小説『この世の春』  書籍関係

[書籍紹介]

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宮部みゆきのデビュー三十周年記念作。
「週刊新潮」に2015年8月から2017年3月まで連載。
昨年8月の刊行だから、
宮部みゆきの最新刊の本である。
上下巻計800ページ弱の大部。

宝永7年(1710年)、
六代将軍徳川家宣の頃。
下野国の架空の藩・北見藩二万石に政変が起こる。
若き六代藩主・北見若狭守重興(しげおき)が
押込(おしこめ)にあい、強制的に隠居、
飛び地の領主、従兄弟の北見尚正が新藩主になり、
それに伴い、重興の下で権勢を振るっていた
御用人頭・伊東成孝が失脚したのだ。

押込とは、行跡の悪い主君を、
藩の存続のため、重臣の合議によって監禁し、
代替わりすること。
重興の場合は、重篤な心の病だという。

その影響は、
領内の長尾村で父の隠居生活と共に生きていた
各務(かがみ)多紀のもとにも及んで来た。
父の弔いを終えた直後、
従弟の田島半十郎により、
多紀は、藩主の別荘である五香苑へ連れて行かれた。
そこは、前藩主・重興が座敷牢生活をしており、
元江戸家老の石野織部、医師の白田登らが仕えていた。

多紀はそこで、重興の部屋から
男の子の声や女性の声が聞こえるような気がする。

やがて、多紀は、石野織部によって、
山奥の岩牢に連れていかれる。
そこには、切腹したはずの伊東成孝がいた。
成孝によって、驚くべき話が展開する。

領内の出土(いづち)村には、
繰屋(くりや)と呼ばれる一族が住んでいた。
死者の魂を呼び出す「御霊繰(みたまくり)」の技を使う彼らは、
その技を藩に公認された形になっていたが、
十六年前、繰屋の一族は滅ぼされ、村は炎上したという。
そのときの繰屋一族の怨念がとりついたのが
重興の病気の原因だと
成孝は主張する。
実は、多紀の母親の佐恵は繰屋一族の出であり、
多紀が五香苑に連れて来られたのは、
多紀には御霊繰に関する知識があるのではないか
と思われたからだった。

十六年前の繰屋滅亡がなぜか。
一族が御霊繰によって、
何者かに都合の悪い事実を知ってしまったため抹殺されたのか。
そのような大がかりな揉み消し工作が可能なのは、
当時の藩主や家老など、藩の上層部しか存在しない。

しかし、医師の白田登は、成孝の死霊憑依説には賛成しない。
重興の症状は、今で言う「解離性同一性障害」だというのだ。

というわけで、
藩での政変から面妖な死霊付きの話になったかと思ったら、
いつの間にか、「多重人格」の話になっているのである。

現代を描く小説なら、
その症例を扱った話は、
いくらでも例はあげられるが、
時代小説では初めてではないか。

なにしろ、多重人格は
新約聖書の福音書の中にも登場するくらいだから、
歴史は古い。
つまり、平安時代、江戸時代区別なく、
そういう症状はあったはずで、
おそらく「狐憑き」などと診断され、
祈祷によって治療してきたものを
この小説は、現代医学の知識を代表する白田登によって
解明し、治療する話となるのである。

となれば、重興が多重人格を発生させるような、
子ども時代の精神的な苦悩があったのか、
という原因の解明に話は向かう。

これに並行して、
10数年前にたびたび城下で起こった
男児の失踪事件がからむ。
それと繰屋一族の抹殺が関係し、
更に、重興の発症の原因の解明へと話は進んでいく。

というと殺伐とした話のように聞こえるかもしれないが、
そこは宮部みゆき、
ユーモアを交え、ストーリーテラーの才能を発揮して、
読者の興味を惹きつけ続けるのである。

そして、登場人物の魅力的な描写。
多紀の凛としたたたずまい。
田島半十郎の密かに想う多紀を守ろうとする無骨な姿。
石野織部の忠義一筋の人物像。
白田登の、医師としての冷静で理性的、現実的な治療の技。
五香苑の女中であるおごうお鈴
奉公人の寒吉己之助(みのすけ)ら。
女馬喰のしげやお鈴に懐く金一
重興の愛馬・飛足さえ、
宮部みゆきの手にかかれば、魅力一杯の馬となる。
そして、後半の江戸の場面で登場する、
明野領の元宿老・岩井一之進改め角屋清兵衛、 
重興の母・美福院
重興の元妻・由衣
江戸での描写での真相の解明の残酷さを
これらの人物が和らげる。

そして何より、魅力的に描かれた北見重興。
なにしろ、全体が重興をどう回復させるか、
と苦心する話だから、
重興自身が魅力的でなければ、
読者の気持ちを捕らえることはできない。
その点、見事に成功している。
そして、ここでは何者かを言えない、
謎の人物、琴音(ことね)。

中でも、多紀と由衣の対面する場面は美しい。
そして、重興と琴音の別れのシーンは涙をそそる。

多重人格という設定を作りながら、
いつもながらの人と人のつながり、
善意と愛情を描くのである。

それにしても、
こんなストーリーを組み上げ、
謎を呈示し、
それを見事に話の中で解明していく
ストーリーテラー・宮部みゆきは、
やはりすごい、のひと言に尽きる。
デビューから30年。
その山脈は高く、裾野は広い。

石野綾部が
事件に巻き込まれず、
城下の手習所の老師匠を続けていられたら、という述懐。

一人住まいがすっかり板に付き、
侘びしくも心安らぐ明け暮れのなかで
次第に背中が曲がり、
足腰が弱り、
白髪が抜けて髷が痩せ、
身体も弱ってゆく。
しかし心は丸く角がとれ、
静謐な境地に至ることができたのではないか。
いつか彼岸に旅立つときが来ても、
習子(ならいご)たちの気配が染みついた場所にいたならば、
少しも寂しくはなかっただろう。
全ては夢だ。
後悔はない。

こんな素晴らしい老境の描写
執筆時56歳の宮部みゆきは、
どこで体得したのだろうか。






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