泉岳寺  耳より情報

一昨日昼、ここへ。

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先日、映画「決算!忠臣蔵」で、
最後に泉岳寺が出た時、
そういえば、泉岳寺には行ったことがない
と気づき、訪問することにしました。
30年近く、品川の職場に勤めていたのに、
どうして訪れなかったのでしょう。

地下鉄の駅から泉岳寺は、徒歩でわずか3分。

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坂を登り、信号を渡れば、すぐです。

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これが中門

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短い参道があって、

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四十七士ゆかりのお土産が売られています。

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これが山門

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慶長17年(1612年)に
徳川家康が外桜田に門庵宗関を招いて創建。
寛永の大火で焼失しましたが、
徳川家光の命で、
毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の5大名により、
現在の高輪の地で再建されました。

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その脇には、大石蔵之助の銅像が。

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誰がモデルなのでしょう。

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寺の平面図。

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境内。

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本堂

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「獅子吼」とは、お釈迦様の説法のこと。

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泉岳寺が有名なのは、
忠臣蔵の浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)と赤穂義士のお墓があるからです。

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義士墓所への道。

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血染めの梅と血染めの石。

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元禄14年3月14日、
江戸城松之廊下で、
吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ、「よしなか」とも)に
斬りかかり、
即日切腹となった
赤穂藩主浅野長矩が切腹した際、
その血がかかったと伝えられています。

浅野が吉良に斬りかかった理由は、
本人が理由を説明していない為、
刃傷の原因は今日に至るまで不明で、
様々な憶測、俗説、創作があります。

首洗いの井戸

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元禄15年12月14日(旧暦。新暦に直すと、1703年1月30日)、
江戸本所の吉良屋敷に押し入って吉良の首級を上げ、
亡き主君・浅野長矩の墓前に
吉良の首を供えるべく、
墓がある泉岳寺へと向かい、
墓前に供える前、
首を洗ったと言われる井戸。

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義士墓入り口の門

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泉岳寺は浅野家の菩提寺だったため、
浅野長矩は切腹した後、
ここに葬られました。

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浅野長矩の墓

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その側に、正室阿久里の墓
夫の切腹を受けて3月14日夜に剃髪し、
名を瑤泉院と改めました。

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ここが、四十七士の眠る場所

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墓が4つのグループに分かれているのは、
泉岳寺で主君の墓前に吉良の首を供えた後、
細川家、毛利家、水野家、松平家の
4家に分かれて収容され、
元禄16年2月4日に
そこで切腹したグループで分けられています。

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左上の十三回忌碑を除いて数えると、
墓の数は48。
赤穂義士は一般に「四十七士」と呼ばれますが、
赤穂義士墓地には
討入り以前に自害した萱野重実(三平)の供養墓もあるのです。

48基のうち、
この萱野三平と、
遺骸を遺族が引き取ったた間光風(新六)、
そして討入りに参加した浪士の中で唯一人切腹をまぬがれた
寺坂信行(吉右衛門)の3つの墓塔は、
遺骸の埋葬を伴わない供養塔です。

「47」という数字は重要で、
「仮名手本忠臣蔵」の「仮名手本」とは、
赤穂四十七士をいろは四十七文字になぞらえたもの。
48では、この題名はつかなかったのです。

吉良邸から泉岳寺に向かう隊列から
寺坂吉右衛門が姿を消していますが、
その理由は謎です。
浅野本家への報告密命など諸説あります。
単純に離脱した、という説もあります。
寺坂を除いた四十六人は、
吉良邸討ち入りを幕府に報告し、
幕府の指示に従って全員切腹しました。
しかし、寺坂は87歳まで生き延びて病死しています。

義士の戒名はすべて最初の文字が「刃」となっていますが、

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寺坂吉右衛門の供養塔(明治元年建立)は、
戒名が「逐道退身信士」と
逃亡説に基づいたものになっています。

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これが大石蔵之助の墓。屋根付き。

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浅野長矩の墓の脇、
瑤泉院の墓からは斜めにあります。
「決算!忠臣蔵」では、
瑤泉院に「目障りじゃ」とひどいことを言わせています。

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大石主税の墓

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泉岳寺についた一行は主君・浅野長矩の墓前に吉良の首を供え、一同焼香し、
吉良の首と共に浅野長矩の遺品の小刀も供えられました。
鞘から抜かれた小刀は、
軽く三度吉良の首に当てられました。
この儀式をそこにいた浪士全員が行いました。
この次第が書かれた古文書では、
赤穂義士たちが仇を討ったとはしておらず、
自分たちは吉良を墓前にお連れしたと記載され、
浅野長矩自身が吉良を討って悔いを晴らした形にしてあります。
つまり、浅野の辞世、
「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとかせん」
に表われた主君の思い残しを成就させてあげたということのようです。

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義士記念館

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中では松の廊下での事件、
討ち入り、泉岳寺などについて、
映像で15分ほど解説があります。

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残念ながら、撮影禁止。
四十七士の連判状や
吉良の首の受け取り書など、
貴重なものも展示されています。

吉良の首は浅野の墓前に捧げられた後、
箱に詰められて寺に預けられ、
僧二人が吉良家へと送り届け、
家老の左右田孫兵衛と斎藤宮内が受け取ります。
この時の領収書(首一つ)が展示されています。
刃傷時に治療にあたった栗崎道有が
吉良の首と胴体を縫って繋ぎ合わせたあと、
菩提寺の万昌寺に葬られました。

↓はネットから拝借した大石父子の像。

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向かいにある木像館も撮影禁止。

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ネットで拝借した写真。

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↓は毎年12月14日に兵庫県赤穂市で行われる赤穂義士祭のポスター。

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高橋英樹が大石蔵之助を演ずるようです。

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赤穂藩家臣3百数十名のうち、
討ち入りに参加したのは、47名。
不参加を恥じて自害した人などがいました。

その不参加者の言い分を創作したのが、
井上ひさしの「不忠臣蔵」

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いずれにせよ、
徳川の治世を揺るがす大事件。
浅野の行動は、
いかに遺恨があるにせよ、
その結果、藩はとりつぶしとなり、
家臣たちを路頭に迷わせたのですから、
ほめられたものではありません。

また、義士の討ち入りも、
61歳の老人の首一つを取るための「殴り込み」。
これも本来許されるものではありません。

しかし、今の価値観で過去の人々の心情を云々するのは、
愚かなことなので、批判はやめておきましょう。
ただ、この事件が
「忠臣蔵」として、
日本の文化的遺産になったことは確かなので、
物事は何がどうなるか分からないということです。





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