日に全米公開される予定だったが、
製作会社が資金不足に陥った結果、
全米公開日を2016年2月26日に延期すると発表。
その後も、公開日は5月13日、12月2日と先延ばしになり、
ついには、全米公開が白紙となった。
2017年3月10日に公開日が再設定されたものの、
製作会社が破綻したため、いつ公開できるか分からない状況に陥り、
最終的に、配給権を他の会社が買い取り、
2017年8月4日に全米公開された。
公開の遅延によって生じた費用は1300万ドルにも上った。
8月4日、全米2378館で封切られ、
公開初週末に1021万ドルを稼ぎ出し、
週末興行収入ランキング初登場5位となった。
(トラブルの割りには、日本公開は早かった)
アメリカでの評判は芳しくないようだが、
私は面白く観た。

予告編は↓をクリック。

https://youtu.be/V7zDhB0CiO8

ユナイテッドシネマ・アクアシティお台場で上映中。





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