小説『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び』  書籍関係

[書籍紹介]
 
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「妹背山婦女庭訓」「本朝廿四孝」などを生んだ
人形浄瑠璃作者、
近松半二の生涯を描く。

儒学者・穂積以貫(いかん)の次男として生まれた成章(なりあき)は、
読み書きを覚えるのが人より早く、
末楽しみな子供だったが、
浄瑠璃好きの父に手をひかれて、
道頓堀の竹本座に通い、
浄瑠璃の魅力に取り付かれる。
失望した母からは打擲されるが、
そんなものでは半二の行動を縛ることはできなかった。

父からもらった近松門左衛門の硯
それに因んで近松半二(半人前の意)と名乗るが、
まだ一つの作品さえ仕上げていない。
弟弟子の並木正三に歌舞伎(狂言)作者として先を越され、
人形遣いの吉田文三郎から書くことを勧められるが
何度も書き直しをさせられる。

その後、竹本座の座付き作者になるが、
文三郎の離反騒動に巻き込まれたりする。
傷心の文三郎の死が半二の生き方に暗い影を落とす。
歌舞伎の台頭で人形浄瑠璃の人気に陰りが来る中、
自分には浄瑠璃しかないと奮闘する半二の姿が切ない。
当時の芝居小屋が客の入り次第で盛衰する現実が興味深い。

やがて半二は芝居の世界、道頓堀の世界が
一つの「渦」として感じられるようになる。
その渦の中で、様々な才能が生まれ、失われていく。
そして、時々感ずる「真っ黒な深淵」におののく。
時々は自分自身が浄瑠璃になってしまったかの感覚も得る。
世界がこの渦でできており、
次のような感想を述べる。

なんといったらいいか、
この世界はもとからこの世のどこかにあって、
半二はそれをただ書き写しただけなのではないか
という気がしてならなくなる。


半二が後にまで残る大傑作「妹背山婦女庭訓」(いもせやまおんなていきん)を
完成させるあたりは興味津々。

実は私は「妹背山婦女庭訓」という作品、
名前を知ってはいても、
観たことはなかった。
本書で、初めて蘇我入鹿や天智天皇が登場する
王朝時代ものであることを知った。
そして、後半、酒屋の娘三輪を主人公とする
世話物に変貌することも知った。
妹背山とは、吉野川の両岸に立つ妹山と背山のこと、
婦女庭訓とは、親が子に教えるべきことを集めた庭訓、
中でも女子に教えるべきことを集めた躾け方のこと、
などということも、初めて知った。
まことに不勉強、恥ずかしい。
まあ、よほどの歌舞伎通でなければ、
大方がそうだろうが。

終盤、半二の作った物語の登場人物である三輪
語りかけが切ない。

今では文楽と呼ぶが、
当時は人形浄瑠璃または操(あやつり)浄瑠璃と呼ばれていた。
その後、歌舞伎に押されて衰退していくが、
その渦中にいた人物のことで、興味は尽きない。

ライバルであった正三の死後、
ほうけたようになった半二の述懐。

正三の頭の中には、
おそらく、板にのせたい演目が
まだまだたくさん詰まっていたのだろう。
やってみたい思いつきが、まだまだたくさんあったにちがいない。
正三の頭は、死ぬまで大忙しだったのだ。
衰え知らずの、極めて非凡な頭だった。
だが、それも、正三とともに消えてなくなってしまった。
どこへいったんやろなあ、と半二は思う。
正三はどこへいってしもたんやろ。
ぽっかりと空いた穴を、
どしていいのか、
半二にはわからなかった。


そして、半二にも、死の影が押し寄せて来る。
その時の述懐。

ままならぬの人の世だ。
艱難辛苦に翻弄され、泥にまみれていくのが人の世だ。
醜い争いや、失望や、意図せぬ行き違い、
諍い、不幸な流れ。
辛い縁(えにし)に泣き濡れて、
逃れられぬ定めに振り回されていくばかりが人の世だ。
それなのに、なぜうつくしい。
哀しみも嘆きも、苦しみも涙も、なぜうつくしい。
そうよな。
それが浄瑠璃よな。
半二はつるつるとした、
皺もなければ毛穴もない、
なんのひっかかりもない、
舞台のうえの、白い人形の肌を凝視していた。
そうや。
操浄瑠璃はそもそも、うつくしいんや。
汚いもん、洗い流して、うつくしいもん、みしてくれとるんや。
この世は汚いまんまやけどな。
そんでも、汚いもんの向こうに
うつくしいもんがある、
ということを
わしらにみしてくれとるんや。
わしらにはな、こういううつくしいもんが、きっといる。
そら、そやろ。
そやなかったら、やりきれんやろ。
わしら、死んでいくんやで。
わしら、遅かれ早かれ、死んでいくんやで。
この世におられるんはほんのちょっとやで。
醜いだけやったら、やりきれんやないか。


テレビも映画もない時代。
芝居は庶民にとって唯一夢中になれる虚構の世界だった。

文体が関西弁で、
独特なリズムがある。

中で、一人の登場人物が
「浄瑠璃腹がくちくなってしもた」と言った言葉に対する反応。

専助がいうように、
浄瑠璃がくちくなっているような気は、
実は半二も少なからずしていた。
昔のように心躍らされる演目に出会うことが少なくなったし、
なにを見てもそう驚かされることがない。
浄瑠璃に飽いた、芝居に倦んだ、
というのがわからなくもない。
若い時分、気に入ればおんなし演目、
おんなし狂言を毎日で飽くことなくみつづけていた半二なのに、
そんなこともとんとなくなった。
(中略)
ただ習慣のようにみているだけ、
といえなくもなかった。
そうして、多少なりとも、
はっとしたり、楽しめたりすれば儲けもの、
くらいの穏やかな気持ちでいる。


この部分を読んで、はっとした。
というのは、最近、
オペラを観ても、ミュージカルを観ても、
ときめかない
映画もあまり面白いものに出会わない。
小説も心踊らない。
旅行も、昔のように感動することは少なくなった。
感動がインフレ化しているのか。
それとも、本当にオペラやミュージカルや映画や小説の
質が低下しているのか。
それとも、根本的に年齢の問題か。
ちょっと深刻である。

先の直木賞受賞作

選考委員の意見は↓。

高村薫
作家と素材の幸運な出会いが生んだ傑作だと思う。
浄瑠璃という素材が作者の言語感覚を刺激し、
表現を引き出して、
大阪弁の一人語りと
浄瑠璃の台詞と道頓堀の賑わいの声などが
渾然一体となった言語空間に結実しているのは、
まさに創作の奇跡というものでもある。

桐野夏生
浄瑠璃作者・近松半二の、浄瑠璃を中心に回る日々。
軽妙な大阪弁で緩和されてはいるものの、
その創作の様は息苦しいほどである。
最後の「浄瑠璃腹がくちくなる」という台詞は、
虚構にまみれることに倦んだ者の台詞として素晴らしかった。
我々も、小説腹がくちくなる時がくるのだろうか。

宮城谷昌光
手練を想わせる語り口で、独特の世界を描いている。
が、みかたをかえれば、
この小説は独白がつづいているようなもので、
巧い落語家の話をきいているようであった。
近松半二は舞台と客席に対位法をもちこんだといわれており、
それらしきしかけがこの小説にあったか、
と問うているところである。

林真理子
連作という形はこの作品に合っているのか疑問だ。
短篇が完結することによって、小さなうねりがいったんおさまり、
巨大なうねりとなってこないのである。
また関西弁は芸道ものととても相性がいい。
相性がよすぎてやや饒舌となっているのが気になったが、
この体を揺らすような文体は大島さんのお手柄であろう。


浅田次郎
推せなかった理由は、ほとほと感心して読みながらも、
あまりに大衆文学としての普遍性を欠くと考えたからである。
いったいどれほどの読者の理解を得られるかと思えば、
ためらいが先に立った。

伊集院静
文章も読み易く、
関西弁の持つ独特の軽妙さ、頑固さ、卑らしさが
よく伝わってきた。
この作品で何より感心したのは、
前半部のお末が語る言葉である。
「あのな、阿呆ぼん、教えたろか。
いったんおなごがその気になったら、
誰でも色男になってしまうんやで」
これがその辺りの新人には書けない。

北方謙三
私はこの作品に、表現者たちの熱気の渦は強く感じた。
ただそれは芸人たちの熱気のようであり、
近松半二もその中に入っているのだった。
文楽に詳しい読者の心を動かしても、
私のように無知のまま読んだ人間を動かすだけの普遍性は
持ち得ていなかったと思う。

宮部みゆき
私は人形浄瑠璃はもとより歌舞伎にも疎い不勉強者なので、
最初のうちは敷居が高く、
おそるおそるという感じだったのですが、
大島さんの筆による近松半二の明るい人柄に惹きつけられ、
すぐに読むのが楽しくなりました。
たとえば半二の師匠である吉田文三郎の晩節など
悲しくやりきれないところもあるのですが、
それが作品全体を暗くしていません。
一行一行、隅々まで、
大島さんの慈愛の光に照らされているからです。

東野圭吾
物語を紡ぐ者として同意できる部分が多々あり、楽しめた。
瞠目したのは大阪弁の達者さで、
読んでいて全く違和感がなかった。
扱っている題材が一般の人には馴染みのない世界だという理由と、
自分が大阪出身だから読みやすかったのではないかという疑念から、

(引用者注:「渦」「平場の月」「トリニティ」の3つのなかで)三番手とした。




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