自叙伝『フランス座』  書籍関係

[書籍紹介]

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ビートたけしが若い頃、
浅草のストリップ劇場フランス座で修行したことはよく知られているが、
その時代のことを自身の口で語る、青春グラフィティ。

明治大学に入学早々にドロップアウトしたたけしは、
新宿にたむろしていたものの、
やがて新宿がいやになり、
浅草のフランス座にたどり着く。
エレベーター番としてアルバイトに入っただけなのだが、
コメディアン志望と勝手に思われてしまい、
周囲から「師匠」と呼ばれる深見千三郎に可愛がられ、
進行係など裏方をしているうちに、
師匠の演ずるコントを観て、開眼する。

このコントの描写がやたらと面白い。
春日部からやって来た農協の副組合長が
ポン引きに騙され、
自称高校生の客になる。
その家には二人暮らしの爺さんがいて、
副組合長がコトに及ぼうとするたびに、
オシッコだウンコだと言って邪魔をする。
そして、最後に・・・

という下ネタ満載の下品なコント
これが師匠がアドリブまじりでやると、
抱腹絶倒の珍風景となる。

二人の舞台が終わった。
俺は完全に参った。
コメディアンを甘く見てた。
阿部さんのような上手い人でも売れていないと信じられず、
師匠のアドリブなど見れば、
間抜けな知識人なんかより優れている。
これは大変だ。
色々な知識を得なきゃあ売れるわけないし、
今も楽屋で博打ばかりやっている
若手のコメディアンとも
なるたけ付き合わないようにしなきゃあ。
自分のあらゆる未熟さを思い知らされた。


こうして、師匠を相手に、
ある時はポン引き役、ある時は爺さん役、ある時は副組合長役をやり、
お笑いの基礎、心構え、コツをつかんでいく。
たけしは、こう書く。

芸人の基本を教えてもらった一番重要な時期だったのかもしれない。

師匠に寿司屋に連れていかれ、
「おいタケ、何か頼め!」と言われて、
「ゲソお願いします」と言って、師匠に叱られる。

「おい、タケ、いつもお笑いのことを考えとけ。
俺が何喰う? と聞いたら!
お前は何で人の懐考えるんだ、恥ずかしいだろ。
トロと言え!
俺がすぐゲソと言って、
『コノやろう、俺より良い物頼むなっ!』
と笑いを取ろうと思ったんだから」
凄く怒られた。
コレはコメディアンの生き方の基本だ、
いつも笑わせることを考えてろ! と。


たけしはこう書く。

俺にとってはフランス座は芸人の出発点だ。
師匠に会わなきゃ
「タケ」というコメディアン志望の若者なんて
生まれなかったのだ。


同時に描写される浅草の住人たちの姿が笑える。
本当にこんな人いたのか、という人ばかりで、
もしかしたら、タケシの創作、
あるいは盛っているのかもしれないが、笑える。

たとえば、小指を詰めたヤクザが
小指の先を見せると、断面に般若が彫ってある。
その時のたけしの反応が傑作。
「シャチハタネームみたいですね」

体が悪い人の真似をして、その人と飲むはめになり、
右手を揺らし、左足を引きずって歩き、
店に入った途端に便所でしびれた腕を揉み、
出て来ると、左右逆になっており、
店を出た後、ママが見ているので、
ずっと右手を揺らしながら歩く話など、
たまらなくおかしい。

母親の話も出て来る。
家賃を滞納して、大家の家に行くと、
こう言われる。

「あんたの母親はな、あんたがここに越してきた後、
大家さん、うちの子はだらしないんで、
必ず家賃を払えなくなります、
そんなことがあったら、
アパートを追い出さないで私に請求して下さい、御願いします、
と言ってお金をおいていったんだ」


大学に行かなくなったタケシに、

「まだお前の学費払ってんだよ、大学行きな!」

とも。

売れない芸人の悲哀も描く。
自殺した芸人のことについての仲間のセリフ。

「タケちゃん、浅草の芸人だものしょうがないよ。
俺ら、流し台のゴミみたいなもんだもの。
どこに行こうか、どこで死のうが、
売れない芸人は贅沢言ったらいけない。
喰ってるだけで十分と思わないと!」


ビートきよし(兼子二郎)と組んでツービートを名乗り、
少しずつ売れるようになるが、
テレビ番組で生意気なガキの頭を殴ってクビ。
その後も、田舎や年寄り、子供の悪口ばかりで、
ますますテレビから遠ざかる。

やがて漫才ブームが来て、短期間で終る。
本書のしめくくりの言葉は、
こうである。

師匠は、ついにテレビの世界には来なかった。
浅草の師匠のままだった。


その後、たけしは映画監督として成功するが、
たけしが偉いと思うのは、
そうやって評価されて「北野武」になっても、
決して「大家」(たいか)然としなかったことだ。
前と変わらず、かぶりものをしたり、
顔にへんなメイクをしてテレビに出ている。
それこそ、師匠に教えられた
「いつも笑わせることを考えてろ!」
という原点を忘れないでいるからだろう。

お笑いの人で、ちょっと評価されると、
チャップリンを目指したり、
渥美清になろうとする人がいるが、
そういう勘違いをしないところが潔い。

漫才ブームの頃のツービートのネタを見たい方は、↓をクリック。

https://youtu.be/07p5UXacYo4

今だったら、放送できないような内容である。


[以下、Wikipediaから]

浅草フランス座・・・

第二次世界大戦前、三友館という映画館があり、
戦後、この三友館の支配人であった松倉宇七は
ストリップ劇場・ロック座の成功に伴い、
この地に同じくストリップ劇場・フランス座を開設。
1964年、いったん閉鎖し、
これまでフランス座のあった1Fに通常の劇場(「東洋劇場」)を、
建て増しした上階に落語の寄席(浅草演芸ホール)を、
と、2つの劇場を新たに開設した。
しかし、営業不振のめ、
東洋劇場の閉鎖を決断。
東洋劇場が入っていた(かつてのフランス座だった)1Fに
浅草演芸ホールを移転し、空いた上階で、
フランス座を再開場することにした。

舞踊中心の上品なストリップと幕間の爆笑コントを売り物にしていた。
コントを演じていた芸人たちの中から大スターを輩出した。

しかし、猥雑が売り物の関西系ストリップが全盛になるにつれ
「健全すぎる」フランス座の舞台はサービス不足とみなされ、
浅草の斜陽化もあり客足が減る一方であった。
2000年にストリップ興行を打ち切る。
同年改装の上、落語、講談、浪曲以外のいろもの寄席
「浅草フランス座演芸場東洋館」に改称、現在に至る。

主な出身者
八波むと志、南利明、渥美清、関敬六、谷幹一、佐山俊二、
海野かつを、深見千三郎、東八郎、萩本欽一、
坂上二郎(安藤ロールの名で出演)
ビートたけし(北千太の名で出演)、ビートきよし、斎藤清六


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深見千三郎(ふかみせんざぶろう)
(1923年3月31日〜1983年2月2日)は、
北海道浜頓別町出身のコメディアン、
舞台芸人、演出家、脚本家。
本名:久保七十二(くぼなそじ)。
長門勇や東八郎、萩本欽一、ツービートなどの師匠であるが、
深見がテレビなどの放送番組に出演することがほぼなかったため、
浅草界わい以外の地域ではその存在がほとんど知られておらず
「幻の浅草芸人」と言われている。

1945年に『深見千三郎一座』を旗揚げする。
座長として全国各地を回った後、1959年頃に浅草へ再進出、
ストリップ劇場『浅草ロック座』に入った。
その後、同じくストリップ劇場の『フランス座』の経営に参画し、
幕間芸人を仕切ったが、
ツービート独立前後に経営に行き詰まり
『フランス座』の経営権を手放すと共に芸人も引退。

引退後は、東八郎の元弟子が経営する化粧品会社に入り、
サラリーマン生活を過ごしていたが、
深見の最後の妻が亡くなってから、
酒量が急激に増えていたとされる。
1983年2月2日、アパート「第二松倉荘」の自室で
タバコの火の不始末が原因で火災を起こし、
折りしもはしご酒をして泥酔していたために逃げ遅れ焼死した。
59歳没。
深見の遺体は玄関に倒れた状態で見つかり、
両手で抱きかかえられるほどの小さな体になっていたとのことである。
また、深見が最後に酒を酌み交わしあったのはたけしであった。

深見の死に際してマスコミは
「笑いの師匠孤独な焼死」と大々的に報道した。
このように深見の名前が大きく報道されたのは、
深見の生涯で最初で最後であった。

深見はテレビに背を向け、
最後まで浅草の舞台で芸人人生を全うした。
深見の舞台は主にストリップ劇場での、
いわゆる「幕間」のコントであったが、
非常に面白いと評判を呼んだ。
ストリップ劇場であるから客は踊り子の裸目当てに入場しており、
コントになると怒号混じりの野次が飛ぶ事も多かった。
深見はそんな客を「うるせえ、黙って観てろ! 」と一喝して黙らせ、
何事もなかったようにコントを続行し、
野次を飛ばした客自身も笑わせる事もあったという。

深見は特に同じ浅草系の芸人に評価が高く、
「師匠」と呼ばれていた。
深見が劇場の幕間コントに執着し、
テレビ番組に背を向けていた事や、
当時の8ミリフィルムの記録が残っているわけでもなく、
家庭用ビデオデッキがほとんど普及していなかったことから
深見の舞台の映像記録は一部しか現存していない。

深見がテレビに背を向けた理由については諸説ある。
戦争中に受けた左手の負傷痕を気にしたためというものや、
舞台芸人である事に誇りを持っていたからというもの、
カメラ位置やスポンサーの意向など何かと制約の多い
テレビ番組を嫌ったからというものなどがある。

芸人としての生き方やファッションに独自の美意識を持っており、
弟子にも厳しくそれを叩き込み、
たけしも非常に影響を受けたと語っている。

「芸人は良い服を着ろ。
腹は減っていても見えないが、着ている服は見える。
特に足元を見られるというように、靴には気を遣え」
「笑われるんじゃない笑わせろ。
舞台から降りたら格好いいと言われるようにしろ」
「芸人は芸を持て。
楽器でもタップダンスでも良い。
ただやるだけではダメだ、舞台で客に見せられるレベルの芸を持て」

たけしが「漫才で勝負したい」と申し出た時も激怒し、
破門を言い渡している。
その後、たけしが漫才でメキメキ頭角を現していく姿を喜び、
たけしの出演するテレビ番組に見入っていたという。

たけしが1982年度の日本放送演芸大賞を受賞した際、
「小遣いだ」と言って賞金を全て深見に渡した。
深見は馴染みの飲み屋で
「タケの野郎がよ、生意気によ、小遣いだなんて言ってよ」
と何度も嬉しそうに語っていたという。
失火で死去する1か月前の事であった。

たけしはフジテレビの『オレたちひょうきん族』収録中、
楽屋で深見の訃報を聞いた。
しばし絶句した後たけしは、
壁に向かい俯きながら無言でタップを踏み始めた。
深見の葬儀の後、
たけしは札幌での仕事のため羽田空港へ向かった。
待ち合わせていた高田文夫に
「深見のおとっつぁんもバカだよな。
死んだら人が焼いてくれるのに、
自分で焼いちめえやんの」
と師匠譲りの毒交じりの一言を口にしたという。
たけしは後に
「自分は有名になる事では師匠を超えられたが、
芸人としては最後まで超えられなかった」
と、深見の偉大さを語っている。







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