映画『アイヒマンを追え!』  映画関係

[映画紹介]

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題名にある「アイヒマン」とは、
アドルフ・オットー・アイヒマン(1906〜1962)のこと。

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ドイツのナチス親衛隊の中佐で、
数百万のユダヤ人らを絶滅収容所へ移送するにあたって
指揮的役割を担った人物。
戦後はアルゼンチンで逃亡生活を送ったが、
1960年、イスラエル諜報特務庁(モサド)によって
イスラエルに連行されて裁判にかけられ、
死刑判決が下された結果、
1962年5月に絞首刑に処された。
                                        1942年1月20日に、
ベルリン高級住宅地ヴァンゼーに集まった
いわゆる「ヴァンゼー会議」に
アイヒマンは議事録作成担当として出席し、
ユダヤ人を絶滅収容所へ移送して絶滅させる
「ユダヤ人問題の最終解決」(= 虐殺)政策の決定に関与した。
この会議で絶滅政策が決定されたことを認めているが、
アイヒマン自身は会議の席上で一言も発言しておらず、
ただタイピストとともにテーブルの隅っこに座っていただけだと
証言している。

この会議後、アイヒマンは、
ゲシュタポ・ユダヤ人課課長として
ヨーロッパ各地からユダヤ人を
ポーランドの絶滅収容所へ列車輸送する最高責任者となる。
1942年3月から絶滅収容所への移送が始まったが、
その移送プロジェクトの中枢となり、
総力戦体制が強まり、
一台でも多くの車両を戦線に動員したい状況の中でも
交通省と折衝して輸送列車を確保し、
ユダヤ人の移送に努めた。
続く2年間に「500万人ものユダヤ人を列車で運んだ」
と自慢するように、任務を着実に遂行した。

アイヒマンの実績は注目され、
1944年3月には
計画のはかどらないハンガリーに派遣される。
彼は直ちにユダヤ人の移送に着手し、
40万人ものユダヤ系ハンガリー人を列車輸送して
アウシュヴィッツのガス室に送った。

1945年にドイツの敗色が濃くなると、
親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラーは
ユダヤ人虐殺の停止を命令したが、
アイヒマンはそれに従わず、ハンガリーで任務を続けた。
彼は更に武装親衛隊の予備役として委任させられていたため、
戦闘命令を回避するために自らの任務を継続していた。

このナチス戦犯アイヒマンを、
1960年に潜伏先で拘束するまでの
極秘作戦の裏側に迫る実録サスペンスがこの映画。
ドイツの検事長フリッツ・バウアーに焦点を絞り、
いかにしてアイヒマンの消息をつかみ、
追い詰めたかを描く。

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1950年代後半のフランクフルト。
ナチスによる戦争犯罪告発に執念を燃やす
検事長フリッツ・バウアーのもとに
アルゼンチンから
逃亡中のナチス親衛隊中佐・アイヒマン潜伏に関する手紙が届く。
アイヒマンの罪をドイツの法廷で裁こうと
バウアーは追及していくが、
当時のドイツは、
ナチスの過去を持ちながら
戦後ドイツで指導的立場についている人々が多く、
連邦刑事庁も情報機関も、
アイヒマンを裁きの場に引き出すことを喜ばなかった。
秘かに捜査を進めるバウアーは、
身近からの激しい抵抗に直面する。
当時司法に関わっていたほとんどの法律家は、
ナチス政権に仕えていた過去を持っており、
自らの名声に傷がつくことを恐れていたのだ。
「執務室を一歩出れば、そこはもう敵国だ」とバウアーは言う。

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当時のドイツは、国全体が敗戦からの経済復興に向かい、
戦争の記憶の風化が進みつつある時代だった。
強制収容所の事実さえ明確に認識されていなかった。
ホロコーストの首謀者たちは、
世界各国に逃亡したり、
国内の政財界で平然と高い地位を得たりしていた。
ユダヤ人でもあるバウアーは、
一人ナチスの残党を追い続けるが、
もみ消したい過去をもつ人々が
彼を失脚させようと圧力をかけ妨害をする。
アイヒマンがリカルド・クレメントという名前で
アルゼンチンに潜伏している証拠をつかんだバウアーは、
ドイツ政府に期待できないことを悟り、
国家反逆罪に問われかねない危険も顧みず、
その極秘情報をモサドに提供する。
しかしそれも政府の監視網の中にあった。

ナチスの戦争犯罪の徹底追及に人生を捧げた
バウアーの孤高の闘いを、
モサドや敵対勢力との息づまる駆け引きを絡めて描いた映画。
周囲の妨害に耐えながら、
真実を究明していくバウアーの姿は、
ミステリー映画のようなおもむき。

一旦辞任する思いになったバウアーは、
部下が犠牲的精神で秘密を守ったことを知ると、
猛然と闘いの決意をする。
この同性愛者の部下、カール・アンゲルマンの罠のくだりは、
完全に創作だが、
当時ドイツ刑法では、
男性間の性交渉は犯罪行為とされていた。
ただ、この架空の人物の話はなくもがなの印象。

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実はバウアーの功績は、
ホロコーストをドイツの司法で裁き、
アウシュビッツの真実を究明したことにあるのだが、
その前の部分で映画は終わる。
その点は不満といえば不満だが、
すでに映画「顔のないヒトラーたち」(2014)で描いているから
やめたのかもしれない。

フリッツ・バウアーを演じるのは、名優ブルクハルト・クラウスナー
歴史を変えた信念の人を重厚に演ずる。

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ただ一人信頼できる部下、アンゲルマンを
ロナルト・ツェアフェルトが演じている。

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監督は、ラース・クラウメ

ドイツ映画賞で作品賞、監督賞、脚本賞、
助演男優賞、美術賞、衣装賞の6部門で受賞。

5段階評価の「4」

予告編は↓をクリック。

https://youtu.be/Ywg4UJ2bd8U

渋谷のル・シネマ、ヒューマントラストシネマ有楽町で上映中。

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ところで、戦後のアイヒマンの逃走だが、
Wikipedia を参考にまとめてみた。

第二次世界大戦終結後、
アイヒマンは進駐してきたアメリカ軍によって拘束されたが、
偽名を用いて正体を隠すことに成功し、捕虜収容所から脱出。
ドイツ国内で逃亡生活を送り、
その後、難民を装いイタリアに到着。
反共産主義の立場から
元ドイツ軍人やナチス党員の戦犯容疑者の逃亡に力を貸していた
フランシスコ会の修道士の助力を得、
リカルド・クレメント名義で国際赤十字委員会から
渡航証(難民に対して人道上発行されるパスポートに代わる文書)↓の発給を受け、

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1950年7月15日、
親ナチスのファン・ペロン政権の下、
元ナチス党員を中心としたドイツ人の
主な逃亡先となっていた
アルゼンチンのブエノスアイレスに船で上陸した。
その後約10年にわたって
工員からウサギ飼育農家まで様々な職に就き、
家族を呼び寄せ新生活を送った。

1957年、フリッツ・バウアーから
アイヒマンがアルゼンチンに潜伏しているという情報を提供された
モサドは、ブエノスアイレスに工作員を派遣したが、
アイヒマンの消息をつかむことは容易ではなかった。
しかし、アイヒマンの息子がユダヤ人女性と交際しており、
彼女に度々父親の素性について話していたことから、
モサドは息子の行動確認をして
アイヒマンの足取りをつかもうとした。
2年にわたる入念な捜索の末、
モサドはついにリカルド・クレメントを見つけ出した。

モサドのイサル・ハルエル長官は
作業班を結成させ、長官自らブエノスアイレスへ飛んだ。
作業班はリカルド・クレメントに「E」とコードネームを付け
行動確認した。
クレメントも慎重に行動していたが、
最終的に作業班が彼をアイヒマンであると断定したのは、
アイヒマンの結婚記念日に、
クレメントが花屋で妻へ贈る花束を買ったことであった。

1960年5月11日、
クレメントがバス停から自宅へ帰る道中、
路肩に止めた窓のないバンから数人の男がいきなり飛び出し、
彼を車の中に引きずりこんだ。
車中で男たちはナチスの帽子を出して彼にかぶせ、
写真と見比べて「お前はアイヒマンだな?」と言った。
彼は当初否定したが、少し経つとあっさり認めたという。

その後アイヒマンは、
ブエノスアイレス市内のモサドのセーフハウスに置かれた後、
アルゼンチン独立記念日の式典へ参加した
イスラエル政府関係者を帰国させる
エル・アル航空(イスラエルの国営航空会社)の飛行機で、
5月21日にイスラエルへ連れ去られた。
出国の際に彼は、
酒をしみこませた客室乗務員の制服を着させられた上に
薬で寝かされ、
「酒に酔って寝込んだ非番の客室乗務員」として
アルゼンチンの税関職員の目を誤魔化した。

さらに同機は当初ブラジルのサンパウロ市郊外にある
ヴィラコッポス国際空港を経由して給油する予定だったが、
アイヒマンが搭乗していることが知られた場合、
ブラジル政府により離陸が差し止められる危険性があることから、
ヴィラコッポス国際空港での給油を行わずに
セネガルのダカールまで無給油飛行を行うなど、
移送には細心の注意が図られた。

イスラエルのダヴィド・ベン=グリオン首相は
1960年5月25日にアイヒマンの身柄確保を発表し
世界的なニュースとなった。
(私の記憶にある)
この逮捕および強制的な出国については、
イスラエル政府がアルゼンチン政府に対して
正式な犯罪人引き渡し手続きを行ったものではなかったため、
アルゼンチンはイスラエルに対して主権侵害だとして抗議した。

獄中のアイヒマンは神経質で、
部屋や便所をまめに掃除したりするなど
至って普通の生活↓を送っていた。

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獄中のアイヒマンを知る人物は
「普通の、どこにもいるような人物」と評した。

アイヒマンの裁判は1961年4月11日に
イスラエルのエルサレムで始まった。

裁判のテレビ中継に至る顛末は、
映画「アイヒマン・ショー」(2015)に描かれている。

アイヒマンは、「人道に対する罪」、
「ユダヤ人に対する犯罪」および
「違法組織に所属していた犯罪」などの
15の犯罪で起訴され、
その裁判は国際的センセーションと同様に
巨大な国際的な論争も引き起こした。
裁判の中でヒトラーの「我が闘争」は
読んだことはないと述べている。
(そんなはずはない)

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裁判を通じてアイヒマンはドイツ政府によるユダヤ人迫害について
「大変遺憾に思う」と述べたものの、
自身の行為については「命令に従っただけ」だと主張した。

この公判時にアイヒマンは
「一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」
という言葉を残した。
その他、イスラエル警察の尋問で、次のような主張をしている。
「あの当時は『お前の父親は裏切り者だ』と言われれば、
実の父親であっても殺したでしょう。
私は当時、命令に忠実に従い、
それを忠実に実行することに、
何というべきか、精神的な満足感を見出していたのです。
命令された内容はなんであれ、です」
「連合軍がドイツの都市を空爆して
女子供や老人を虐殺したのと同じです。
部下は(一般市民虐殺の命令でも)命令を実行します。
もちろん、それを拒んで自殺する自由はありますが」
「戦争中には、たった一つしか責任は問われません。
命令に従う責任ということです。
もし命令に背けば軍法会議にかけられます。
そういう中で命令に従う以外には何もできなかったし、
自らの誓いによっても縛られていたのです」
「私の罪は従順だったことだ」

1961年12月15日、
すべての訴因で有罪が認められた結果、
アイヒマンに対し死刑の判決が下された。
アイヒマンは死刑の判決を下されてもなお自らを無罪と抗議した。
翌1962年6月1日未明に
ラムラ刑務所で絞首刑が行われた。

処刑前に「最後に何か望みが無いか」と言われ、
「ユダヤ教徒になる」と答えた。
何故かとたずねると
「これでまた一人ユダヤ人を殺せる」
と返答をしたという。
しかし、この発言は、
ネガティブな戦犯としての印象を与えるための
創作ではないかとの指摘もある。

絞首刑になる直前のアイヒマンの言葉。
「ドイツ万歳。アルゼンチン万歳。オーストリア万歳。
この3つの国は
私が最も親しく結びついていた国々です。
これからも忘れることはありません。
妻、家族、そして友人たちに挨拶を送ります。
私は戦争と軍旗の掟に従わなくてはならなかった。
覚悟はできています」

タグ: 映画



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