小説『まち』『ライフ』  書籍関係

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江藤瞬一は、群馬県の片品村の出身。
高校卒業と同時に東京に出て、
下町のアパートに住んでいる。

小学校3年生、9歳の時、
村で宿屋を経営していた両親を
火事で亡くしている。
それ以来、アパートでも火を使えない。

9歳から18歳まで、
祖父と一緒に暮らした。
祖父は歩荷(ぼっか)だ。
歩荷とは、山小屋に食料や燃料を運ぶ人。
車の入れない山道を60キロから100キロの荷物を
背中に担いで運ぶのだ。

じいちゃんに言わせれば、
歩荷は選ばれし人の仕事ではない。
ある程度の体力があれば、
経験を積むことで誰でもできるようになるそうだ。
ただし、山や自然が好きでないと続かない。
何せ、外。
寒いし、暑い。
風が強い日や雨が降る日にはコケることもある。
それでも、自然を感じられるのは魅力。
毎日同じ場所を歩いていても、
景色は少しずつ変わる。
その変化を楽しめる人なら続く。


中学生の時、歩荷のまねごとをした。
わずか15キロの荷を背負って、
もっと重い荷を背負う祖父に続き、音を上げた。

その祖父の勧めがあった。

「瞬一は東京に出ろ。
東京に出て、よその世界を知れ。
知って、人と交われ」


それで、東京に出た。
江戸川区平井にある筧ハイツ。
1階と2階に各2室の計4室のアパート。
荒川の河川敷がすぐ側で、瞬一のランニングコースだ。
気に入って、5年も住んでいる。
大家さんもいい人だ。
仕事はコンビニで3年働き、
その後、引っ越し屋になった。
どちらもバイトで、
引っ越し屋は日払いだ。
体を動かすのが好きなので、
引っ越し屋の仕事は性に合っている。
日雇いのバイト同士はほとんど親交はないが、
野崎という男とは、奇妙な縁で友人になった。

アパートは、下の階にいる、
定年過ぎで、奥さんを亡くした得三さんと知り合いになった。
隣の部屋の敦美さんと彩美さんの母子とは、
部屋に舞い込んだゴキブリや蛾の退治で交流するようになった。

などと、瞬一の生活を巡るあれこれが日常的に描かれる。
食事はコンビニやスーパーの弁当。
既に書いたとおり、火を使わずに済むからだ。

外食はたまにしかしないので、
何を食べてもうまいと感じる。
というか、僕はスーパーの割引弁当でもうまいと感じてしまう。
バカ舌なのだと思うが、
一方では、便利だとも思う。
ものをおいしく食べられること。
それは幸せ以外の何ものでもない。


割引弁当とは、
夕方になって売れ残った弁当を何割引きが売っているもの。
元働いていたコンビニでおにぎり百円セールがあると、
必ず行って、からかわれる。

後半で、祖父が訪ねて来る。
瞬一の東京の住まいを見ておきたいのだという。
そして、瞬一に言う。

「瞬一は、頼る側じゃなく、頼られる側でいろ。
いつも頼ってたおれみたいな人間じゃなく、
おれに頼られてた摂司みたいな人間になれ。
お前を頼った人は、お前をたすけてもくれるから。
たすけてはくれなくても、お前を貶めはしないから」


摂司さんとは、村の役場の人で、
祖父の面倒を見てくれている。

一緒に住もうという勧めに、祖父はこう言う。

「じいちゃんは村の人間だ。村でしか生きていけない」
「でも、住めば慣れると思うよ」
「慣れるのは、瞬一が若いからだ。
若くてやわらかいからだ。
じいちゃんはもう硬い」
「そんなことは、ないと思うけど」
「瞬一はじいちゃんみたいになるな。
町で、人のなかで生きていける人間になれ」
「町に住む摂司さんみたいな人間になれってこと?」
「あぁ。そうだな。
町に住む摂司。それが一番だ。
摂司みたいに、地域を守れる人間になれ」
「町は、広すぎて守れないよ」
「ならせめて人を守れ。人を守れる人間になれ」
身内でも何でもない人の長所を素直に認め、
自分ではなくその人のようになれと言える
じいちゃんのような人に、僕はなりたい」


その祖父が亡くなった。
すい臓がんだった。
見つかった時は、もう遅く、
お別れの意味で祖父は訪ねて来たのだ。
瞬一が村に戻って2時間後に亡くなった。

人が亡くなっても、人は生まれる。
じいちゃんが亡くなっても、多聞(同級生)の子は生まれる。
そんなふうにして、人は入れ替わっていく。
村は変わらないが、人は変わっていく。
でも変わらないものもある。
村にじいちゃんはいた。
そこで生きていた。
その事実は変わらない。
じいちゃんが亡くなったからといって、
じいちゃんが村で生きてなかったことにはならない。
じいちゃんと村のつながりは絶えない。
そしてじいちゃんと僕のつながりも絶えないのだから、
村と僕のつながりも絶えない。


敦美さんの部屋に
離婚したDVの夫が復縁を迫ってやって来た時は、
防衛してやった。
そのとき、元夫はガスコンロから布巾に火をつけたが、
瞬一が撃退する。

俊一は自分が敦美を好きなのだと自覚する。
そして、思う。

火の怖さを、敦美さんと彩美ちゃんを守りたい気持ちが超えた。
あれはそういうことだったのだと思う。
人を守ること。
それは結局、じいちゃんが僕に教えてくれたことだ。
言葉で、ではない。
身を以て、教えてくれた。
僕は両親に守られた。
じいちゃんにも守られた。
そして今、僕には守りたい人がいる。
なら守ればいい。


というわけで、
自分の身近な人を守って暮らすこと、
その貴さを伝えて物語は終る。
偉い人にならなくても、
有名にならなくても、
東京の町には、世界には、
そういう大切な宝を抱いて生きる、
そういう幾万、幾億の人たちがいて、
それで世界は成り立っているのだ。

瞬一が最後に選んだ職業は、
是非読んで確かめて下さい。

小野寺史宜の世界は温かい。
本屋大賞上位作


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「ライフ」は「まち」の姉妹編で、
「まち」より半年ほど前に書かれた。
舞台は同じ平井で、
主人公・井川幹太は同じ筧ハイツに住んでいる。
「まち」とは住民の構成が違い、
共通する登場人物は大家の筧さん夫婦と、
古い喫茶店「羽鳥」のオーナーのおばあさんだけ。

幹太は2度の就職に失敗して、
今はコンビニのバイト。
上の階に住む戸田の無神経な足音に悩まされつつ、
いつの間にか親しくなる。
戸田は浮気が原因で奥さんと子供と別居中だが、
時々奥さんと子供が訪ねて来る。
その戸田家との交流を描きつつ、
幹太の日常が描かれる。
「まち」と同じテイスト。
だが、「まち」の方が
じいちゃんという魅力的人物が登場する分、
深く、面白い。



紀行文『深夜特急・第三便 飛光よ、飛光よ』  書籍関係

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飛光よ、飛光よ
とは、唐代の詩人、李賀が詠んだ詩、

飛光よ、飛光よ
汝に一杯の酒をすすめん

から来ている。

沢木耕太郎による紀行小説シリーズ第3弾(最終章)。

イランを出てトルコに入る。
黒海を眺めるために北上し、
南下してアンカラに。
そこで会うべき人がいた。
テヘランで磯崎夫妻に会った時、
奥様からアンカラの女性画家に、
亡くなった恩師の回顧展のパンフレットを
届けてくれるように依頼されたのだ。
奥様の姉妹弟子であると共に、
恩師の愛人でもあった人物だ。
その人物に会って数日食事を共にし、
大任を終えた気になる。

ボスポラス海峡をフェリーで渡って、
ヨーロッパに入る。
ブルー・モスクの見えるホテルを取り、
アヤソフィアなど観光名所を巡る。
それまでは入場料の必要なところは回避していたのだが、
せいぜい5、6リラ(100〜120円)のこと、
夜の食事の皿を一つ少なくすれば済むことだ、
と考え直して、名所に入ることにしたのだ。
しかし、たいした感銘を受けない。

やはり私には街が面白かった。
街での人間の営みが面白かった。


と書くとおり。

ヨーロッパに入ってから安心感が広がったのがよく分かる。
私も昔エジプトからトルコに入った時、
文明国に入ったような気がしたものだった。
まず、文字が読める。
エシプトのミミズがのたくったような文字ではなく、
アルファベットだからだ。
そして、信号がある!

ギリシャ
夜着いてホテルに泊まり、
朝が来て、表に出た途端、思わず声をあげそうになる。

昨日までと世界が一変していたからだ。
着いた時は深夜だったためわからなかったが、
ホテルの前は広い通りで、
そこには朝日に照らされて
石造りの端正なたたずまいのビルディングが立ち並んでいた。
テサロニキは都会だった。
それも正真正銘のヨーロッパの都会だった。
その感を深めたのは、
大通りの歩道に、
コートを着て急ぎ足で会社に向かう人の流れがあったことだった。
これまで私が通過してきた都市では
ほとんどこうした通勤の人の流れを観ることがなかった。


こうして、東南アジアから中央アジア、回教圏を通過して、
ヨーロッパに到着したことを実感する。

そのことを茶の言葉で実感するのも面白い。
茶を「チャイ」など「C」で表現する国から
「ティ」と「T」で表現する国になったのだ。

私はトルコからギリシャに入ることで、
アジアからヨーロッパへ、
イスラム教圏からキリスト教圏へ、
茶の国からコーヒーの国へ、
「C」の茶の国から「T」の茶の国へと、
違う種類の国へ来てしまっていたのだ。


そのあと、ペロポネソス半島を経て旅は続くが、
その時、次のような感想を抱く。

旅がもう本当に人生に似ているものなら、
旅には旅の生涯というものがあるのかもしれない。
人の一生に幼年期があり、少年期があり、
青年期があり、壮年期があり、老年期があるように、
長い旅にも
それに似た移り変わりがあるのかもしれない。
私の旅はたぶん青年期を終えつつあるのだ。
何を経験しても新鮮で、
どんな些細なことでも心を震わせていた時期は
既に終っていたのだ。


実際、筆者の旅行記は、
この第三便になって、やや精彩を欠く。
それが旅の人生の時期によるものかもしれないが、
もしかしたら、香港やインドと相性が良く、
ヨーロッパとは相性が良くなかったのか分からない。

私自身の経験でも、
定年を迎え、ほぼ月1の頻度で旅行した時に警戒したのは、
「感動のインフレ」ということだった。
贅沢な悩みだが、
旅行を重ねれば重ねるほど、
そういう傾向に陥ることを警戒したのだ。

ペロポネソス半島から船でイタリアへ。
その船の上で、
次のように感じるのも旅行に倦んできたからかもしれない。

この船のうえで僕が感じていたものは、
安らかさではなく、
不思議なことに深い喪失感だったのです。
体が空っぽになってしまったような虚しさが僕をとらえていました。


そして、こうも書く。

長い道程の果てに、
オアシスのように現れてくる砂漠の中の町で、
ふと出会う僕と同じような旅を続けている若者たちは、
例外なく体中に濃い疲労を滲ませていました。
長く異郷の地にあることによって、
知らないうちに体の奥深いところに
疲労が蓄積されてしまうのです。
疲労は好奇心を磨耗させ、
外界にたいして無関心にさせてしまいます。
旅の目的すら失い、
ただ町から町へ移動することだけが
唯一の目的となってしまいます。


イタリアに入って、驚くべき経験をする。
ローマに行くバスを探すと、
「ローマに行くバスなんかない」という答が返ってくる。
列車で行け、という。
長距離バスというものが存在しないのだ。
少しでも近い町に行って、
次のバスに乗り継ぐ形で、ちょっとずつ近づくしかないのだ。
乗合の生活バス路線。
逆に沢山の市民たちと一緒で、
様々な出会いのあるバス旅行となった。
中には極真カラテの大山倍達を知っている子供にさえ会う。

ローマで筆者はある芸術作品に出会う。

城、館、寺院、博物館、遺跡、廃墟。
シルクロードで必見とされるどんな場所も、
僕には無縁のものでした。
何ひとつ見なかったというのではありません。
見たり見なかったり。
そこに寄るかどうかは、金のかかり具合と、
その時の気分しだいだったのです。
どうしても見たいと願ったものではなかったから、
見たものですらその翌日には
ほとんど忘れてしまうという有り様でした。


と書いて、この人、文化音痴ではないかとさえ思っていたが、
サンピエトロ寺院でミケランジェロのピエタを見た時は、
魂を奪われるのだ。

<こんなものがこの世に存在していいのだろうか・・・>
私は胸の裡で呟いた。
この世の中に天才などというものがいるとは信じたくはないが、
この「ピエタ」を作った人物にだけは
その呼称を許さざるをえない、と思った。


紀行文を通じて、文化、芸術には
あまり感受性がないと思わざるをえないにもかかわらず、
この「ピエタ」がそれを突き破る。
やはりミケランジェロを素晴らしい。

ローマでは、あの恩師の奥様に会い、
フィレンツェを通過し、
モナコではマカオのカジノでの記憶から、
カジノで一儲け、
と思いつつ、ジャケットを着ていないばかりに、
カジノにさえ入場を許されない、という笑い話もつく。

スペインでは、バルセロナとバレンシアとマドリードに。
当然、サグラダ・ファミリアにもプラド美術館にも行かない。

ポルトガルに入り、リスボンから、
イベリア半島の突端ザグレスまで行ってみる。
ザグレスでは、ポルトガル語で茶を「CHA」と言うのだと知って愕然とする。
また「C」の国に戻ったのだ。

そして、パリを経て、ロンドンへ。
ロンドンの中央郵便局から「ワレ到着セリ」という電報を東京に打とうとして、
「君はここから電報は打てない」と言われてしまう。
電報は郵便局からではなく、電話局から打つのだという。
しかも、電話でも受け付けると言われて愕然とする。

というわけで、
香港、マレー半島を皮切りに、
デリーからロンドンまでの長距離の旅。
猿岩石があの無銭旅行をする
はるか前のことである。

1年にも及ぶ長い旅行記を読んで思うことは、
私とは真反対の旅行のしかただということ。
私なら綿密な計画を立て、飛行機を手配し、
ホテルを予約し、必要なチケットを得るようにしてから出かける。
貴重な異国での時間を失いたくないからだ。
しかし、筆者のスタイルは「行けば、どうにかなる」というもの。
それはそれで楽しいのだろうが、
安いホテルを探して、重い荷物を持ってうろつく、
その時間がもったいない。
そして、値切りの交渉。
実際は日本円にして10円や20円の値切り交渉なのだ。
そんなことをして、得をしても、
自分の精神が損をしてしまう、と思う。

まあ、旅行のスタイルの違いだが、
若いから出来る旅行でもある。
恥ずかしいことを沢山出来るからだ。

ただ、筆者は幸運に恵まれたのだ。
劣悪な食事だったにもかかわらず、
病気は一度だけ。
盗難にも合わず、
事故にも巻き込まれず、
人に沢山助けられた。
たとえば、パリでは初対面の人から
二重に借りているアパートを
一日わずか5フラン(300円)で借りることが出来た。
篠崎夫人に頼まれて面会した恩師の関係者からも親切にされる。
その他、バルで見知らぬ人から沢山のオゴリを受ける。
それはおそらく、筆者の持っている人徳と運によるものだろうと思う。

この本はバックパッカーのバイブルになっているという。
しかし、真似は危険だ。
世界にはあらゆるところに危険が口を開けて待っているのだから。

旅する者として、
貴重な体験談に満ちた、
面白い読物だった。


映画『ペイン・アンド・グローリー』  映画関係

[映画紹介]

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「オール・アバウト・マイ・マザー」(1998)
「トーク・トゥ・ハー」(2002)などの
スペインの映画監督ペドロ・アルモドバルの自伝的映画。
「オール・アバウト・マイ・マザー」では、
アカデミー賞外国語映画賞を獲得、
「トーク・トゥ・ハー」では
アカデミー賞脚本賞を受賞。
その監督は今68歳
その老境を反映した映画だ。

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サルバドールは世界的名声を獲得した映画監督だが、
脊椎の痛み(ペイン)やのどの障害で心身共に疲弊し、
過去の栄光(グローリー)に浸る
引退同然の生活を送っていた。
今心を占めているのは、
美しい母親のことや
幼少期にすごした洞窟住居での出来事の回想ばかり。
過去に魂がとらわれ、未来に心が向かわない。

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そんな時、32年前に撮った作品が古典認定されて
シネマテークで再上映され、
主演だったアルベルトともに
上映後のティーチ・インに参加してほしいとの依頼が舞い込む。
しかし、アルベルトとは演技を巡り大喧嘩しており、
再上映当日にも、再びアルベルトと喧嘩別れしてしまった。

仲直りの意味で、一人芝居の脚本「中毒」を提供したところ、
その上演を見た観客の男性がアルベルトの楽屋を訪ねてきて、
自分が芝居の中に登場した、サルバドールの元愛人だと告げる。

実は、サルバドールは、若い頃、
その男性フェデリコと一緒に住んでいた。
今はアルゼンチンに住むフェデリコと再会したサルバドールは、
旧交を温め、過去の追憶に浸る。
「僕との体験は辛かったのか?」
と訊くフェデリコに対し、サルバドールは
「君との3年間は今の僕を作ってくれた大切な時間だった」
と答える
最後に二人は昔のようにキスを交わして別れる。

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サルバドールは常用していたヘロインを棄て、
友人の女優メルセデスの勧めもあって、
積極的に手術を受け、
自分を苦しめていた痛みから解放され、
創作意欲を取り戻す。

これに、子供時代、洞窟住居の壁塗りと引き替えに引き受けた
文盲の左官の青年エドゥアルドへの勉強、
エドゥアルドの描いたサルバドールの肖像画を通じて、
幼少期の性衝動の起点が明らかになる。

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また、4年前の母との別離から立ち直れていないサルバドールは、
「母の望むような息子になれなかった後悔」にとらわれている。

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という、映画作家の老境と幼少期の自己投影という、
よくあるパターンではあるが、
なるほどそういうこともあるだろう、
という状況がていねいに描かれる。

サルバドールを演ずるアントニオ・バンデラスの陰影のある演技が見物。

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先のアカデミー賞の主演男優賞にノミネートされた。
カンヌ国際映画祭では主演男優賞を獲得。

若い時の母親役は、アルモドバル作品の常連、ペネロペ・クルス

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こんな美しい母親なら、
追憶の対象になるだろう。
アルベルトには、アシエル・エチェアンディア
フェデリコは、アルゼンチンでは絶大な人気を誇る
レオナルド・スバラーリャ
短い登場場面だが、印象に残る演技で、
この映画の価値を高めた。
なによりこの場面は
失われた青春への悔恨に満ち、
美しく、胸を打つ。

「トーク・トゥ・ハー」の音楽は、
私の映画音楽史上ベストテンに入る作品で、
本作も同じアルベルト・イグレシアスで期待したが、
ちょっと精彩を欠く。

自分自身のことを描くようになると、
映画作家としては最終局面だが、
それをおいても、
アルモドバル監督らしい作品と言える。

先のアカデミー賞の国際長編映画賞ノミネート。

5段階評価の「4」

予告編は↓をクリック。

https://youtu.be/iQGLmoKYtYI

TOHOシネマズシャンテ他で上映中。


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浦安サイクリング  わが町・浦安

少し前の話になりますが、
都内の友人が、
自転車を新調したので、
それに乗って浦安を訪れたい、というので、
一緒にサイクリングをしました。

実は、その時はカメラを持っていかなかったのですが、
過去に撮った写真、
後で撮った写真で補って、
再構成してみました。

待ち合わせ場所は↓の浦安橋の上。

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旧江戸川に浮かぶ島は、妙見島といって、
工場とラブホテルと食堂があります。

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以前、「タモリ倶楽部」で、
妙見島探検という企画で取り上げられたことがあります。
車と徒歩で入れます。

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ここで待ち合わせ。

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向こうに見えるのは、
地下鉄東西線の鉄橋

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このつなぎ目が、

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東京都と千葉県の境界です。

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時間ぴったりに合流し、
下に降りて、ここからサイクリングの開始。

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すぐに市内の運河の旧江戸川への水門があり、
ここから、朝獲れの魚介類が
日本橋の魚河岸に運ばれ、
浦安は漁村として栄えました。

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東西線が来るまでは、
浦安は陸の孤島。
浦安に住む、と言ったら、
銀座にいた義兄からは、
「あんなとこ、人間の住むとこじゃねえぞ」
と言われました。

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旧江戸川沿いに南下します。

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ここは、船の繋留所。

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途中、「変なホテル」に立ち寄り。

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ディズニーリゾート沿いに進みます。

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ここから、東京ゲートブリッジも遠望できます。

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ちょっと脇道に入ると、

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東京ディズニーシーが、

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こんな風に見える場所があります。

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浦安市民でもあまり知られていません。

途中、ここで水分補給。

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品薄のファンタ・プレミアムがありました。

左に見えるのは、私の住むマンション。

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私のかかりつけの順天堂大学病院

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増築するほど繁盛していますが、
ものすごく待たされます。
10時の予約を入れても、
医者に会えるのは、12時。
なんとかならないのか。

この橋を渡って右折。

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浦安を南北に走る運河・境川を見ながら、南下します。

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やがて、ここから緑地公園に。

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もう漁船はいません。
時々モーターボートやカヌーが走ります。

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河口に着くと、

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東京湾が眼前に。

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海沿いに建つホテル。

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花火大会の場所にあるのですが、
今年は花火大会の中止が決まっており、
大変でしょう。

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休憩所。

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遠くに幕張の新都心が見えます。

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海沿いに北上。

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ここは三番瀬

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京葉線が見えてきました。

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京葉線をくぐって、海沿いの道を行き、

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住宅街を通り、

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埋め立て地で平坦な浦安市で、
唯一の坂道

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湾岸道路を越える道です。

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これが湾岸道路。

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やがて、市内のメインストリート、
やなぎ通り」に。

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この通りは、湾岸を越えると、
「シンボルロード」と名前を変えます。

食事はここで。
半個室なので、コロナ向け。

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地下鉄の駅の入り口。

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元の浦安橋に戻りました。

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70歳前後のおじさん二人のサイクリング。
マスクをしているから不審者?

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こうして走ってみると、
浦安は川と東京湾に囲まれた、
水豊かな町だと再認識しました。


紀行文『深夜特急・第二便 ペルシャの風』  書籍関係

[書籍紹介]

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沢木耕太郎による紀行小説三部作の第2部。

今回はインド・ネパールから
パキスタン、アフガニスタン、イランの回教圏を回る。

インドの最初の都市はカルカッタ
ここで筆者はいつものとおり、
あてどのない彷徨を繰り返す。
ただ、カルカッタは肌に合ったようで、
香港と同じような興奮を味わうことが出来た。

ホテルはドミトリーと呼ばれる大部屋で、
いろいろな国から来たヒッピーたちと交流。
そうなのだ、
この時期、世界的にヒッピーが流行っていた時代で、
世界中の若者たちが「自分探し」の旅をしに、
中東諸国やアジアに雪崩込んでいたのだ。

カルカッタには半月ほど滞在し、
列車で北へ向かう。
移動手段として列車を許したのは、
バスでロンドンを目指すのは、デリーからと決めていたからだ。
車中の地元民との交流でブッダガヤに行くことに決める。
ブッダガヤは、ブッダが悟りを開いた場所。
そこには、無料で宿泊できる日本寺があり、
そこでやっかいになる。
そこで知り合った日本人に
アシュラムに参加することを勧められる。
アシュラムとは、瞑想を主体とした道場のようなものだが、
そこのアシュラムは、農業共同体のような場所で、
孤児院や学校でもあるという。
そこで日本の農業大学の学生たちと一緒に過ごすことになる。
農作業とインドの子供たちとの交流。
若いから出来る貴重な体験だ。

そこを別れる時、トラックを追いかけてきた少女たちが
渡したものは、髪留めのピン。
それが彼女たちの持つ唯一の私有物で、
それを差し出す姿に胸を打たされる。

その後訪れたネパールの首都カトマンズは、
ずっと雨に降られ、あまり良い印象を持たなかったようだ。

再びインドに戻り、ベナレスへ。
ガンジス河の沐浴の場所。
ここで死体焼場を観察する。

次に移ったカジュラホで、筆者は病気になる。
熱が出て女性と同室のドミトリーで眠り込み、
何とか回復したと思ってデリーまで移動し、
YMCAに宿泊し、ますます病状は悪化する。
日本から持って来た薬を飲んだというと、
YMCAのボーイは
「インドの病気はインドの薬でないと治らない」と言い、
丸薬を与えてくれ、
一週間かかって回復した。

筆者はこの旅行の間、
病気にかかったのはこの一度だけ
幸運だったと言える。
体が大きかったせいか、
泥棒にも合わず、
金も荷物も無事だった。
これも幸運だったのだ。

そして、ついにデリー発ロンドンへのバス旅行が始まる。

インドのバス、とりわけ長距離バスを一口で説明すれば、
座席のある貨物カーとでもいっておけばいいのかもしれない。


と書いてあるように、
乗客は莫大な家財道具一式を抱えて旅行しているのか、と思うほど。
国境を越え、パキスタンに入ると、
インドよりもっとすごいバスだと分かる。
猛スピード、追い越し、信号などない悪路を突っ走る。

ホテルはヒッピー専用。
東から西へのヒッピーと、
西から東へのヒッピーが交流し、
情報交換する。
主に安い宿と安い食事の情報だ。

映画を観た経験が面白い。
あまりにもつまらない映画だったので、
中途退場すると、
制服警官に追尾され、
ついに拘束され、暴力まで受ける。
爆弾を映画館に仕掛けたと誤解されたのだ。
パキスタンでは映画は途中退場は出来ないらしい。
日本からの旅行者ということで放免されたが、
国が変われば、いろいろなものが変わり、
危険も伴うという典型の話。

宿に帰って、主人に
「途中で帰っちゃいけないっていう、法律でもあるのか」
と聞くと、
「そんなものは必要じゃない。
映画を見にいって、
終わりを見ないで帰ってくるような馬鹿は、
ひとりもいないんだからな」
と軽蔑したように言われた。

カブールでは、安く泊めてもらうかわりに客引きをやらされた。
日本人対象だという。
日本人の客はつかまらなかったが、
日本人が泊まっているゲストハウスに入り浸り、
時間を浪費する。

それを見て、
ホテルのマネージャーという21歳の男に言われた言葉が辛辣だ。

歳を聞き、27だと答えると、
「そんな年をして、まだこんなことをしているのか」と言う。
自分は小さい時から働いて、マネージャーになった。
その彼にとっては、

無為に旅を続け、無為に日々を送っているかのように見える
私のような存在が、たまらなく不快だったのだ。

「おえまたちは馬鹿だ。
みんな汚くて金がない。
何のために旅行しているんだ。
楽しむためだろう。
それなのに楽しむための金さえ持っていない。
馬鹿だ。
俺はその馬鹿から金を巻き上げてやるんだ」


ある種、まっとうな批判である。
地に足をつけて働いている身からは、
ヒッピーの「自分探しの旅」など空虚なものに見えたのだろう。

テヘランには急いだ。
というのは、知人の建築家夫妻が滞在しているのに
間に合わせなけれはならなかったのだ。
その動機が、「ご馳走してもらえる」だから笑える。
夫妻の滞在最終日に間に合い、
望みとおり、ご馳走にありつく。

一貫しているのは、
筆者には、名所旧跡には興味がないのだということ。
それどころか宗教や文化や政治にまで記述は少ない。
関心がないのか、知識がないのか。
今のように旅行の情報誌があふれているような時代ではない。
世界遺産もようやくユネスコで条約が通った頃で、
まだ一号登録もされていない。
「地球の歩き方」の創刊は1979年だから、
この当時、まだ存在しない。

筆者の興味は、町を歩くこと、
そして人と交わること。
それも旅の一つの形だが、
なんだか、それでいいのか、という気もしてくる。

エネルギーを割くのは、
安宿探しと、買い物の時の値切り。
それも日本円にして、わずか10円20円のことだ。
旅費に限りがあるので、
仕方ないとも言えるが、
まさしく青年の言った「楽しむための金もない」のだ。

私には、こういう旅は出来ないな、と感ずる。
否定するつもりはないが、
私は、しない。

実は、今回の旅程の国は、私はほとんど行っているが、
この本の後半のパキスタン、アフガニスタン、イランは
足を踏み入れたことがない。
行けば、あそことあそこを見て、
と希望は沸くが、
まだそういう時代ではなかったのかもしれない。





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