小説『ある男』  書籍関係

[書籍紹介]

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弁護士の城戸は、かつての依頼者である里枝から、
奇妙な相談を受ける。

宮崎に住む里枝は、
2歳の次男を脳腫瘍で失い、
その治療法をめぐって夫との間に
修復不可能な溝が出来、
その離婚調停を担当したのが城戸であった。
長男の親権を獲得して引き取って、
14年ぶりに故郷に戻り、
父が経営していた文具店を引き継ぎ、
そこで出会った谷口大祐と再婚して、
新しく生まれた女の子と4人で幸せな家庭を築いていた。

大祐は、市にある林業の会社に
未経験者として就職し、
短期間に技術を覚え、
社長が敬服するほど生真面目に働いていた。

大祐が里枝の文具店に来たのは、
水彩画の道具を買うためで、
ほどなく親しくなり、
大祐の描く水彩画を見せてもらうなどしているうちに
結婚まで至った。
大祐は里枝に過去を語り、
伊香保の旅館の次男坊であること、
長男との確執で家を離れていること、
その過程で父親の肝臓移植のドナーとなることを
強制されたことなどを語り、
群馬の実家とは縁が切れているから、
万が一の時も連絡はしないでほしいと言われていた。

里枝との結婚生活は3年9カ月で終ってしまった。
作業中に倒れて来た木の下敷きになって、
大祐が亡くなったのだ。
大祐の死後一周忌を迎えるまでは
里枝は大祐のいいつけを守って
群馬の実家には連絡しなかったが、
さすがに遺骨と墓をどうすべきかを相談するため、
実家に連絡した。
すぐに大祐の兄・谷口恭一が宮崎まで飛んで来たが、
そこで意外な事実が判明する。
大祐の写真を見た恭一が
「これは大祐ではない」と断言したのだ。
大祐が語った過去
(伊香保の次男坊、長男との確執、ドナーのことなど)
はその通りだったが、
しかし、大祐本人とは別人だった。

途方にくれた里枝は、
昔の縁で城戸に相談し、
様々な手続きを行った。
DNA鑑定でも、
その男(X)が谷口大祐でないことが確定し、
「谷口大祐」の死亡届けを無効とし、
婚姻無効確認訴訟が行われ、
里枝は旧姓の武本に戻り、
二度目の結婚はなかったことになった。

ただ、問題が残った。
Xが誰だったのかということと、
本物の谷口大祐の生存だった。

城戸がXの探索を請け負ったのは、
里枝との関係もあったが、
「他人として人生を生きること」
に個人的な興味があったからだ。
城戸自身は在日三世で、
韓国語もしゃべれず、
ハングルも読めず、
既に帰化して日本人になっているが、
底深いところで、自分の過去を消し去りたい願望を抱いている。
出張先のバーでのバーテンとの会話で、
谷口大祐になりすまして、過去を語ったこともあり、
Xに対する漠然とした羨望を自覚する。

そしてもう一つ、
子育てを巡って妻とぎくしゃくした関係を持っており、
離婚の可能性も考えているのだ。

城戸は谷口大祐のかつての恋人だったという
後藤美涼(みすず)を訪ね、
その後も何度か会ううちに、心ひかれるものを感じる。

やがて、城戸は戸籍を交換するビジネスの存在を知る。
戸籍交換ブローカーであった小見浦と接見した城戸は
小見浦に「先生、在日でしょう?」と見抜かれ、
不快な思いをする。
しかも、谷口大祐の名を口にした途端、
小見浦は「伊香保温泉の次男坊でしょう?」と言ってのけたのだ。
小見浦が谷口大祐の戸籍交換に関わったことは間違いないが、
なかなか小見浦は真実をあかそうとしない。

そうしている間に、
ある展覧会でXが描いていた水彩画と
よく似た作風の絵を目にしたことから、
Xの正体が明らかになる。
確かにXの生涯は過酷な運命を背負わされたもので、
過去を打ち消し、
他の人物として人生を生き直したいと思わせるものだった。

更に城戸は谷口大祐の生存を突き止め、面会することになる。
そして、X=美里の夫=息子の義父についての真実を
美里に伝える時が来るが・・・

「過去のロンダリング」という言葉があることを初めて知った。
よく報道で、
長年生活していた妻や夫が別人であったという話は聞くが、
本書で扱うのは、戸籍を交換した上で
納得ずくで相手の人生を受け入れるという事態だ。
そのことについて、こう書く。

城戸は、自分の過去を捨て去って、
まったく新しい人生を生きた“X”に、
恐らくは、そこはかとない憧れを抱いていた。
さもなくば、自分の“X”への関心をうまく説明できなかった。
必ずしも、現状に絶望していなくとも、
まったくの別人として生きてみたいというのは、
たった一度の人生を運命づけられている人間の、
ありきたりな願望ではあるまいか?
決断し、実行する無謀さがないからこそ、
それはただ、夢見られるしかなかった。
彼は在日という出自の故に、
身許を隠さねばならない人間の境遇を
様々に想像して同情していたが、
それも“X”が本当は、
里枝のような女性に愛されるべき人物であればこそだった。


また、こうも書く。

城戸は、この“探偵ごっこ”が、
ほどなく終わりを迎えるであろうことに、
言い知れぬ寂しさを感じた。
そろそろ潮時であることは、
彼自身が痛感していたが、
このあとに訪れる空虚を想像すると、
索漠とした心境になった。


人生の交換をした人物にも、
もっと別の良い人生と交換していれば、                     
という後悔があるという。

戸籍を“X”と交換した人物は、こう言う。

「せっかくこの世に生まれてきたのに、
こんな人生で終るのは嫌だって気持ちが、
ひしひしと伝わってきて」


別人になった男は、こう言う。

「経験してない人にはわからないでしょうけど、
戸籍を交換して、一年も経ったら、
本当に別人になるんですよ。
谷口さんって言われても、
正直、アレ、俺のこと?みたいな感じで。
過去を一緒に全部入れ替えてしまうから。
俺も、戸籍交換するまでは、
谷口家の人間のこと、憎んでましたけど、
今はもう、他人事ですね」
「人間関係も絶って、
その土地から離れたら、
自然と忘れていきますよ。
──いや、ただ忘れようとしても、忘れられないですよ。
嫌な過去がある人は。
だから、他人の過去で上書きするんですよ。
消せないなら、わからなくなるまで、上から書くんです」


過去にとらわれた人生、
特に親の犯罪の重みを引き受けた人物について、
こう言う。

「性同一性障害ってあるでしょう?
心と体が一致しないとかっていう?
そういう感じ。
そう。すごく気持ち悪い着ぐるみの中に閉じ込められてて、
一生出られないような感じなの」
「自分の体に父親と同じ血が流れていると思うと、
もう、掻き毟って、体を剥ぎ取りたくなるくらい
気持ちが悪いらしいんですよ」


城戸はこんな風に述懐する。

どこかに、俺ならもっとうまく生きることの出来る、
今にも手放されそうになっている人生があるだろうか?
・・・もし今、この俺の人生を誰かに譲り渡したとするなら、
その男は、俺よりもうまくこの続きを生きていくのだろうか?


最後に城戸が訪れた宮崎の“X”が勤めていた林業の案内で
伐採の現場に行ってみて、
そこで一瞬、“X”の幻影を見て、
会話を交わす場面と峻烈だ。

里枝に報告した後、
城戸が里枝にした会話。

「亡くなられた原誠さんは、
里枝さんと一緒に過ごした3年9カ月の間に、
初めて幸福を知ったのだと思います。
彼はその間、本当に幸せだったでしょう。
短い時間でしたが、
それが、彼の人生のすべてだったと思います」


その後、里枝が息子に真実を伝えた時の
息子との会話、
更に、里枝自身も“X”と過ごした
3年9カ月を幸福と感じる場面で、
涙を禁じ得なかった。

「人間とは何か」「私とは何か」
を重層的な手法で描く、
最近読んだ中では、
出色の読書体験だった。

さすが、芥川賞作家・平野啓一郎

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「マチネの終わりに」






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