『悲素』  書籍関係

[書籍紹介]

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悲素とは、砒素のこと。
砒素によって沢山の被害者を生んだ、
「和歌山カレー事件」を扱っている。

和歌山カレー事件とは、
1998年7月25日に
和歌山県和歌山市園部で発生した
無差別大量殺傷事件のこと。
地区で行われた夏祭りにおいて提供されたカレーライスに
毒物が混入され、
カレーを食べた67人が中毒になり、
うち4人が死亡した。
当初、青酸化合物が混入されたと発表されたが、
後に砒素が混入されたと判断を変えた。

主婦の林眞須美(はやしますみ)が犯人とされ、
2009年5月19日に、
最高裁で死刑判決が確定したが、
いまだに刑は執行されていない。

本書は、同じ帚木蓬生(ははきぎほうせい)による
「沙林 偽りの王国」↓の姉妹篇とも言えるもので、

http://star.ap.teacup.com/applet/shokuniku/20210708/archive

同じ九州大学医学部衛生学教室教授、沢井直尚の視点で、
事件を俯瞰する。
モデルは、九大の井上尚英名誉教授(事件当時は現役の教授)。

「沙林 偽りの王国」は2021年3月の刊行だが、
「悲素」はそれより早く、2015年7月の刊行。

新聞やニュースで和歌山のカレー事件を知った沢井は、
被害者の症状を見て、
青酸化合物の混入との報道に違和感を覚える。
そんな時、和歌山県警より捜査協力の依頼が入る。
カレー事件の診察もさることながら、
事件の背景にある
毒物摂取による保険金詐欺事件だった。

というのは、容疑者夫婦である
小林真由美と小林賢治の夫婦が
(林眞須美と林健治は仮名となっている。
 判決が確定しているのだから、
 実名でもいいと思うが)
経営する白アリ駆除会社の社員に
高額な保険をかけ、
砒素入りの食事を食べさせ、
一人は実際に死んで、生命保険金を
他の3人は入院給付金をだまし取った容疑で、
当時の被害者の診断書や保管されていた臓器から
砒素中毒の症状かどうかを診断してほしいというものだった。
沢井教授は提供された資料から
それが砒素中毒であると断定する。
なぜ当時の医師が見抜けなかったというと、
砒素中毒の症例などないに等しく、
診断では原因不明の中毒とするしかなかったのだという。

我々の砒素に対する知識はほぼ皆無に等しい。
少しずつ砒素を与えることによって、
徐々に症状が進み、死に至る。
証拠は毛髪に残る、
という推理小説的知識くらい。
しかし、診断レベルでは難しく、
「砒素は診断がむつかしいです。
大学病院でも、中毒専門の医師でない限り、
確定診断には行きつきません」

というほどなのだ。

かけられた保険金も高額で、
一人は11口で計2億円、
一人は11件で計4億9千5百万円、
麻雀仲間3人に8口で計1億6千3百万円。
しかも、加入時には身代わり審査で、
本人に無断でかけられている。
(他に真由美の実母の死亡で1億4千万円の保険金を受け取っている)
その上、夫の健治にも3社の保険をかけ、
砒素を飲ませ(合意の上の可能性もある)、
死亡には至らなかったものの、
高度障害の保険金2億円を受け取っている。
月々の掛け金は20万円を越えている。
あまりに不自然だ。
他に終身保険で入院給付金が夫は4万円、
他1名は10万1千5百円で、
1カ月入院すれば、120万円から300万円が手に。
つまり、死なない程度の砒素を使って、
何度もに入院すれば、巨額の給付金を受け取ることが出来る。

材料となる砒素は、
白アリ駆除に使ったものが大量に保存されている。

真由美は一時期保険の外交員をしていた時期があり、
その時に得た知識を有効活用していると思われる。

また、マージャン仲間には、
カレー事件直前に保険が無断でかけられ、
その総額は1億円を越える。
しかも、1年期限の保険だ。
これも不自然極まりない。
カレー事件当日は、
健治宅でマージャン大会が予定されており、
夏祭のカレーを食べさせて、
被害者を装って保険金を手にする計画だったと思われる。
(マージャン大会は出れない人がいて、中止になっている)

依頼を受けた沢井教授らは、
学内の専門家に依頼して、
各方面からの証拠をあげていく。
その依頼に対し、何の見返りもなく、
嬉々として協力する学者たちの姿には感動させられる。
長年の研究成果が、社会に貢献する喜びだという。

長年打ち込んできた中毒学が、
社会的にも貢献できた気がした。
中毒学は臨床医学と違って地味な学問だ。
水面上に現れているのはほんの一部でしかない。
水面下では膨大な研究領域が広がっている。
その大部分が、日の目を見ないまま蓄積され、
十年に一度、百年に一度舞台に現れるのを
待ち受けていると言ってよかった。


そして、こうも言う。

「沢井先生、これは、
犯人とうちの大学との戦いですよ」


また、こうも言う。

「先生からこんな機会を与えてもらったのが嬉しいです」

しかし、こうした大学人の努力にもかかわらず、
地裁判決は、カレー事件では死刑の判決を出したものの、
一連の保険金目的での砒素使用事件については、
その一部を認めただけだった。
そのほとんどが砒素中毒であったことは事実、と認めながら、
被告が犯人だとは決められないとしている。
つまり、物証もなく、自白もない、
状況証拠だけでは不十分だというのだ。

被告が砒素を盛れる立場にあり、
保険金という動機があり、
実際に砒素中毒が起こったことを認定しながら、
被告が犯人だと特定できないとする判決。
裁判官の頭の中をのぞいてみたいものだが、
こういう法解釈のもとでは、
全ての正義が停止する。
陪審員制度なら、確実に有罪になっているだろうが、
法律の専門家の頭は謎である。

松本サリン事件で、被害者を犯人と見込み捜査した経験から、
真由美を犯人とするには慎重だったが、
狭い町内に砒素を保有している人物がいて、
その人物が調理後のカレーの見張り役として、
鍋の側にいて、
しかも、真由美が保有する砒素と
混ぜられた砒素が同質のものであるとされて、
真由美以外の第3者が犯人だとするのは無理がある。

しかし、ぞっとするのは、
砒素を飲ませ、
死者も出るかもしれない行為を平然とする真由美の頭の中だ。
それ以前の保険金詐取でも、
被害者にお好み焼きや酢豚や餃子やくず湯を飲ませて、
症状が出るのをじっと観察する姿には鬼気を覚える。
その上、被害者の一人は、睡眠薬を飲まされ、交通事故を起こしている。
そして、砒素を盛られた3人は、その後も半身不随でいる。
人の命と健康を金に代える、という
人間としての一線を越えてしまったのだ。

裁判が難航したのは、
直接証拠がなく、自白もなく、
動機の解明もなかった
ことが原因だが、
動機については、
狂人というか、鬼畜の仕業に
動機を求めるのは無理である。
そういう、人間の規格から外れてしまった人間が
時には現れるのだ。

動機については、筆者は、
毒への魔力を提示する。
夏祭に名を借りたマージャン大会が人数が揃わず中止になったので、
カレーへの砒素投入をやめることもできたのに、
決行したのは、

にもかかわらず犯行に及んだのは、
既に強力に形成された
やめられないという嗜癖にあがらえなかったからである。
おそらく真由美自身もこの嗜癖の魔力には
自覚的でなかったと思われる。
ねれほど、やめられない病態は強かったのだ。


解説者は、こう書く。

(解説から)過去13年間、砒素で保険金詐欺と殺人未遂を繰り返し、
一度も発覚しなかったことで、
「真由美」には強力な嗜癖が形成された。
毒を手にした人間は、
知らず知らずのうちに万能感を獲得する。
毒の行使がまた次の行使を呼び、
やめられなくなる。
それは本人にも自覚できない病態であっただろうと、
著者は記している。

                                        
未解決事件を医学的知識を駆使して
犯罪をあばくという、
一種のミステリーとしても読める、
面白い本だった。

前にも書いたとおり、確定判決が出てから、
12年たつのに、
まだ死刑は実行されていない。

弁護団はいろいろリクツをこねて弁護し、
再審請求もしているが、
再審制度の悪用というべきだろう。
本人に対しては、
長女の自殺(子どもを道連れ)で
罰は下っているとは言っても、
砒素入りカレーで命を奪われた4人の方の
恨みはまだ晴らされていない。
確定判決が出た死刑囚を
いつまでも国費で養うのはやめた方がいい。





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