評伝『石原裕次郎 昭和太陽伝』  書籍関係

[書籍紹介] 

クリックすると元のサイズで表示します
                            
石原裕次郎が亡くなったのは、
1987年(昭和62年)7月17日。
享年52歳。

その三十三回忌にあわせ今年7月17日に出版されたのが、
本書、「石原裕次郎 昭和太陽伝」だ。

著者は、構成作家、ラジオ・パーソナリティー、
娯楽映画研究家の佐藤利明

出演映画104作、シングルレコード237タイトル。
映画と歌とテレビ映画に偉大な足跡を残した石原裕次郎の軌跡を、
出演映画の詳しい解説と共に、
当時のエピソードの数々をまじえ、
裕次郎の記録の集大成と言えるものだ。
これ一冊で昭和のエンタメ・文化史としても読める。
480ページ上下二段組の大部である。

目次は次のとおり。
                               
まえがき
序章
第一部 太陽は昇る
 第一章 もはや戦後ではない――昭和31年
 第二章 日活アクション時代の幕開け――昭和32年
第二部 太陽は輝く
 第一章 独走!  映画黄金時代のトップ――昭和33年
 第二章 タフガイ裕次郎の時代――昭和34年
 第三章 日活ダイヤモンド・ラインによるアクション映画の時代――昭和35年
第三部 俳優は男子一生の仕事にあらず
 第一章 ケガで入院! ――昭和36年
 第二章 夢へ向かって――昭和37年
第四部 太陽に向かって立つ
 第一章 石原プロモーション始動!――昭和38年
 第二章 最高のシンガー――昭和39年
 第三章 渡哲也との出会い――昭和40年
 第四章 「二人の世界」のビッグヒット――昭和41年
第五部 太陽は黒部に昇る
 第一章 「黒部の太陽」へ向かって――昭和42年
 第二章 太陽は黒部に輝く――昭和43年
 第三章 アフリカ・サファリラリーへの挑戦――昭和44年
第六部 栄光と挫折
 第一章 斜陽の映画界での闘い――昭和45年
 第二章 ある時代の終焉――昭和46年
第七部 太陽はふたたび……
 第一章 「太陽にほえろ!」放映開始!――昭和47年
 第二章 プロデューサー・裕次郎、スター渡哲也――昭和48年
 第三章 大都会――昭和50〜54年
第八部 陽は沈み、太陽はまた昇る
 第一章 西部警察――昭和54、55年
 第二章 裕次郎、倒れる――昭和56年
 第三章 西部警察、全国縦断ロケ――昭和57〜59年
第九部 甦る太陽
第十部 昭和の太陽

何といっても特長は、
裕次郎の映画全作品が詳細な記述で解説されていること。
著者は1963(昭和38)年生まれだから、
裕次郎の最盛期をリアルに観ているわけではなく、
DVDで全作鑑賞したらしい。

その作品群は、下記のとおり。

昭和31年 「太陽の季節」「狂った果実」「乳母車」「地底の歌」
       「月蝕」「人間魚雷出撃す」
昭和32年 「お転婆三人姉妹踊る太陽」「ジャズ娘誕生」「勝利者」
       「今日のいのち」「幕末太陽傳」「海の野郎ども」「鷲と鷹」
       「俺は待ってるぜ」「嵐を呼ぶ男」
昭和33年 「心と肉体の旅」(カメオ出演)「夜の牙」「錆びたナイフ」
       「陽のあたる坂道」「明日は明日の風が吹く」
       「素晴しき男性」「風速40米」
       「赤い波止場」「嵐の中を突っ走れ」「紅の翼」
昭和34年 「若い川の流れ」「今日に生きる」「男が爆発する」
        「山と谷と雲」「世界を賭ける恋」「男なら夢をみろ」
        「裕次郎の欧州駈けある記」「清水の暴れん坊」
        「天と地を駈ける男」「男が命を賭ける時」
昭和35年 「鉄火場の風」「白銀城の対決」「あじさいの歌」
        「青年の樹」「天下を取る」「喧嘩太郎」
        「やくざ先生」「あした晴れるか」「闘牛に賭ける男」
       裕次郎と北原三枝の結婚
昭和36年 「街から街へつむじ風」
      裕次郎、ケガで入院
        「あいつと私」「堂堂たる人生」「アラブの嵐」
        「男と男の生きる街」「銀座の恋の物語」「青年の椅子」
        「雲に向かって起つ」「憎いあンちくしょう」
        「零戦黒雲一家」「若い人」
       「金門島にかける橋」「花と竜」
昭和38年 石原プロモーション始動!
       「何か面白いことないか」「太陽への脱出」
       「夜霧のブルース」「太平洋ひとりぼっち」
      テレビ『裕次郎アワー 今晩は、裕次郎です』(NTV)放送
昭和39年 「赤いハンカチ」「夕陽の丘」「鉄火場破り」
       「素晴らしきヒコーキ野郎」「殺人者を消せ」
       「『小さき闘い』より敗れざるもの」「黒い海峡」
昭和40年 「城取り」「青春とはなんだ」「泣かせるぜ」
       「赤い谷間の決闘」
昭和41年 「二人の世界」「青春大統領」「夜霧の慕情」
       「夜のバラを消せ」「帰らざる波止場」「栄光への挑戦」
       「逃亡列車」
昭和42年 「夜霧よ今夜も有難う」「嵐来たり去る」「波止場の鷹」
       「君は恋人」「黄金の野郎ども」
昭和43年 「遊侠三国志 鉄火の花道」「黒部の太陽」
       「昭和のいのち」「忘れるものか」
昭和44年 「風林火山」「栄光への5000キロ」
       「人斬り」「嵐の勇者たち」
昭和45年 「富士山頂」「待ち伏せ」「ある兵士の賭け」
       「スパルタ教育 くたばれ親父」
       「戦争と人間 第一部 運命の序曲」
昭和46年 「男の世界」「蘇える大地」
昭和47年 『太陽にほえろ!』放映開始
       「影狩り」「影狩り ほえろ大砲」
昭和48年 「反逆の報酬」「ゴキブリ刑事」「ザ・ゴキブリ」
昭和51年 「凍河」
昭和57年 「わが青春のアルカディア」(声優として)
昭和59年 「零戦燃ゆ」(主題歌)

昭和31年から昭和36年は、
毎年10本近くの映画に出演しているが、
これは、当時の映画配給システムを知らないと驚異だろう。
当時、邦画は系列館に組織されており、
各都市に「○○東宝」「○○松竹」「○○日活」
「○○東映」「○○大映」などの映画館があった。
基本的に2本立てで毎週番組が替わる。
つまり、各映画会社は、
年間100本の映画を映画館に供給しなければならず、
撮影所は常時、10数本の映画を製作していたのである。
その後、映画製作本数が減って、
系列館が維持できなくなり、
今のような、シネマコンプレックスで
複数の映画会社の作品を上映するようになった。
日活はアクションもの、東宝は文芸作品、東映は時代劇
というような各社特色があり、
日活はアクションものが主で、
やがて純愛もの、任侠もの、ロマンポルノへと変貌を遂げる。

そういう事情なので、
特に金を稼げるスターは、
3月に2本くらいの頻度で
撮影が行われていたのである。
映画が「娯楽の王様」と言われた時代で、
休日ともなれば、
映画館に向かう。
当時は詳しい映画情報などないから、
観客はポスターで面白そうな映画を選ぶ。
その時、題名とスターの顔が決め手となる。
スターが出ていれば、
観客は3時間位の間、楽しんで映画館を後にする。
特に裕次郎は興行力が高く、映画館は満員、
それまで給料遅配が続いていた日活の
財務体質を一変させてしまった。

裕次郎の場合はアクションもの、文芸もの、サラリーマンものと
(ミュージカルまで撮っている)
飽きられない工夫はあったが、
基本はスターシステムで、
同じような顔ぶれの同じような展開の映画で、
裕次郎はある時から不満をもらすようになる。
それはアメリカのプレスリーが、
相手役が替わるだけで、内容が同じ、
と不満を抱えていたのに通じる。

本作の中で、
裕次郎デビューのきっかけが詳細に語られている。

当時、兄の石原慎太郎が書いた小説「太陽の季節」
「文学界」新人賞を取ってブームを呼び、
日活が映画化権を獲得。
その後、芥川賞を取り、話題はピークに。
プロデューサーの水の江滝子は、
芥川賞受賞パーティーで裕次郎に初めて会う。
水の江の天性の勘により、
「太陽の季節」の主演に裕次郎を推すが、
「素人に主役はできない」と日活首脳部に反対されてしまう。
結局長門裕之が主演となったが、
長門は共演の南田洋子から
「あなた、ミスキャストね」と言われたという。
クランクインの2日後に
「当世若者言葉の指南役」として呼ばれた裕次郎は、
滝の江によって監督に紹介され、
その場で監督が脚本を書き直して裕次郎の出番を作った。
その数日後の4月2日、
出演者たちのスチール写真を撮っていたカメラマンの井本俊康が
「ダメだ。主役が変わっちゃう」
と言って、目立ち過ぎる裕次郎を避けて構図を変えた。
ベテランカメラマンの伊佐山三郎は、
カメラテストの際、水の江を呼んで、
「このファインダーの向こうに阪妻(阪東妻三郎)がいるよ」
と囁いたという。

裕次郎の役は助演だが、異彩を放っていたようで、
昔、私自身も朝日新聞の縮刷版で、
「太陽の季節」の映画評を読んだ時、
この裕次郎という青年、
明日の映画界を背負う逸材かもしれない、
という意味の記事を読んだことがある。
(ついでながら、昔、学生新聞に映画評を書いていた頃、
「伊豆の踊り子」に触れて、
「山口百恵は、日本の映画界を背負う存在になるかもしれない」
と書いた。
朝日新聞の真似をしたわけだが、幸い、予想は的中した。)

こうして日活首脳部も裕次郎の才能を認め、
次回作「狂った果実」では主演を務める。
「太陽の季節」公開のわずか2カ月後に公開された「狂った果実」はヒット。
こうして裕次郎の時代が幕開けしたのである。
本書は、そのあたりの事情を詳しく述べている。

こうして、
本書はその後の100本以上の作品を詳細に記述している。
ただ、この人にかかると、
全ての作品が傑作、または佳作になってしまう。
中学時代の私が観ても、結構な凡作が混じっていたのだが。

ここで、私の映画遍歴に触れる。
私の映画体験の始まりは東映時代劇。
中でも「紅孔雀」や「七つの誓い」「笛吹童子」などの
伝奇ものが好物だった。
中村錦之助よりも東千代之介を好み、
伊豆・三島の大社脇にある東映映画専門館に
一人で電車に乗って観に行った。
当時、あの狭い三島の町に、
5つも映画館があったのである。

小学生高学年から中学までは、
裕次郎映画に夢中になった。
初めて観たのは、「鷲と鷹」を三島の映画館で。
上京し、「陽のあたる坂道」は満員の渋谷の映画館で観た。
当時は、映画館は入れるだけ入れた。
今のような全席指定席などなく、
消防法などせっちのけで、
通路にまで座らせ、周囲は立ち見の客でぎっしり。
「ドアが閉まらなかった」とは
当時の映画館のことを説明する文章だが、
この時、本当にドアが閉まらないのを目撃している。
結局映画館の廊下で1本終るのを待って、
次の回で観た。

中学時代は裕次郎の映画3本立てがかかると、
友人を誘って観に出かけた。
私の手元には、
1960年(昭和35年)の鑑賞映画の記録が残っているが、
1月3日 渋谷日活「男が命を賭ける時」「口笛が流れる港町」
1月25日 渋谷日活「鉄火場の風」「雑草のような命」
1月30日 テアトル渋谷「男が命を賭ける時」「侍とお姐ちゃん」
などの記録がある。

しかし、その後、洋画に目覚めると、
日活映画には飽き足らないものを感じ、
次第に足が遠ざかるようになる。
「アラブの嵐」は、
満足な海外ロケができなかったンんだろうな、と感じ、
「零戦黒雲一家」では、いい加減な話にへきえきした。

本書を読むと、
当時の日活がパクリ天国だったことが分かる。
パクリと言って悪ければ、換骨奪胎
洋画のいいところをうまく取り入れていた。
「アラブの嵐」は、「知りすぎていた男」や「北北西に進路を取れ」だし、
その他、「望郷」「エデンの東」「シェーン」「栄光の都」
「過去を持つ愛情」「カサブランカ」「第三の男」・・・

今でももう一度観てみたいな、と思うのは、
「闘牛に賭ける男」で、
複数の人物の回想で展開されるドラマ構成で、
同じシーンが別の観点で描かれるなど、
脚本に妙味があった。
もっとも、試写を観た日活社長が「分かりにくい」と激怒。
以後、日活では回想シーンは御法度になった、というおまけが付く。

作品の解説を呼んでいて、
田坂具隆、井上梅次、舛田利雄、松尾昭典、中平康など、
裕次郎映画でおなじみの監督名が出て来て、なつかしかった。
また、冒頭口絵で、
昔の映画のポスターとシングル盤のジャケットが
カラーで掲載されているのは、
貴重な資料だ。

最後に、裕次郎の人柄を表す良いエピソードを。

昭和36年1月24日、
裕次郎はスキー場でスキーヤーと衝突して入院。
現場で、痛みに耐えながら裕次郎は、
衝突した女性スキーヤーがマスコミに追われないよう、
「早く行きなさい。絶対に自分の名前を言うんじゃないよ」
と言ったという。

周囲の誰にも好かれた裕次郎ならではの挿話である。

このブログでの他の裕次郎関連の記事は、↓をクリック。

「世界を賭ける恋」

裕次郎と渡

石原裕次郎のレコードアルバム





AutoPage最新お知らせ