『私の男』  映画関係

〔映画紹介〕

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浅野忠信二階堂ふみという
この小説の映画化に当たって、
現在考えられる限り最高の配役
期待して観に行った。

期待は裏切られた
俳優にではない。
俳優は素晴らしい。
映画の構成(脚本)と演出に対しての失望だ。

あまりの違和感に、
原作を再読。↓

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再び映画を観た。

まず、構成(脚本)。
原作は、
花の結婚式の前日から始まり、
時間軸をさかのぼる形で物語が進む。
その中には、
紋別から東京に逃れて来た二人を
追ってきた刑事に対する淳悟の殺害と、
淳悟と花の肉体関係を知った大塩老人が
二人を引き裂こうとしたことに対する
花の殺人(厳密には未必の故意の殺人)を含む。
話が進むにつれて、
淳悟が養父といいながら
実父であるということも分かって来る。
そして、
1992年の北海道南西沖地震で
津波の被害を受けた奥尻島で、
家族を失った小学生の花を
親戚の淳悟が引き取り、
関係が始まる経緯。

こうして
時空をさかのぼる形で
一つ一つ謎が解明されていく、
一種のミステリーになっている。
読者は物語が先に進むにつれて、
隠された真実が明らかになって驚く。

それをこの映画は時間軸とおりに構成し直した。
「利休にたずねよ」もそうだが、
原作の挑戦を受けて立っていないのだ。
もちろん小説と映画が違うものだということは当然だ。
しかし、原作世界を借りて映画を作る以上、
原作に対するリスペクトは必要ではないか、
というのが私の持論。
「映画は別物」だから
どんな勝手をしてもいいというものではない。
それは、原作者以上の才能に恵まれた
ほんの少数の監督にのみ許される所業だ。

事実、小説を初めて読んだ時、
時間をさかのぼるから成り立っているのであって、
これを時間軸に従ってやったら、
なんてことない作品だと思った記憶がある。
直木賞の選考委員の井上ひさしさんが次のように書いているとおりである。

「これを起きた順に書けば、
あいだに二つの殺人もあるし、
どろどろの近親相姦モノに成り果てて
読むに耐えなかっただろうが、
作者は(たぶん)ギリシャ悲劇の「オイデプス王」の構造をかりて
時間を遡行させて
どろどろ劇をりっぱな悲劇に蘇生させた」

現在から過去へとさかのぼっていく手法には、
結果の原因を探っていくという
大きな探究の要素がある。
実際、読後、桜庭一樹という作家の持っている
深い業に震撼した記憶がある。
時間軸どおりにしたら、
小児愛好者の近親相姦話でしかないのを、
時間をさかのぼることによって
人間の持つ業、血の絆などが浮かび上がって来て、
不道徳を超えて香り高くなっているのだ。

時間軸を構成しなおした理由を監督はこのように述べているという。
「二人の関係が深まっていく様子を、順を追って見て欲しかった」
「原作通りだと地震や津波で物語が結末を迎える。
(企画段階で) 東日本大震災が発生したこともあり、
出来ればそうしたシーンを最後に持っていきたくなかった」

二人の関係が深まる様子など、
全く描かれていない。
また、地震が作品の必然なら
仕方ないではないか。
小説のチャレンジを回避した言い訳はしないでくれ。

不要な表現も多い。
花が地震被害者の遺体を蹴るのは何なのか。
「あんた、お金持ってるの」
という原作にないセリフにどんな意味があるのか。
小町との必要以上に長いセックスシーン。
小町の背後の全裸を長々と写す理由は何か。
あんなシーンがなくても物語は成り立つ。
淳悟と花が交わるシーンで
降り注ぐ血の雨
なんとあざとい演出だ。
花を送った来た男を裸にして乳を触り、指をなめる淳悟。
原作にはなく、あれでは淳悟はただの変態オヤジだ。
二人の部屋のゴミ屋敷のような設定といい、
とにかく監督のセンスが悪い

ラストも曖昧だ。
3年前に花は淳悟のもとを離れ、
(その理由も経緯も不明)
結婚するというので、呼び出された。
そして、会食中、テーブルの下で
再び誘惑の足を押しつけて来る。
二人の関係が続く暗示で終わる。
そして、「お前には、無理だ」
という原作にないセリフを2度も付けて、
原作を曲げた解釈を強要する。

小説ではこうだ。
会食の後、家に帰ると淳悟がいる。
つまり、二人の同居はそれまでも続いていたのだと分かる。
しかし、肉体関係はとうに終わりを告げている。
結婚で花は家を出る。
結婚式の後、新婚旅行から帰ると、
淳悟のアパートの大家から
残った荷物のことで電話が入る。
アパートに行くと荷物は整理されていた。
押し入れの中の死体も処分されている。
そこへ小町が現れ、
淳悟は死んだと言う。
しかし、それが嘘だと分かる。
花は淳悟の面影を慕いながら、アパートを去る。

このように物語は二人の旅路の完結を告げている。
それに対して映画の曖昧な終わり方は何か。

物語の中で、
故郷を後にする花が
親友に電話するシーンもない。
「わたしはね、章子。汚れてるの」
という花の真情吐露は重要だ。
物語を決定づけるイメージである
二つの木が鉢を近くに起きすぎたせいで
途中から絡まってしまった絵も出て来ない。
田岡が人間の顔に
「一線を超えた者」の刻印を見出すシーンも抜けている。
田岡の死体の処理も映画では描かないで観客に心配させる。
淳悟が花の実父である経緯も不明。
小説冒頭の
「私の男は、ぬすんだ傘をゆっくりと広げながら、こちらに歩いてきた」
という美しい描写も
背後からの描写でしかない。
あれでは、淳悟が赤い傘を差す理由が分からない。

原作の最低限必要な部分をカットし、
不要な夾雑物を挿入し、
物語の中枢を外した映画。
またも小説を読めない監督
原作の世界を壊してしまった。
原作を愛する者としては残念でならない。

ただ、二階堂ふみは不思議な女優で、
ますます可能性を感じた。

5段階評価の「2」

タグ: 映画



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