評伝『花森安治伝』  書籍関係

〔書籍紹介〕

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花森安治のことは学生の頃に知った。
「暮しの手帖」の名物編集長で、
執筆から表紙から挿絵からレイアウトまで何でも一人でこなす。
商品テストなどの中立性を守るために広告は一切載せない、
企業からのテスト用サンプルや商品の提供を拒み、
自分たちが店頭で購入した商品をテストする、
というポリシーを聞き、
その公正な姿勢に驚嘆した覚えがある。

一時期編集部に在籍した森村桂のデビュー作
「違っているかしら」を
父の関係会社が出版したことからの興味もあった。
(「違っているかしら」は、その後、
 「私、違っているかしら」の題名で吉永小百合主演で映画化)

今やっているNHKの朝ドラ「とと姉ちゃん」の中に
出て来る「あなたの暮し」は、
「暮しの手帖」がモデルで、
編集長の花山伊佐次を唐沢寿明が演ずるが、
実物はあんなカッコいいものではなく、
おカッパ頭に時には女装するという変わった人物だったらしい。

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この評伝は、
その花森の生涯を
膨大な資料をたどりながら追い求めるもの。
高校時代から校友会の雑誌を編集したり、
大学では帝国大学新聞(東京大学新聞の前身)に入ったり、
化粧品パピリオの宣伝部に所属したり
双書「婦人の生活」を刊行したりし、
戦前に培った経験を一挙に開花させたのが
「暮しの手帖」だった。

1945年、大橋鎭子(ドラマでは小橋常子)から相談を受けて、
翌46年、「衣裳研究所」を設立、
大橋三姉妹(鎭子・晴子・芳子。ドラマでは常子・鞠子・美子)
を助ける形での参加だった。
「スタイルブック」を発行、直線裁ちが一大ブームとなった。

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1948年(昭和23年、37歳)「美しい暮しの手帖」を創刊。

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後に「暮しの手帖」に改称。
最初の頃は季刊で、後に隔月刊に。
1954年から「商品テスト」を開始。
発行部数も100万部を越えて、
「国民雑誌」となった。

商品テストについて、花森はこう言っていたという。

「商品テストを失敗したら、
暮しの手帖社はつぶれる。
人さまが命がけで作っている物を、
いいとか、わるいとか批評するのだから、
商品テストは命がけだ」

テストには完全主義を押し通し、
ミスをした担当者には、
お前みたいなやつは、クビだ!
と大声でどなった。

広告を載せないことについては、
次のように主張する。

広告をのせることで、
スポンサーの圧力がかかる、
それは絶対に困るからである。
暮しの手帖は、暮しの手帖なりに、
一つの主張があり、
一つの志がある。
それがほかの力でゆがめられるとしたら、
もっての外である。
ことに<商品テスト>の場合、
その結果に対して、
なにかの圧力がかかってゆがめられたりしては、
折角のテストの意味がなくなってしまう。
<商品テスト>は絶対にヒモつきであってはならないのである。

ご存じのように、
雑誌の収入源は、売り上げと広告料収入である。
雑誌の評価が上がり、部数が増えれば、
広告料は上がる。
その一方の柱を拒否して、
雑誌の売り上げだけで全てをまかなう、
というのだから、その決意はすごいものだ。

第1回の商品テストはソックス。
次のマッチと続き、
鉛筆、醤油、アイロン、オーブントースター、
安全かみそり、自転車、電球、
ペンキ、ミシン、運動靴、消火器、
スティック糊、ホットケーキミックス、
万年筆、洗える背広、脱水機つき洗濯機、
炊飯器、ティッシュペーパー、
宅配便、めんつゆ、万歩計、
オートフォーカスのカメラ等、
約250種、複数回テストした商品があるからのべ300の商品を
テストし続けた。
その結果、メーカーの商品作りの精度は上がった。
日本の「ものづくり」の質の向上に役立ったのだ。

テストをする社員には、
コネが出来てしまう危険を避けて、
「友人先輩関係の会合」に出ないようにしていた。

料理記事も、次のような手順で作られたという。

@いつもの家庭料理をプロの料理人に作ってもらい、
 その手順を組写真方式で記録する。
Aそばで観察している担当編集者が、
 それを一枚のレシピにまとめる。
Bこのレシピどおりに、同じ料理を
 現場にいなかった別の編集者が作る。
Cみんなで食べ較べる。
D同じ味になっていたらOK。
 違っていたらレシピを書き直す。
EOKが出るまで、それを繰り返す。

与えられたレシピが本当に役に立つかどうかを
繰り返しテストする。
「命がけ」の実践は商品テストと同じである。

文章もやさしく、平易に、が基本で、
漢字をできるだけ減らし、
使う場合も画数の少ないものを選んだ。
編集者に対して、花森は次のような言葉で叱ったという。

──きみのかいた文章が、
八百屋の奥さんにそのまま読んでもらえるか、
魚屋の奥さんにわかってもらえるか、
それを考えて書け。
──文章をやさしく、わかりやすく書くコツは、
ひとに話すように書くことだ。
眼で見なくてはわからないようなことばは、
できるだけ使うな。
──ひらかなにすれば、わかりやすくなるわけじゃない。
ひらかなで<ひじょう>と書かれたら、
非常の意味か、非情の意味か、わからなくなる。
それこそヒジョウシキだ。

花森が唱えた実用文十訓は以下の通り。

(1)やさしい言葉で書く。
(2)外来語を避ける。
(3)目に見えるように表現する。
(4)短く書く。
(5)余韻を残す。
(6)大事なことは繰り返す。
(7)頭でなく、心に訴える。
(8)説得しようとしない(理詰めで話をすすめない)。
(9)自己満足をしない。
(10)一人のために書く。

いい加減な取材で済ますと、すぐ見抜く、
として、次のようなエピソードを紹介している。

ある部員が提出した原稿を読み終えた花森が、
すぐに筆者を呼んでたずねた。
「ほんとうに相手はこういうことをいったのか」
「はい、そうです。そのとおりですが・・・」
「ぼくにはどうしても、
こんなことしかいわないひとにはおもえないんだ。
もっとなにかがあるはずだ。
取材テープを聞かせてくれないか」
テープを聞くうちに、
みるみる花森の形相がかわったという。
編集部員が相手の答えを先取りして発する質問に、
取材相手が「はい」「そうですね」と
オウム返しに答えているだけだったのだ。
「なんだ、これは。
相手は何もいっとらんじゃないか。
みんなきみのことばだ。
きみは取材に行ったんじゃない。
きみの考えをたしかめに行っただけだ。
そんなことなら取材なんかする必要はない。
こんなもん記事になるか」
この原稿はただちにボツになったという。

1978年1月14日。
自宅で心筋梗塞で逝去。
66歳。
居間のソファーに坐っての
「弁慶の立ち往生」のようだったという。

「おおげさな葬儀はごめんだ」という言葉のとおり、
1月16日、暮しの手帖社2階のメインスタジオで
「お別れの会」を開き、
全て社員たちの手作りで、
祭壇中央の木札には戒名はなく俗名のみ。
焼香はなく、
会場には花森が好きだった
イギリス民謡の「グリーン・スリーブス」が流れていた。
最後に社員全員で、
「暮しの手帖」の表紙裏に常に載っていた「発刊の辞」を朗読したという。

これは、あなたの手帖です
いろいろのことが ここには書きつけてある
この中の どれか 一つ二つは
すぐ今日 あなたの暮しに役立ち
せめて どれか もう一つ二つは
すぐには役に立たないように見えても
やがて こころの底ふかく沈んで
いつか あなたの暮しを変えてしまう
そんなふうな
これは あなたの暮しの手帖です


↓は、大橋鎭子さんと共に。

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大橋鎭子さんは、花森のあとを継いで編集長となり、
2004年に横山泰子(長妹である晴子の息子の妻)に社長を譲り社主となる。
2013年3月23日、
肺炎のため東京都品川区の自宅で逝去。93歳だった。




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