年度末、カンボジアの歴史  

↓今日の芝浦の桜

クリックすると元のサイズで表示します

今日もまた、年度末の作業。
特別会計がまとまり、
数字がどんどん固まっていきます。
実に気持ちがいい。

決算とは、
1年前の構想が
365日の間に積み上げられ、
構築され、
具体的な形となり、
その間に磨きをかけられて残ったもの。
見方によっては、一つの芸術作品とも言えるもので、
その完成された建物が
ほぼ予定通りの地点に着地するのを見て、
ああ、もしかして自分は天才ではないのか、
と事務局長は心密かに思ったりもします。
こういう満足感が仕事へのエネルギーとなります。

特に今年度は50周年記念行事という
「もう一つの構築物」があり、
円高の急激な進行という突発的な台風がありながら
影響されることなく完成したことに喜びを感じています。

事業報告をまとめるため、
土日は家で作業。
週末から来週はじめにかけて、
「文化的な3日間」が始まるので、なかなか忙しい。

ところで、前に書いた輸入牛肉の暫定税率は、
何とか年度内に成立する見込みで、
影響はなくなりましたので、
ご安心ください。

[カンボジアの旅]

「旅行は最高の教育的効果」
だそうですが、
実感します。
いろいろ本で読んでも残らないないことが、
現場に行ったことで
一遍に頭に入ってしまいました。

それにしても他の国のことなど、全く無知だとよく分かります。
カンボジアと聞いて、思い浮かべる言葉といえば、
カボチャ、
シアヌーク殿下、
アンコール・ワット、
ポル・ポト政権、
カンボジア難民、
キリング・フィールド

それくらいでしょうか。
これでは、「フジヤマ、サムライ」の欧米人の日本認識と変わりません。

で、改めてカンボジアの歴史を読んでみると、
ああ、なるほどそうだったねえ、というのが沢山出てきます。

カンボジアはクメール人の国。
クメール文化、クメール語などと呼びます。

紀元前4200年頃から人が住み始め、
5〜6世紀、クメール人が南下してきて、国を建設、
8世紀初頭に分裂して混乱した後、
802年、ジュヤヴァルマン二世によって再統一、
アンコール朝が始まります。
アンコールは、王都の意。

小丘、プノン・バケンを中心とした4`四方の大環壕都城を建造。
以降、550年にわたり、都城と寺院が建設され続けます。
アンコール・ワット(ワットは寺院の意)はこの時期に建設されます。

1181年頃のジャヤヴァルマン七世の時代が空前の繁栄を極め、
インドシナ半島の大部分に勢力を広げるほどの大王朝となりました。
この王は建寺王とも呼ばれ、
道路網を整備し、街道に121箇所の宿泊所を置き、
120箇所に病院を建設しました。
エジプトのラメセス二世みたいですね。

この頃がアンコール王朝の最盛期で、
王の死後、国力が衰退、
1431年にはシャムのアユタヤ王朝の攻略により
王都アンコールは陥落し、苦難の時代が始まります。

アンコール放棄後、首都は転々とし、
西のシャム、東のベトナムに領土を奪われ、
18世紀後半には国家存亡の危機に陥り、
19世紀半ばには、
シャムとベトナムの両属状態になります。
この状態を脱するためにフランスに接近、
1863年には保護国条約により、フランスの支配下に入り、
1953年に独立するまで90年間、フランスの植民地となります。

1953年から70年までがシアヌークの時代。
王政と社会主義を同時に並立した仏教社会主義を標榜。
1955年には王位はスラマリット殿下に継承されます。
1970年、ロン・ノル将軍のクーデターにより、
シアヌークは亡命、内戦の時代に。
1975年、クメール・ルージュが首都を制圧、
民主カンプチア政府(ポル・ポト政権)により大混乱の時代に入ります。

ポル・ポトの進めたのは急進的共産主義で、
「都市は農村を搾取するものだ」として、
都市を無人化、農村への強制移住をし、
労農・政治教育以外の学校教育を廃止、
子供たちは小さい時から共産主義先兵として洗脳されていきます。
宗教活動の禁止、
人民公社の設置と集団生活化など、
従来の伝統的価値観や社会体系を無視した政策を断行。
通貨さえ廃止してしまうのですから、
原始時代への回帰です。
反対者を次々と虐殺、3年8ヶ月の間に300万人の命を奪ったといいます。
特に知識層を目の敵にし、
インテリというだけで処刑の対象になりました。
2日目のガイドさんの父親は
学校教師だったため、殺されました。
このあたりのことは
映画「キリング・フィールド」をご覧下さい。

虐殺された人々は穴に投げ込まれ、
人骨の山が後に発見されます。
プノンペンのものほど大きくはありませんが、
シェムリアップにもその場所は残されています。

↓その記録をとどめる場所。

クリックすると元のサイズで表示します

↓被害者の人骨が納められています。

クリックすると元のサイズで表示します

↓裏側。
クリックすると元のサイズで表示します

↓当時の状況を伝える展示。

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

ここには日本人はあまり来ませんが、
韓国の方は訪れるそうです。
ハングルの説明書きもありました。
かつて朝鮮戦争の時、
やはり同民族同士で殺しあった歴史がありますので、
韓国の人は来るのでしょうか。

ちょっとこの項目が長くなりすぎましたね。
いずれにせよ、
狂気の者たちが政権を取るとどんなことになるかという、
一つの人類的実験のような時代でした。
二度とこんなことがあってはなりません。

その後、ベトナムの侵攻により、大量のカンボジア難民が発生、
和平のための国際会議が持たれるものの、
なにしろ東西対立の時代ですから、
大国の思惑に支配されて進展しませんでしたが、
ソ連の崩壊を背景に、
1991年、パリ和平協定が調印され、
UNTAC (国連カンボジア暫定統治機構、アンタック) が1992年に誕生、
18ヶ月の活動期間に表現の自由、結社の自由が保証され、
社会的変化が起こります。
この時、UNTACの事務総長を務めたのが、
当時国連の事務次長だった明石康。後に都知事選にも出た人です。

クリックすると元のサイズで表示します

↑UNTAC統治時代のカンボジアの国旗。
↓今の国旗。アンコール・ワットが図案化されています。

クリックすると元のサイズで表示します

↓UNTSCによる武装解除を描いたカンボジアの切手。

クリックすると元のサイズで表示します

UNTACの監視下、90%近くの投票率で選挙が行われ、
1993年9月には新憲法が公布、
9月23日には、
約23年ぶりに統一政権新生カンボジア王国が誕生。

というわけで、駆け足ですが、
勉強に付き合わせてしまい、すみません。

しかし、今回行ってみて分かったのは、
民衆にとっての平和の有り難さで、
この同じ場所で沢山の無辜 (むこ=罪のないこと)の民の血が流されましたが、
今は平和を大切にかみしめています。
安心して商売に励み、子供を育てている姿を見て、
わずか十数年前には逃げまどう人々の姿があったのだと思うと
胸が締めつけられる思いがしました。

他の国の歴史や文化を知ると、勉強になります。
だから旅行はやめられない。




トラックバックURL

トラックバック一覧とは、この記事にリンクしている関連ページの一覧です。あなたの記事をここに掲載したいときは、「記事を投稿してこのページにお知らせする」ボタンを押して記事を投稿するか(AutoPageを持っている方のみ)、記事の投稿のときに上のトラックバックURLを送信して投稿してください。
→トラックバックのより詳しい説明へ




AutoPage最新お知らせ