ドキュメント『津波の霊たち』  書籍関係

東日本大震災から7年の日に──

[書籍紹介]

クリックすると元のサイズで表示します

筆者のリチャード・ロイド・パリーは、
英国の「ザ・タイムズ」紙のアジア編集長および東京支局長。
1969年生まれで、20年以上東京に暮らしている。
これまでにアフガニスタン、イラク、コソボなど28カ国・地域を取材し、
イラク戦争、北朝鮮危機、タイやミャンマーの政変などを報じてきた。
2004年のスマトラ沖大地震による津波も取材している。

2011年3月11日の東日本大震災発生直後から
被災地に通い続けたロイド・パリー記者から見た
震災被害の実相と日本文化論ともいえる内容。

目次

プロローグ 固体化した気体
第1部 波の下の学校
第2部 捜索の範囲
第3部 大川小学校で何があったのか
第4部 見えない魔物
第5部 波羅僧羯諦(はらそうぎゃてい)―彼岸に往ける者よ

地震被害の全体像ではなく、
石巻市釜谷地区の大川小学校での被害の真相に迫ると共に、
地震後被災地で相次ぐ「幽霊」の目撃談に触れる。

大川小学校は、
74人の児童と10人の教職員が亡くなった。
助かったのは児童4名と教諭1人。

この震災では75人の児童が学校教師の管理下で亡くなっている。
南三陸町の学校の1人と、あとは大川小学校の74人。
つまり、ほかの全ての学校では、
子供たち全員が安全な場所に避難することが出来た。
なぜ大川小学校の児童だけが犠牲になったのか。

犠牲になった子供たちを探す親たちの描写が涙をそそる。
はじめは生存を信じ、
現場の惨状を目にすると、
遺体を見つけることに心を注ぐ。
その姿は、親である者ならば、
涙なしには読めないものだ。

その中で、
家族が交わした言葉「行ってきます」「行ってらっしゃい」
言葉の意味に触れたところがある。

日本では、家を出るときのお決まりのやり取りがある。
出かける人は「行ってきます」と言う
(文字どおりに解釈すると、
「どこかに行って、再び帰ってくる」という意味)。
家に残る人は「行ってらっしゃい」と言う
(どこかに行って、戻ってきてください」という意味)。
「行ってきます」には、
必ず戻ってくることを約束する感情的要素が含まれているのだ。


われわれが日常的に交わしている会話。
その意味を英国人によって初めて教えられた気がする。

大川小学校の児童の親たちは、
その言葉を交わし、
しかし、子供たちが戻ってくることはなかった。

途中から、大川小学校の問題は、
異なる様相を呈する。
「大川小学校で何が起こったか」を知りたい親たちへの
「説明会」で、
校長が保身に走り、生き残った唯一の教諭の説明が
後で嘘だったことが分かったからだ。
繰り返し行われる説明会で、
校長は決して「過失」を認めようとしなかった。

その悲しみを癒すものなどなかった。
遺族は何か謎めいたものを求めていたわけではなかった。
その場にいた職員たちがもっと繊細な心の持ち主であれば──
形式にとらわれず、
パニックに呑み込まれることもなければ──
説明会は180度ちがう方向に向かっていたかもしれない。
保護者たちが望んだのは、
自分たちの悲しみへの理解、
喪失に対する小さな認識だけだった。
“役所の一部門”ではなく、
仲間の人間に接しているという感覚だけだった。


子供を失った一人の父親は言う。

「調べれば調べるほど、いろいろなことが明らかになってきます。
救うことのできた命だったのではないか、
とますます思えてくる。
津波は巨大な災害でした。
けれど、こんなふうに大勢の子どもたちの命が奪われたのは、
一校しかないんです。
全国で一校だけ。
大川小学校だけです。
これが事実です。
この事実を説明できるのは“失敗”の二文字だけです。
子どもたちの命を救うことができなかった、という学校の失敗。
教師たちは失敗した。
なのに謝罪もなければ、きちんとした説明もありません。
津波・・・その被害は甚大で、みんな苦しんでいます。
でもそれにくわえて、
われわれは子どもをこのように失うという
苦悩を経験しなくてはいけない。
それがすべてなんです。
そのことだけなんです。
子どもたちがどう死んだのか、
それだけなんです」


筆者は、こう書く。

個人としては、教育委員会の職員たちは
不屈の忍耐力と自己犠牲の精神をもつ人々だった。
彼らがいなければ、
絶望的な情況がさらに何倍にも悪化したにちがいない。
ところが大川小学校のケースのような失敗に直面したとき、
個人的な親切心と共感は、
共同体としての本能──
外部からの攻撃から組織を護ろうとする本能──
に凌駕された。
反論の余地のない批判にさらされると、
堅苦しい形式という鱗のなかに身を隠し、
お役所言葉という鉤爪を武器にして、
組織はもとの萎縮した姿に戻ってしまった。
その瞬間、教育委員会に勤める
親切で勤勉な地元の男女の顔はどこかに消えてしまった。
彼らの忠誠心は、
公共心や良識よりも高い次元にある大義へと向けられた。
それは、組織の評判がさらに傷つけられることを防ぎ、
なによりも裁判所での法的攻撃から
自分たちを護るという大義だった。
 

結局、大川小学校で死亡した23人の児童の遺族は、
石巻市と宮城県を相手とする
民事訴訟を仙台地方裁判所に提起した。
それは震災から数えて3年目の前日、2014年3月10日。
法的に訴訟を起こすことのできる最終日だった。

中盤から、被災地に起こった心霊現象に言及する。
それをいやすための僧侶の活動も紹介する。
中には被害者が憑依した女性を徐霊する光景まで出てくる。
筆者が冷静な記者でありながら、
この点に踏み込んだのは、
何か英国人の気質があるのだろうか。

そのうちの胸打つ一例を書く。

仙台のタクシーに乗り込んできた
悲しげな表情の男性は、
もう建物が存在しない住所を行き先として告げた。
途中、運転手がバックミラーを見ると、
後部座席は空(から)だった。
それでも彼は運転を続け、
倒壊した家の土台のまえに車を停めた。 
それから丁重にドアを開け、
眼には見えない乗客が
かつての家に向かって降りていくのを待った。


印象的だったのは、
全国から招かれて被災状況を話す講演に出かけた人が、
「参加者の意識が低い」ことに衝撃を受け、傷つく姿。

筆者は強烈な地震にもかかわらず、
倒壊した建物がほとんどなかったことに触れ、
日本の耐震技術の素晴らしさを讃える。
また、避難所での秩序立った動きを称賛する。
一方、裁判を起こした人々に対する無言の威圧など、
日本社会独特の仕組みも言及する。
そして、政治の頑迷さも批判する。

核心にあるのは、日本の市民と
その代表者たる指導者とのあいだに存在する、
かつてないほどの断絶


と言うのは、あたっている。

更には、次のように述べる。

私としては、
日本人の受容の精神には
もうしんざりだった。


日本生活20年の外国人記者でも、
まだ日本人の本質を理解していなのか、
自分たちの価値観を押しつけるのか、
と少々残念だった。

2016年10月26日、
裁判は原告側の勝訴で終った。
裁判所は14億にのぼる損害賠償金の支払いを市と県に命じた。
津波に対する予見について、
学校側の落ち度は認めないものの、
広報車が津波の危険を広報して回った時に、
津波の危険を察知したはず、ということだった。
市と県は控訴、原告側も控訴して、
裁判は高等裁判所に持ち込まれている。

外国人が東日本大震災の深層に迫るドキュメント。
瞠目させられるところもあり、
本書に描かれる被災者たち、
中でも大川小学校で子どもを失った親たちの悲しみは、
胸迫るものがある。

訳者はあとがきで、次のように述べる。

本書には日本人論という側面はもちろんのこと、
死生観や宗教観についての
哲学書、多様性をもつことを説く啓蒙書という
一面もある気がした。


なお、東日本大震災を扱った書籍で、
次の本が素晴らしいので、過去のブログで紹介する。

石井光太著「遺体」


映画『ザ・シークレットマン』  映画関係

[映画紹介]

クリックすると元のサイズで表示します

「ウォーターゲート事件」
ホワイトハウスの介入に抵抗して
「ワシントン・ポスト」等に内部情報を流し、
ついには、大統領を辞任に追い込んだ
FBIのマーク・フェルト(1913 〜2008) 副長官を描く。

クリックすると元のサイズで表示します

ウォーターゲート事件とは、
大統領選挙のさ中の1972年6月17日、
ワシントンD. C. のウォーターゲート・ビル↓にあった

クリックすると元のサイズで表示します

野党の民主党本部に盗聴機を仕掛けるために侵入した人物が
警備員に発見されて逮捕されたことに
端を発する政治スキャンダル
犯人グループが
ニクソン大統領再選委員会の関係者であることが分かり、
当初ニクソン大統領とホワイトハウスは
無関係との立場を取ったが、
ワシントン・ポストなどの取材で、
政権内部がこの盗聴に深く関与しており、
捜査妨害ともみ消しと司法妨害が
なされたことが発覚し、
世論が猛反発。
議会の大統領弾劾の動きに抗しきれなくなったニクソンが
1974年8月9日に、
合衆国史上初めて大統領の任期中の辞任に追い込まれた。
この間の盗聴、侵入、裁判、もみ消し、司法妨害、
証拠隠滅、事件報道、上院特別調査委員会、
録音テープ、特別検察官解任、大統領弾劾発議、
大統領辞任の全ての経過を総称して
「ウォーターゲート事件」という。

クリックすると元のサイズで表示します

FBIは初代長官のジョン・エドガー・フーヴァー
37年間君臨し、
その取得した秘密事項の蓄積で
恐れられていた。
5月2日、フーヴァーが死去すると、
次の長官候補だったのが、
副長官のマーク・フェルト
(当時は副長官代理で、病気がちの副長官に代わり、実質のNo2)だったが、
ホワイトハウスは、
長官代理に腹心のパトリック・グレイを送り込んできた。

クリックすると元のサイズで表示します

ウォーターゲート事件に対して、
グレイは48時間以内に捜査を済ませるよう指示、
フェルトは「FBIは独立機関ですよ」と抵抗する。
フェルトは、背後にホワイトハウスの関係者がいると確信し、
たとえ相手が大統領であろうとも、
捜査の手を緩めることはなかった。

しかしグレイは、ホワイトハウスの意向を汲んで
捜査の早期終結を指示する。
政権の干渉ともみ消しで、
このままでは真実が闇に葬られてしまうと
危機感をつのらせたフェルトは
「タイム」と「ワシントン・ポスト」の記者に捜査内容をリークし
「ディープ・スロート」という匿名暗号で呼ばれる。

ディープ・スロート・・・
当時大ヒットしていたハードコアポルノ。
意味はここに書くのははばかわれる。
この事件を契機に、
「ディープ・スロート」は、
「政府の不正行為に関する情報を提供する高官」
「内部告発者」「密告者」などを意味する言葉として使われている。

この経過を「ワシントン・ポスト」の記者の側から描いたのが
「大統領の陰謀」(1976)だが、

クリックすると元のサイズで表示します

この映画では、
情報提供者本人のマーク・フェルトを主人公に据える。

フェルトは職務に忠実、かつ公正で、
「正義の人」「硬骨の人」「高潔の士」
「FBI 捜査官の鑑」と呼ばれた人物だが、
その人物を硬派の中の硬派の俳優、
リーアム・ニーソンが演ずるのが見物。

クリックすると元のサイズで表示します

その妻をダイアン・レインが演じ、

クリックすると元のサイズで表示します

監督は「パークランド ケネディ暗殺、真実の4日間」(2013) の

クリックすると元のサイズで表示します

ピーター・ランデズマン

この組み合わせで骨太のドラマが展開する。
おバカ映画がある一方で、
こうした映画を作るところが、
アメリカ映画の幅広さと懐の深さだ。

クリックすると元のサイズで表示します

政治がからむと、
妥協と密約と隠蔽と交換条件が普通だが、
フェルトは、最後まで真実の追及とFBIの立場を貫く。
そのためには自らの危険も省みず、
結果、長官の夢も断たれる(1973年退職)が、
満足だっただろう。

長い間、「ディープ・スロート」が誰かは謎だったが、
95歳でなくなる3年前の2005年、
フェルト自身の口によって、
雑誌「ヴァニティ・フェア」の記事で明らかになる。
ただ、当時、認知症が進んでおり、
細かいことは記憶が失せていたが、
最後に歴史の秘密を明らかにするところが、この人らしい。

アメリカの政治の謎を描いて、
興味深い内容だった。

5段階評価の「4」

予告編は↓をクリック。

https://youtu.be/lcD5W7Qojco

ヒューマントラストシネマ有楽町他で上映中。

タグ: 映画

ふるさと納税  耳より情報

娘が「ふるさと納税」にトライして、
昨年末に3地方自治体に寄付。

その「返礼品」が昨日までに
順次送られてきました。

大阪府泉佐野市の返礼品、
黒毛和牛切り落とし1.75s

クリックすると元のサイズで表示します

すき焼きにしていただきました。
ちょっと固い。

クリックすると元のサイズで表示します

同じ泉佐野市で、
ビール24缶

クリックすると元のサイズで表示します

沖縄県那珂川町の返礼品、
明太子1s

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

高知県黒潮町の返礼品、
文旦5s(11個)

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

御存知のとおり、
「ふるさと納税」は、
任意の地方自治体に寄付することにより、
寄付した額のほぼ全額(2千円が差し引かれる)が
税額控除されるもの。
「寄付」と「税額控除」を組み合わせ。
つまり、「寄付」であって、
納税するわけではないので、
「ふるさと寄付金」とも呼ばれる。

「ふるさと」と言っても、
自分の故郷への寄付というわけではなく、
どこの自治体でも自由に選べるので、
「ふるさと」という言葉にも語弊がある。
正しくは、
「地方自治体への寄付」
そういう命名では身も蓋もないが。

「何をもって『ふるさと』とするかは、
法律で決められるものではなく、
住民税で払うのは極めておかしい。
税体系としてナンセンス」
と、石原慎太郎東京都知事(当時)が批判している。

法的根拠は、地方税法第37条の2(寄附金税額控除)で、
個人住民税の寄附金税制が拡充されたもの。
この制度を利用するためには
わざわざ確定申告を行う必要があったが、
2015年4月1日より
「ふるさと納税ワンストップ特例制度」が創設され、
給与所得者等が行う
5団体以内のふるさと納税であって、
申請書を提出すれば、
確定申告をしなくとも寄附金控除(税額控除)を受けられるようになった。
この場合所得税の寄附金控除は受けられず、
その分を加味した控除の全額が
翌年度の住民税の減額という形で受けられる。
(確定申告する場合は、
所得税からも控除され、
その分、住民税からの控除額が減額する)

つまり、本来居住地に納めるべき地方税の一部を
他の地方自治体に納めることになり、
その分、居住地の地方税収入は減ることになる。
収入に応じて、ふるさと納税にまわせる額は決まっているので、
居住地の地方税収入がゼロになることはない。
寄付者の在住する自治体では
ふるさと納税の25%分の税収が減ることとなる。
(75%分は地方交付税で補填される)

2006年(平成18年)3月16日の
日本経済新聞夕刊のコラム・十字路の記事
「地方見直す『ふるさと税制』案」を契機として、
一部の政治家が取り上げたことから議論が活発化した。

地方間格差や過疎などにより、
税収の減少に悩む自治体に対しての
格差是正を推進するための新構想として、
西川一誠(福井県知事)が
2006年10月に「故郷寄付金控除」の導入を提言しており、
ふるさと納税の発案者と言われている。

以前から、実際の住所以外の場所に
何らかの貢献をしたいという人は存在した。
スポーツ選手や芸能人などには
都市部での活動機会が多いにも関わらず、
故郷への思いから生活の拠点や住民票を移さずに
故郷に住民税を納め続ける場合や、
田中康夫が「好きな町だから税を納めたい」として
生活拠点ではないとされる地域に住民票を移そうとした事例がある。

地方では、成人までの教育に税金を注いでも、
就職にあたって他地域に転居してしまうために、
注いだ税金分の「元が取れない」という声もある。
この制度では、
成長して生まれ故郷を離れても、
その地域に貢献することができる。

寄付を受けた自治体は、
返礼品を贈ることが出来る。
もちろん、寄付額の全額相当では、
地方自治体の取得がないので、
寄付額の3割程度と言われている。
これだと、寄付額の7割は地方自治体に残る。

返礼品の内容は、
本来はその地域の特産品にすべきで、
それが地方振興につながるのだが、
実際はそうはならず、
品揃えを豊富にする意味で
パソコンや家電などを贈る自治体が増加し、
高額な返礼品が話題となった。
現在では、各自治体が
豪華で豊富な品揃えを競う方向に進んでいる。

娘の場合、返礼品のビールは、
地域振興とは関係がない。
もっとも地域の酒屋から自治体が購入していれば
それは地域振興にはつながる。

この返礼品制度により、
制度の趣旨よりも
制度利用者の関心が返礼品に集中しており、
趣旨が変わってしまっているという批判もある。
返礼品を廃止した自治体もある。

納税者にしてみれば、
地元に納税しても直接的見返りはないが、
ふるさと納税を利用すれば、
いくばくかのモノがもらえる、
損得勘定が働いた結果である。

ふるさと納税を手助けするサイトも立ち上がっており、
ジジネスとしても発展。

その効果があってか、
2008年の利用者3万3千人、
寄付金額72億円、
控除額19億に対して、
2015年の利用者130万人、
寄付金額1471億円
控除額1千億円
と急増加。

総務省は、
商品券や家電など、
豪華な返礼品に対しては自粛をうながしている。

という、
「ふるさと納税」。
地方にお金が回るのはよいとしても、
その分は国民の税金で補てんしており、
返礼品のエスカレートなどで、
本来の趣旨と外れていく制度の欠陥

といいつつ、
娘が「ふるさと納税」をして、
その恩恵にあずかって
すき焼きや文旦を食べている親。
日本の「いま」を表わす一幕でした。


小説『潔白』  書籍関係

[書籍紹介]

クリックすると元のサイズで表示します

冒頭、死刑執行の場面から始まる。
死刑囚は三村孝雄。
小樽のスナックで経営者の女性とその小学生の娘を殺害した罪で
死刑判決を受けている。
逮捕されてから12年弱、無罪を訴え続けたが、
最高裁への上告が棄却され、
死刑が確定してから2年での執行。
判決から執行まで10年ほどかかるのが普通だから、
異常に速い執行。
しかも、再審請求の準備を勧めており、
心の準備が出来ていなかったために、
三村は抵抗し、刑務官が無理やり押さえつけての執行だった。
立ち会った神父の立川の耳には、
「俺は無実だっ。無実の俺を殺すのかっ!」
と叫んだ三村の最後の言葉が残った。

それから15年。
30年も前の三村事件の再審請求が娘の三村ひかりによって出され、
新聞に報道された。
弁護士は何か「爆弾」を抱えているらしい。
検事の高瀬は上司によって担当を命じられる。
もちろん再審棄却の方向でだ。

高瀬は事前に当時の関係者と面談し、準備をする。
事件を担当した元警視、元警部補、
DNA鑑定を担当した元科警研主任研究員、その部下・・・
その過程で、当時のDNA鑑定の精度の問題が生じ、
しかも、担当した研究員が検察の意をくんで、
データを捏造した疑いが生じて来る。

当時最先端と思われていたMCT118というDNA鑑定技術に
瑕疵があり、
それは「足利事件」で信憑性に疑いが生じていた。

足利事件・・・
1990年に足利市で起こった幼女殺害事件で、
MCT118による鑑定で黒とされた無期懲役囚が、
19年も後になって新たなDNA鑑定で無罪となった。

しかし、三村事件では、
被害者の体内に残されていた証拠の体液は、
鑑定で消費されて、既に存在していない。

弁護士の用意した「爆弾」とは何か。
それが明かされた結果、
その証拠を隠蔽しようとする検察側と弁護側の攻防が始まる・・・

死刑囚が再審で無罪となった例はあるが、
本書は、既に死刑が執行された死刑囚の再審という点がユニーク。
実例はない。
しかも、冤罪で死刑が執行されたとなれば、
日本の法体系が根本からつくがえされ、
検察のメンツもつぶれ、
法務大臣の首が飛ぶような案件だ。

それだけに検察側は全力を挙げて
証人たちに圧力をかけ、
警察に保管されている新証拠がみつからないという工作をする。
ただ、肝心の高瀬には、
かつて汚職事件で代議士秘書を追い詰め、
自殺に追い込んだ過去があった。
しかも、その汚職事件は特捜幹部の作ったデタラメで、
気の弱い無実の人間を自殺に追い込んでしまったことが
心のトラウマになっているのだった。

対する弁護士側は、再審請求をする三村ひかりと森田弁護士、
それに「月刊札幌」の記者の葦沢と
「東日新聞」の記者の江藤、
さらに三村の死刑執行に立ち会った立川神父。

ひかりは事件当夜、父親と一緒にいたから
父親が犯人でないことは一番知っていた。
しかし、肉親の証言は取り上げられなかったのだ。
                 
検察側は再審を認めないため、
様々な妨害活動を行う。
新証拠の存在場所まで分かっているのに、
警察にみつからないと言わせたり、
再審が認められそうになると、
裁判官を人事異動させたりする。

そのことは、次のように書く。

確定した判決こそが真実。
それが司法の世界の掟なのだ。
そこにむやみに難癖をつける行為は正義に反する。


(高瀬が検察に様々な問題のある声について)
そうした声には高瀬も共感する。
しかし、だからといって、
検察の威信が傷つき、
力が失われてよいというわけでは決してない。
何といっても、検察庁はこの国の法治の要だ。
冤罪死刑を認めることは、
検察を貶め、法治の危機を将来する。
自分も検察の一員なのだ。
その権威と権限は、
何をおいても守り抜かなければならない。


ところで、MCT118なる鑑定法だが、

「ごく大雑把に説明すると、
抽出したDNAを特殊な溶液に入れて、
弱い電流を流します。
DNAはその特性からプラス極の方へ泳ぎ始める。
小さなDNAは遠くまで泳ぎ、
大きなDNAは身重だからそれほど泳がない。
この“泳動”の距離を、
マーカーという物差しで測る。
泳いだ距離が同じなら
同じ型のDNAと判定します」


というもの。
DNAの構造によるものではないのだ。

検察は絶対正しいということを守るために
組織をあげて防衛する。
正義よりも組織、という構図の中で悩む登場人物たち。
今までも何度となく起こったことだろう。

事件は、新証拠の存在場所が、ある経過で明らかになり、
新たなDNA鑑定が行われて進展するのだが、
まだ検察の防御は続き、
「灰色の無罪」で決着しそうになる。
しかし、事件は更に、驚くような展開を迎えるのだが・・・

まあ、なかなか面白い小説で、
ページをめくる手は止まらない。
ただ、描写がシナリオのようで、
うまい小説を読んだ、という満足感は乏しい。
しかし、ドラマ化するだけの衝撃はある、といえよう。

最後で真犯人が明かされるのだが、
いくらなんでも、ちょっと作り過ぎの感あり。
この人が犯人だったら、
あまりにもそれまでの経過が卑劣そのもので、
納得せよと言っても無理がある。

いずれにせよ、
再審請求の対象が既に処刑されている、
という設定が興味津々の作品である。


映画『シェイプ・オブ・ウォーター』  映画関係

[映画紹介] 

クリックすると元のサイズで表示します

1962年、米ソ冷戦時代のアメリカ。
政府の極秘研究所の清掃員として働くイライザは、
ある生物が運び込まれるのを見てしまう。

クリックすると元のサイズで表示します

ブラジルから持ち込まれたそれは、
アマゾンの半魚人のような姿をしていたが、
言葉を理解出来、音楽に感じ、
知性も感情も豊かなものを持っていた。
イライザは子供時代に声を失って孤独だったが、
この異形の生物との間に心が通って来るのを感じる。
しかし、その生体解剖の時が近づいていた・・・

クリックすると元のサイズで表示します

イライザの住まいの廊下から部屋まで、
水底のような情景をカメラが移動する冒頭から
ギレルモ・デル・トロ監督のセンスが心を鷲掴みにして離さない。
まさしく映画が監督の感性の産物だとはっきり知らされる。

クリックすると元のサイズで表示します

物語は異種接触物語で、
当時の東西冷戦が反映され、
ソ連のスパイが登場したりで、
ストーリー的に新味はない。
まあ、女性版「E.T.」と言うような内容だが、
なにより、描き方が素晴らしい。
声を失ったイライザと
故郷の川から遠い地に連れてこられた半魚人との交流が、
背景として描かれる
権力や人種、貧困やゲイや障害などを突き抜けた、
異質の者との触れ合いとして深い意味を持って来る。
1962年といえば、
性差別や人種差別や思想対立など、
「異質のもの」に対する寛容さが無い時代。
その時代に、究極の異質さを持つ
生物としての異種との交流を描こうというのだ。
イライザは言う
「彼は、不完全な私じゃなく、
ありのままの私を見てくれる」
と。

クリックすると元のサイズで表示します

画面にはバスルームやゆで卵を作るお湯や
そぼ降る雨など、
常に水があふれ、豊かな想像力を刺激する。
水は全てを受け入れ、
全てを浄化する。
原題は形を定めない「水の形」だが、
「愛の形」も様々な形があることを示している。

イライサのサリー・ホーキンスの演技は
まさにオスカー級で、
先のアカデミー賞の主演女優賞にノミネート。

クリックすると元のサイズで表示します

それだけでなく、
同僚の清掃員のオクタヴィア・スペンサー
イライサの隣人でゲイのリチャード・ジェンキンス

クリックすると元のサイズで表示します

悪役のマイケル・シャノンらが、
全員見事な演技を見せる。

クリックすると元のサイズで表示します

スペンサーやジェンキンスが
それぞれ演技賞にノミネートされたのもよく分かる。
これらの演技を引き出したのも、
監督の力量の一つだ。

そして、アレクサンドル・デスプラの音楽が
物語に厚みと熱を加える。
アカデミー賞では、オリジナル音楽賞を受賞。

クリックすると元のサイズで表示します

「スリー・ビルボード」と作品賞を競って、
勝利したが、
「スリー・ビルボード」がアメリカ的なものを描いていたのに対して、
「シェイプ・オブ・ウォーター」は、
それを越えた普遍性を提示したと言えるだろう。
ファンタジー、SF、ホラー、スリラー、
何よりも怪物モノにさえ分類される作品が
アカデミー賞の作品賞を受賞した意味は大きい。
それらの範疇を越えて様々な思いを想起させる、
カメラという絵筆を使って描ききった、
映画としての素晴らしさをもった作品だった。

観客を選ぶ作品かもしれないが、
映画を観る側もまた、センスを問われているのである。

5段階評価の「5」

予告編は↓をクリック。

https://youtu.be/wrffB5vzk4o

タグ: 映画




AutoPage最新お知らせ