宝の箱・その1・映画プログラム  身辺雑記

久しぶりに押し入れの整理。
下段左奥の段ボールを開け、
映画のプログラム、演劇のプログラム、
劇団関係の古い資料を捨てました。

プログラム類は前にも捨てましたが、
今度の段ボールには、
それ以前の古いものがあり、
かなり貴重なものも混じっています。
まさに、「宝の箱」

それでも大部分を捨てましたが、
その中から思い出に残るものを
このブログに留めます。

「十戒」(セシル・B・デミル監督 1956)

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私の保有する、
おそらく最古のプログラム
いや、おそらくではなく、実際、最も古い。

「十戒」のロードショー公開が1958年(昭和33年)3月5日。
私は2番館で観たから、その年の秋頃か。
となると、小学校5年
渋谷の井の頭通りにある映画館(今はない)で。
2番館でもこんなプログラムがありました。
表紙も入れてわずか12ページですが、
解説、物語、激讃の声、
セシル・B・デミルの想い出、俳優紹介と
充実した内容。

デミル監督は構想に際して自らローマへ赴き、
ミケランジェロのモーセ像を下調べ、
これにより配役のイメージを練り上げ、
容貌が好適のへストンに白羽の矢を立てたといいます。

姉たちが先に見て、
「やっちゃんが大喜びしそうな映画」というので、
日曜日に一番で並びました。
聖書もユダヤ教の歴史も知りませんでしたが、
後半の数々の奇跡のシーンで興奮。
紅海が割れるシーンは驚き。
十戒が岩に刻まれるシーンは厳粛な思いに。
エルマー・バーンスティンの音楽が素晴らしい。

その後、リバイバルのたびに観ましたが、
大人になるにつれて、
前半の人間ドラマが
本当によく出来ていると感心するようになりました。

それにしても、このプログラム、60年間
よくとっておいたものです。

「お嬢さん、お手やわらかに」(ミシェル・ボワロン監督 1958)

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その頃、家では、
姉たちが「映画の友」「スクリーン」などを読んでおり、
その影響でヨーロッパ映画にも目を向けるようになりました。

この映画は、色男のアラン・ドロン
3人の美女が奪い合う、という他愛ない内容ですが、
その3人の女優が
パスカル・プティ
ミレーヌ・ドモンジョ
ジャクリーヌ・ササールという
当時旬の大豪華メンバー。

ミレーヌ・ドモンジョには、
「女は一回勝負する」(1957)というのがあり、

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↓の背中のヌードに胸ときめかせたものでした。
思えば、マセたガキでした。

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アラン・ドロンが「太陽がいっぱい」
世界的にブレイクするのは、
1960年のこと。
ニーノ・ロータの主題曲も大ヒット。

「日本誕生」(稲垣浩監督 1959)

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東宝映画1000本製作記念作品。
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を主人公に、
父親の景行天皇との確執を描きます。
その中に語り部による古事記の物語が挿入される、という趣向。
日本列島の誕生や
天照大神(アマテラスオオミカミ)の天岩戸(アメノイワト)の故事
などが描かれます。
日本武尊と須佐之男命(スサノオノミコト)を三船敏郎が演じ、
弟橘姫(オトタチバナヒメ)を司葉子が演じます。
八岐大蛇(ヤマタノオロチ)登場で特技監督(円谷英二)が活躍。

渋谷東宝(現在のTOHOシネマズ渋谷)で鑑賞。

「日本誕生」の紹介ブログは、↓をクリック。

日本誕生

「アラモ」(ジョン・ウェイン監督 1960)

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初めて観た70ミリ映画
アメリカとメキシコの戦争で、
アラモ砦をめぐる攻防を描いた作品。
ジョン・フォード監督の指導のもと、
ジョン・ウェインの初監督作品。

観たのは、1960年12月24日、
渋谷のパンテオン(今はない)で。
終業式の後、友達と一緒に出掛けました。
当時の正月映画は、
たいてい12月の最終週に公開されました。

ディミトリ・ティオムキンの音楽で、
「遙かなるアラモ」という名曲を残しました。

「罠にかかったパパとママ」(デヴィッド・スウィフト監督 1961)

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エーリッヒ・ケストナーの「ふたごのロッテ」を
ディズニーで映画化。
「追いつめられて」(1959)で天才子役として評判になった
ヘイリー・ミルズ(イギリスの名優ジョン・ミルズの娘)が
ディズニーに招かれて「ポリアンナ」(1960)の次に出演した作品。

私は中学時代、ヘイリー・ミルズに夢中で、
彼女が「汚れなき瞳」(1960)のキャンペーンで来日した際には、
羽田まで迎えに行きました。
そのミーハーの体質は、
娘のDNAに引き継がれています。

「尼僧ヨアンナ」(イエジー・カワレロウィッチ監督 1961)

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日本アート・シアター・ギルド(ATG)は、
他の映画会社とは一線を画す
非商業主義的な芸術作品を製作・配給し、
日本の映画史に多大な影響を与えた会社。

その第1回配給作品がこれで、
1962年4月20日公開。
私はその前日の19日に
試写会で後楽園アートシアターで鑑賞。
修道女についた悪魔つきを巡って、
神と悪魔の闘いを描く作品。

ATGは、公開作品ごとに
映画雑誌「アートシアター」を発行。
映画の完全シナリオと映画評論などから構成され、
上映館(後楽園他、新宿文化、日劇アートシアターなど)でのみ販売されました。

当時私は中学3年
その歳でアートシアターに通うとは、
相当生意気な映画少年でした。

「市民ケーン」(オーソン・ウェルズ監督 1941)

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ATGのおかげで、公開されたのが、この映画。
1941年製作の作品ですが、
25年たった1966年に日本初公開。
ただし、テレビでは放送されたことがあり、
私はこの放送を観ています。
のみならず、録音して、
文字起こしをし、シナリオ採録を試みました。

物語の時間的配列を解体し、
ケーンの関係者の証言を基に
様々な視点からの回想で
主人公の生涯を浮かび上がらせるという構成が斬新であるのみならず、
撮影技法も斬新で、
ワンシーン・ワンショットの長回し、
画面の前景から後景まで全てにピントを合わせるパンフォーカス、
極端なクローズアップ、広角レンズの使用
ローアングルの多用などが特徴でした。

オーソン・ウェルズの監督デビュー作。
主人公のケーンが実在の新聞王
ウィリアム・ハーストをモデルにしていたことから、
ハーストによって上映妨害運動が展開され、
アカデミー賞では
作品賞など9部門にノミネートされながら、
脚本賞のみの受賞にとどまりました。

しかし、後年の評価は高く、
映画誌や批評家らによる過去の作品を対象とする
映画ランキングでも常に1位または上位にランキングされています。

私もたびたびDVDで鑑賞。
「宇宙旅行に持って行く10本のビデオ」には当然入り、
もしかして、たった1本持っていくとしたら、
この映画になるかもしれません。

「これがシネラマだ」(アーネスト・B・シュードサック監督 1952)

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1952年に誕生したシネラマは、
3台のカメラで撮った映像を
3台の映写機から
歪曲したスクリーンに投映し、

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すさまじい臨場感を体験させるシステム。

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日本では1955年から1964年まで
あの帝国劇場で上映されました。

私が観たのは、1962年1月14日。
最初は小さな画面で始まって
ホストが映画の歴史を説明。

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その後「みなさん、これがシネラマです」
という言葉と同時に、
画面が一挙に大きく広がり、
ジェットコースターの最前部に置かれたカメラによって、
スリルの疑似体験をする、という演出。

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しかも、立体音響。

その後、シネラマ劇場はテアトル東京に移り、
やがて3台の映写機ではなく、
70ミリフィルムで1台の映写機で上映するシステムに代わり、
やがて無くなっていきました。

アメリカに3台の映写機で上映する
真性のシネラマ劇場があるという話はきいたことがありますが、
今ではほぼ経験できないシネラマ体験。
実際に経験できたことは幸せです。

雑誌「日活映画」

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昭和30年代、
日活の映画館で販売されていた雑誌。
これは昭和39年(1964年)9月20日発行。

太る前の裕次郎は本当にカッコ良かったと分かります。

当時私は裕次郎のファンで、
ほとんどの作品を観ていました。
今となってはなつかしい。

「掠奪された7人の花嫁」(スタンリー・ドーネン監督 1954)

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私が初めて観たミュージカル映画が、これ。
ただし、このプログラムは1964年のリバイバル上映の時のもので、
最初に観たのは、
まだ故郷の伊豆にいた頃、
三島広小路駅の前にあった洋画館で観ました。
ということは、小学校3年か4年
2本立てで、併映は「第三の男」。
まだ子どもでしたから、
「第三の男」の良さは理解できず、
「掠奪された7人の花嫁」は
小学生が観ても面白い作品でした。

私のミュージカルの歴史の原点とも言える映画です。

「東京オリンピック」(市川崑監督 1965)

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1964年の東京オリンピックの公式記録映画。
全国の学校に動員がかかり、
私は高校の近くの目黒の映画館に学校から移動し、
鑑賞しました。
映画館の他にも日本各地の学校や公民館で上映会が開かれたことから、
その観客動員数は一般観客750万人、
学校動員1600万人の合計2350万人で、
事実上日本映画史上最多であるといわれています。

最初に話を受けたのは黒澤明でしたが、
予算の関係から断り、
次に今井正、今村昌平、渋谷実、新藤兼人ら複数の監督に話が流れ、
最終的に市川崑が引き受けました。

市川崑は、アスリートの心情の表現を重視した演出や、
超望遠レンズをはじめとする
複数のカメラを使った多角的な描写などを駆使し、
従来の「記録映画」とは質の異なる
極めて芸術性の高い作品に仕上げました。

しかし、関係者のみの試写会で観た
オリンピック担当大臣の河野一郎は、
「俺にはちっともわからん」
「記録性をまったく無視したひどい映画」とコメントし、
「芸術か記録か」という論争を巻き起こしました。

英語版では大会組織委員会が再編集を施し、
上映時間が日本語版より40分短い作品に仕上げています。

私自身は、この映画が大好きで、
何回観たか分かりません。
特に、冒頭のオリンピック会場の建設現場で
ビルが鉄球で壊されるシーンから始まり、
アテネでの聖火点灯式典から
世界を巡る聖火リレーの流れるような描写や
マラソンでアベベを横からとらえた
かなり長いスローモーションの映像など、
息を飲む美しさでした。
加えて、黛敏郎の音楽が素晴らしい効果を上げており、
何度も何度もテープで聴きました。

「赤ひげ」(黒澤明監督 1965)

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1965年(昭和40年)4月3日に公開された、
黒澤明の集大成的作品
本人もそう言っています。

1961年の「用心棒」、
1962年の「椿三十郎」
1963年の「天国と地獄」
そして1965年の「赤ひげ」と、
脂の乗り切った時期の作品。
黒澤明42歳から46歳の時。

次の作品が1970年の「どですかでん」で、
その間に「トラ!トラ!トラ!」を巡るトラブルがあり、
自殺騒動があり、
三船敏郎が役者として抜けたこともあり、
「どですかでん」以降は精彩を欠いた作品群が続きます。
まさしく、本当の「集大成」になってしまいました。

その意味で、
「赤ひげ」は、巨匠の最後の到達点と言えるでしょう。

私は姉と一緒に日比谷スカラ座で鑑賞。

テーマ曲がブラームスの交響曲第1番の4楽章と似ています。

「赤ひげ」のタイトル↓。

https://youtu.be/hXhrUm-eGQY

ブラームスの該当部分↓。

https://youtu.be/7M7Q7BXh_is?t=1899

「羅生門」(黒澤明監督 1950)

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これはリバイバルで鑑賞。
黒澤明の名前を世界に轟かせた
ヴェネツァ映画祭グランプリを受賞した映画。
戦後間もないことで、
ノーベル賞を受賞した湯川秀樹、
水泳で世界記録を打ち立てた「フジヤマのトビウオ」古橋廣之進と共に、
日本人に希望を与えました。

しかし、グランプリを取るまでは不評で、
大映本社で試写を見ていた永田雅一社長は
「こんな映画、訳分からん」
と憤慨し、途中で席を立ってしまい、
総務部長を北海道に左遷し、
企画者の本木荘二郎をクビにしてしまいました。

ヴェネツィア国際映画祭への出品も消極的で、
イタリフィルム社長のジュリアーナ・ストラミジョーリが
映画祭の依頼で日本の出品作を探すこととなり、
何本か候補作を見ているうち、
「羅生門」を観て感激し出品作に決めましたが、
大映側がこれを辞退。
そこでストラミジョリは自費で英語字幕をつけて映画祭に送りました。

映画祭で上映されるや否や大絶賛され、金獅子賞を獲得。
日本人の製作関係者は誰一人も映画祭に参加していなかったため、
急きょ町を歩いていたベトナム人の男性が代わりに
トロフィーを受け取ることになります。
この姿は写真報道され、
この無関係のベトナム人が黒澤本人であるとの
誤解を招いたこともありました。

永田は受賞の報告を聞いて
「グランプリって何や?」と聞き返し、
その価値を知るや、
手のひらを返したように大絶賛し始め、
自分の手柄のように語ったといいます。

その後の大映は
娯楽映画路線から芸術的大作映画路線へと転じ、
吉村公三郎の『源氏物語』、溝口健二の『雨月物語』『山椒大夫』、
衣笠貞之助の『地獄門』といった作品が
次々と海外映画祭で受賞しています。

黒澤明は、作品が映画祭に送られたこと自体も知らず、
受賞のことは妻の報告で初めて知ったといいます。
後に開かれた受賞祝賀会で黒澤は次の発言をしています。

「日本映画を一番軽蔑してたのは日本人だった。
その日本映画を外国に出してくれたのは外国人だった。
これは反省する必要はないか。
浮世絵だって外国へ出るまではほとんど市井の絵にすぎなかったよね。
我々は、自分にしろ自分のものにしろ、
すべて卑下して考えすぎるところがあるんじゃないかな? 」
「どうして、日本人は
自分たちのことや作ったものに自信を持つことをやめてしまったんだろう。
なぜ、自分たちの映画を擁護しようとしないのかな?
何を心配してるのかなって、思うんだよ」

音楽は早坂文雄
劇中に流れる音楽がボレロに似ていると、
欧州では絶賛されました。

「サウンド・オブ・ミュージック」(ロバート・ワイズ監督 1965)

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これは、私の青春の一本
これと「メリー・ポピンズ」でジュリー・アンドリュースの虜になりました。
実際、ジュリーは、映画的にはこの2本が全て。

丸の内ピカデリーで鑑賞。
当時は入れ替え制でも全席指定席でもありませんので、
立ち見で鑑賞しました。

「サウンド・オブ・ミュージック」についてのブログは、↓をクリック。

http://star.ap.teacup.com/applet/shokuniku/20161221/archive

「メリー・ポピンズ」(ロバート・スティヴンスン 1964)

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私が愛する最大のディズニー映画。
娘が物心付くようになった時のリバイバルでは、
当然、観せました。

高校時代、私の愛読書は
「星の王子さま」と「クマのプーさん」と「メリー・ポピンズ」で、
忘れもしない1965年12月31日、
大晦日の最終回の「メリー・ポピンズ」に出掛け、
「メリー・ポピンズ、
明日から僕は本格的な受験体制に入る。
しばらく君に会えないから、
最後に会いに来た」
とお別れを告げました。
そして、受験当日は、
小型版の「クマのプーさん」を
お守りとして、
シャツの下に忍ばせた。

何だか懐かしくて、恥ずかしい、
思春期の想い出です。

「メリー・ポピンス」映画化にあたっての経緯を描く
「ウォルト・ディズニーの約束」のブログは、↓をクリック。

ウォルト・ディズニーの約束

「ザッツ・エンタテインメント」(ジャック・ヘイリーJr監督 1974)

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MGMのミュージカル映画のいいとこ取り集。

実は、これ、私とカミさんが初めてのデートで観た映画です。


という「宝の箱」からの掘り出し物。
しかし、
「ウエストサイド物語」と「ベン・ハー」がないのはなぜなのだろう。

明日は演劇のプログラムを紹介。






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