『天才激突! 黒澤明 VS 勝新太郎』  映画関係

7月21日、
NHKのBSプレミアムで、
『アナザーストーリーズ「天才激突!黒澤明 VS 勝新太郎」』
が放送された。

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これは、昨年11月19日に放送されたものの再放送で、
1979年に起こった、
映画「影武者」を巡る主役交代劇の裏側に迫る内容。

「暴走機関車」「トラ・トラ・トラ!」と
ハリウッド進出を果たせず、
「どですかでん」(1970)の興行的失敗で
自殺騒動を起こし、
ソ連で「デル・ウザーラ」(1975)を撮ったものの、
日本では撮影の機会に恵まれなかっ黒澤監督。
仕事もウィスキーのCMくらいで、
経済的にも困っていたという。

そんな状況を吹き飛ばす
黒澤明監督の久々の新作で、
勝新太郎(以下、勝新)が主演するという異色の顔合わせに
映画ファンは期待に胸を膨らませていた。
それが撮影現場の衝突で、
勝新が降ろされたというのだから、
映画界ならず、社会的にも関心が集まった。

この番組は、
その顛末を関係者の証言で明らかにする。
証言者は黒澤映画のスクリプターを務め、
後にアシスタントプロデューサーになり、
黒澤監督と40年間歩みを共にした野上照代さん。
(当時52歳、放送当時92歳、以下同じ)
当時助監督だった大河原孝夫氏(29歳、69歳)
出演者公募に応募し、
演技経験ゼロでありながら徳川家康役に抜擢された油井昌由樹氏(32歳、72歳)
勝プロでテレビ版「座頭市」の脚本を書いた中村努氏(46歳、86歳)
勝新の弟子だった谷崎弘一氏(28歳、68歳)
映画評論家の白井佳夫氏(47歳、87歳)
勝新のマネージャー、アンディ松本
ら多彩。
黒澤監督側、勝新側、映画界側という
3つの視点からアナザーストーリーを語る。
映画制作の現場を撮影した未公開映像
(今で言うメイキング映像)も駆使し、
興味深い内容が続く。

当時、記者会見などで伝えられた内容は、
勝新が「演技をチェックするために」
ビデオカメラを撮影現場に持ち込もうとし、
それを黒澤監督が拒否
したことで衝突、
降板に至った、というものだった。

その一報を聞いて、
そんな些細なことで、何故?
という疑問が浮かんだ。
その程度のこと、なんとか調整が出来なかったのか、と。

その疑問に、この番組は回答を与えてくれた。
事件には「前哨戦」があったのだ。

衣裳合わせや写真撮影で和気あいあいとしていた二人。
しかし、ある局面で一変する。

衝突した1979年7月18日の前日、
7月17日リハーサル時のこと。
武田信玄の身代わりになったのを
見破られそうになったのを
影武者がうまく取り繕ったのを
「出かした」と側近武将に誉められた時、
「出かすも出かさぬも、他に仕様はなかった」
と言う影武者のセリフを、
勝新は台本どおりに言わず、
毎回違うセリフで言った
というのだ。

ここで、二人の映画技法の違いが露呈する。

黒澤監督のやり方は、
複数のメンバーで入念に脚本作りをし、
絵コンテでイメージを明らかにし、
リハーサルを繰り返して演技を固め、
本番では、長い芝居をさせて
望遠を含めた複数のカメラで撮影。
それを編集段階でカットをつなぐ、
というもの。
役者には、カット撮影でなく、
演劇に近い継続演技をさせる。
当然、アドリブは許されない
そのやり方で、緊迫感のある演技を引き出し、
画面にもそれが反映し、成果を挙げてきた。
黒澤監督は「完全主義者」と呼ばれた。

それに対して、勝新の方は、
脚本を重視せず
(目の前で脚本をごみ箱に捨てたという脚本家の証言が出て来る)
アドリブ演技即興演出で撮影し、
元の脚本とは似ても似つかない作品に完成させる。
出来上がった物を見て、
関係者は「すごい」と感嘆する。
日本にも外国にも、
そういう撮影方法を取る監督はいる。
うまくいけば、新鮮な演技が盛られた独特な作品が出来上がる。
ただ、うまくいかない時は、連続性のない、
妙ちきりんなものを観客は見せられることになる。

勝新はリハーサルに自分のやり方を持ち込んだ。
毎回違うセリフを言い、模索した。
それはわざとだった、と周囲は証言する。
しかし、きっちり脚本を絞り込んでいる黒澤監督にすれば、
台本の無視などあってはならぬこと、
はっきり言って、自分のやり方への挑戦に思えた。
黒澤監督は不機嫌になり、
「違うったら、勝くん」と監督の罵声が飛んだという。

おそらく、この日の経験で、
黒澤監督の中に勝新に対する不信感が募ったのだろう。
今まで、自分のやり方で
スタッフもキャストも従わせて来た、
「黒澤天皇」とも揶揄されてきた人だ。
「いやだ、こいつと一緒に仕事は出来ない」
と思ったようだ。

そして、翌日。
ビデオカメラを持ち込んで、
演技の確認をしたい、と直訴する勝に対して、
「断る」と声を荒らげたのは、その背景があったのだ。
勝新は車の中に立てこもり、
そこで、黒澤監督の「じゃ、やめてもらおう」というひと言で
決着する

黒澤監督の憤りは、
記者会見での発言、
「勝さんがビデオ見て、
自分勝手にいろんなこと考えて、
直されても困る」
「監督が二人いたら、映画は出来ない」
という言葉に現れている。

勝新の降板後、
黒澤映画に実績のある仲代達矢が起用され、
作品は大ヒットして興行成績27億円をあげ、
カンヌ国際映画祭ではパルム・ドールを獲得した。
(ただ、私は感心しなかった。
リズムもテンポも悪く、
カット割も遅い。
武田軍団が滅亡するくだりでは、
銃撃の音とそれを見守る後継者・武田勝頼の表情だけ。
映画なんだから、映像で見せなければ。)

映画評論家の白井佳氏は言う。
「日本映画の悲劇、黒澤の悲劇」と。
「黒澤映画には今までなかった
勝新太郎みたいな横紙破りな
天衣無縫な笑いを取れる人。
黒澤さんの方も、それを理解して、
それを取り入れて映画が作れたら、
両者にとって今までになかった新しい日本映画が出来たろう」
と。

実際、私も勝新の武田信玄で「影武者」を観たかったと思う一人だ。
仲代達矢のような名優に対して、失礼を承知の上で言うが、
仲代さんの影武者は、予測の範囲の演技だった。
驚きも新発見もなかった。
それをぶち壊す勝新の信玄と影武者を観たかった。
二人の天才がぶつかる化学反応を観たかった。

では、どうすればよかったのか。
白井氏は、間に立って調整するプロデューサーの不在を嘆く。
「黒澤さん、勝新太郎って、こういう人ですけど、
こういうところを気をつけてやれば、いい演技をしますから、
なるべく彼のやり方にそってやりましょうよ」
勝新には、
「黒澤さんって、絶対的をイメージを持っていて、
それに作る映画を近づけたいっていう人なんだから、
勝っちゃんみたいな、
俺の思うとおりにやっていいんだっていうのは、
通じないんだよ」
と仲介できるプロデューサーが不幸にしていなかったとして、
黒澤の初期作品のプロデュースをした本木荘二郎がいてくれたら、と嘆く。

この白井氏の見解を野上さんにぶつけてみると、
野上さんは「白井さんは甘いよ」とばっさり。
「片方はうまくいくかも分からないけれど、
黒澤さんを説得するのは、
あの件に関しては無理」
と。
更に
「(黒澤)先生は勝のことを知らなかったんですよ。
やっぱりダメだから、だったんですよ。
自分の思いとおりにいかないから」
そして、こうも言った
「不勉強だった」

冷徹な視点を持った野上さんだから、
二人がどうやっても折り合わないことを
早々と見抜いていたのだろう。

当時、黒澤監督は69歳。
素晴らしい実績を持って、日本映画界に君臨し、
世界的にも評価は高かった。
70近い年齢で、
それまでやってきた手法を変えることなど
出来はしなかったのだろう。
一方の勝新は、47歳。
36歳で勝プロを立ち上げて、社長に就任。
誰も彼に助言や忠告をする人はいなかった。
そして、確立した感性演技と即興演出。
彼もその手法を変えることはできなかった。

もしお互いの手法を理解し、受け入れていたら。
それは不可能だったのかもしれない。
結局、相手を理解せず、受け入れず、不寛容に陥った
何らかの形でお互いに信頼関係が結ばれ、
尊敬と協力が生まれていたら、
と悔やまれてならない。

再び白井氏。
「影武者のことを言い出すと、悔しいことばかりだ。
決して悔しかったのは、
黒澤監督と勝新太郎だけじゃない。
双方の映画を見守っていた
日本映画の大好きな人間はみんな
なぜできなかったのかという悔しさがあります」

勝新太郎は1997年、65歳で逝去。
黒澤監督は1998年、88歳で逝去。
二人が再び相まみえることはなかった。

いろいろ考えさせられる
素晴らしい番組だった。
さすがはNHK。


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