『沙林 偽りの王国』  書籍関係

[書籍紹介]

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沙林とは、中国語表記のサリンのこと。
であれば、「偽りの王国」とは、
オウム真理教に他ならない。

本書は、地下鉄サリン事件を中心に、
オウム真理教の数々の犯罪を描くもの。
帚木蓬生(ははきぎほうせい)による
570ページに及ぶ大著である。

地下鉄サリン事件から既に26年。
「事件を知らない人が増え、
2018年の教団元幹部や教祖の死刑執行で
事件は終わったこととして忘れられつつある。
しかし事件の全貌が解明されたとは言えず、
今も後遺症に苦しむ被害者がいる。
きちんと記録を残すべきだ」と執筆動機を語る。
また、「誰かが総合的、ふかん的に総括しなければいけないと思った。
これは『紙碑(しひ)』です」

と筆者が言っているとおり、
事件を科学の視点を加えて描いた、
記念碑的作品となっている。

目次は次のとおり。

松本・一九九四年六月二十七日
上九一色村
東京地下鉄
目黒公証役場
警視庁多摩総合庁舎敷地
地下鉄日比谷線と千代田線の被害届
犠牲者とサリン遺留品
サリン防止法
VXによる犠牲者と被害者
滝本太郎弁護士殺人未遂事件
イペリットによる信者被害疑い
温熱修行の犠牲者
蓮華座修行による死者
ホスゲン攻撃
教祖出廷
逃げる教祖
教祖の病理
証人召喚
死刑執行


と目次を見れば、大体の構成は分かる。
九州大学医学部衛生学教室教授、沢井直尚の視点で、
主に化学者の目から事件を俯瞰する。
たとえば、松本サリン事件では、
新聞記者からの問い合わせに答え、
有機リン系の化学物質であると即断し、
サリンだと分かると、
当時疑惑をかけられていた会社員が犯人ではない、と進言する。
サリンは個人の力で作れるようなものではないからだ。

というわけで、
地下鉄サリン事件でも、
マスコミの質問に答え、
病院に対しては、
適切な対処法を助言する。

つまり、一連の事件での警察、病院、報道陣に対しての
科学的見地での進言者になる。
警察からの問い合わせ、
マスコミからの問い合わせに
誠実に回答し、
また、研究室や学会、授業での活動も描かれ、
裁判での証人としても出廷する。
主人公の一人称で描かれているはずだが、
「私は」という記述は一度も登場しない。

まるで、その学者そのものの筆によるのではないかと思わせる臨場感
筆者は「作中の主人公や同僚などは、すべて架空の人物である」
と書いているが、
やはりモデルはいて、
九大の井上尚英名誉教授(事件当時は現役の教授) がその人。
オウム真理教の教団が起こした一連の犯罪を、
化学兵器・生物兵器の視点から詳細に書き記すのは、
この人なしではできることではなかっただろう。
なお、著者自身も医者である。
なお、主人公の沢井は和歌山カレー毒物殺人事件を題材に取った
帚木蓬生「悲素」の主人公でもある。

そういう記録としての執筆の意図の視点なので、
エンタテインメント性は低く、
不必要に詳細な部分があり、
読者によっては、読むのに苦労するだろう。
特に、終盤、事件の証言台に立っての
弁護士とのやり取りは異様に長い。

ただ、感じるのは、
何の見返りも求めず、
学者として見解を述べる姿勢は素晴らしいの一言。
学問的蓄積が
社会に役立つことを喜んでいる姿。

読んで感じるのは、
オウム真理教という殺人集団の闇の深さ
出家を強要し、お布施として全財産を巻き上げ、
それを資金に、生物兵器、化学兵器を作り、
爆弾や自動小銃まで作り、
拉致監禁はお手のもの、
敵対する者は殺し、
教団内部でも脱出者は容赦せず抹殺し、
敷地内の焼却装置で焼き、灰を湖に捨てる。
秘密を握る幹部は、暴力団の力を借りて暗殺する。
その上、LED始め、覚醒剤まで製造。
まるで「犯罪の百貨店」のような姿。
それを教祖の操り人形に化した教団幹部が
逡巡の色もなくなし遂げる。
警察の捜査を受ければ、
「宗教弾圧だ」と声を上げる。
警察は腰が引けて捜査に踏み込めない。
そして、マスコミに登場して嘘ばかり言う。
真相が分かってみれば、
良心を失った卑劣な集団だったのだ。

と思いつつ、はたと思い当たった。
これと同じことをしている集団がある。
集団どころか国家だ。
北朝鮮
あの国も覚醒剤を作って密輸出し、
ニセ札を刷って、経済を攪乱しようとし、
日本人を拉致し、
航空機を爆破し、
後継者としての長男を空港でVXガスで暗殺し、
そして、なによりも核兵器を秘かに製造し、
ミサイルで周辺国家の脅威となっている。
その上、国民は飢えにさらしている。
まさに「国家的オウム真理教」が北朝鮮という国なのだ。
昔なら、戦争で圧殺できただろうに、今は「平和的話し合い」だ。
経済制裁をしても、
中国が秘密裡に援助するから効き目もない。
この国家が審判を受けるのは、いつのことであろうか。

科学者の視点での化学兵器に対する記述も、
目を見はらされた。
有毒ガスなどの化学兵器は
第1次世界大戦で開発され、使われた。
第2次大戦後も、イエメンやアフガニスタンやラオスで
マスタードガスが使われた
その後、国際条約で禁止されたが、
禁止されたのは、その使用のみで、
製造も保持も禁止されていない。
従って、各国は秘密に保有して、
いざという時に備えているというのだ。

生物兵器の歴史も古く、
既に紀元前300年頃に
ギリシャ人は動物の死体を
敵の飲料水の水源や井戸に投げ入れていた。
1344年、ヴェネチアとタタール人の戦争では、
タタール軍はペストの病死体を市内に投げ入れ、
市内にペストが流行、ヴェネチア軍は撤退した。
アメリカの独立戦争でも、
英軍は前もって兵士たちに種痘を受けさせた後、
痘瘡を蔓延させた。
しかし、生物を本格的に兵器化しようとしたのは、
日本軍で、中国で、各種病原菌の人体実験をした。
ソ連は崩壊前、40箇所以上の実験・製造施設を持っていたという。
ソ連崩壊の後、備蓄されていた病原体は全て廃棄されたというが・・
北朝鮮が破れかぶれで生物兵器を使用する可能性はゼロではない。

主人公の沢井教授が、
オウム真理教がサリンだけでなく、VXガスなどを作っており、
それだけでなく、ポツリヌス菌や炭疽菌まで作っていたことを知って
驚く場面は、
この集団が想像を絶する殺人集団であったことを感じさせる。

ところで、本書の中で触れていた、
民放がはからずも教団の宣伝部に成り下がっている実態
は、放送局は猛省すべきだろう。
当時、番組にオウム真理教の幹部を出演させ、
嘘の言い訳を垂れ流し、視聴率を稼いだ。
上祐史浩、村井秀夫、青山吉伸などが連日テレビに登場し、
視聴率の新記録を上げた。
しかし、後で事件の真相が明らかになってみれば、
彼らの弁明が嘘にまみれたもので、
その放送で、どれだけ捜査が攪乱されたか分からない。
腐りきった殺人集団に放送界は加担したのだ。

本書は全570ページ中、
205ページを地下鉄サリン事件に割いている。
そして、後半、教祖の裁判にも52ページを割いている。
かつての弟子たちに糾弾されて、
教祖が次第に変容していく様がうかがえて興味深い。

一連の事件では13名が死刑になった。
2018年7月6日、
麻原彰晃63歳、早川紀代秀68歳、井上嘉浩48歳、
新實智光54歳、土谷正実53歳、中川智正55歳、
遠藤誠一58歳の7名が処刑。
2018年7月26日、
小池(林)泰男60歳、豊田亨50歳、端本悟51歳、
広瀬健一54歳、宮前(岡崎)一明57歳、
横山真人54歳の6名が処刑。
地下鉄サリン事件が1995年3月20日だから、
23年の歳月が流れている。
当時20代後半から30代の彼らが
別の道を行ったなら、働き盛りの年齢である。

死刑囚13名のうち、
最期まで改悛の情を示さなかったのは、
教祖と遠藤誠一の二人。林泰男は不明。
あとの10人は罪を悔いたという。

死刑されたことで、
全体像の解明が困難となり、
かくも高学歴の人たちが
どうして浅原に従って犯罪を犯したかが
不明になったとの批判があるが、
浅原は狂人、
他は狂人に魅入られた人々
であり、
狂人のことをどんなに探求しても解は得られない。
                                        
歴史の中では、突然そういう特殊な人物が現れることがある。
常人と違う狂った価値観を持って物事に対処し、
それに魅入られた人々が集団を作る。
浅原もそうだが、ヒトラーも北朝鮮の金三代も同じだ。
そうでなければ、ユダヤ人の抹殺などを構想し、
実行するはずがない。
国民を飢えさせてミサイル発射に狂奔することも起こらない。
常人の良心は持ち得ず、あるいは希釈して、
非人の様相を示す。
宗教家もすれれのところにいて、
イエスキリストは、良い方が転がった例だが、
その後のキリスト教の歴史では殺戮が行われている。
スターリンも、毛沢東も、ポル・ポトもそれに近い。
習近平だって、へたすれば、そうなる。

世界は、そういう人物が登場することに警戒し、
教訓としなければならない。

しかし、なによりも、
こんな殺人集団の行為に巻き込まれて
命を失った人々の無念は
どうしてはらしてやったらいいのだろうか。

570ページを一気読み。
時間はかかったが、
充実した読書体験だった。






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