カリブの海賊に本物が登場  耳より情報

「カリブの海賊」といえば、
ディズニーランドの数あるアトラクションでも
傑作中の傑作。
ウォルト・ディズニー自身が設計に携わった最後のアトラクションで、
ウォルトの死から3ヶ月後にディズニーランドで初めて公開された。
1967年3月18日のことである。

ボート型のライドに乗り、
オーディオアニマトロニクス技術
(コンピューターで音声と人形の動きをシンクロさせる)
を駆使して造られた、
カリブ海の海賊の抗争と失われた財宝を巡る冒険を体験するもの。

私が初めて観たのは、
忘れもしない1983年(昭和58年)4月12日、
東京ディズニーランド開園前の
浦安市民招待デーでのこと。
あまりの見事さに時を忘れ、
数日間、あの「ヨーホー、ヨーホー」という主題歌のメロディーと
観た光景が頭の中を巡ってしまった。

世界に6つあるディズニーランドのうち、
香港を除く5つに設置されている。
それぞれ少しずつ趣が変わっており、
長さもアナハイムのディズニーランドが16分30秒、
オーランドのマジックキングダムが8分30秒、
東京ディズニーランドが15分、
パリのユーロディズニーが10分、
上海ディズニーランドが8分
となっている。

上海ディズニーランドは大きく趣向が変わっている。

そのブログは、↓をクリック。

http://star.ap.teacup.com/applet/shokuniku/20161110/archive

その後、映画化されて大ヒット。
続編も製作され、
その新作が5月26日に全米で公開される。

その1カ月前の4月26日
アナハイムの本家ディズニーランドで、
粋なイベントが行われた。

「カリブの海賊」のボートに乗った観客がある場所にさしかかると、
船長ジャック・スパロウが立っており、
人形かと思っていると、
突然動き出す。
演じているのは、本物のジョニー・デップ

気づいた客たちは大歓声。
その公式映像は、↓をクリック。

https://youtu.be/FwauqxGbgQ0

「カリブの海賊」50周年の記念と、
映画の宣伝を兼ねて行われたイベント。
乗り合わせた客はラッキーな人たち。

客の撮った映像は、↓をクリック。

https://www.facebook.com/Will.Caster.Dr/videos/706782612839524/

客が「Are you real?」と何度も叫ぶのが面白い。

最新作「パイレーツ・オブ・カリビアン/最後の海賊」
日本公開は7月1日

予告編は↓をクリック。

https://youtu.be/OmkvSo6z5jI


小説『十二人の死にたい子どもたち』  書籍関係

[書籍紹介]

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廃業した病院に集まって来たのは、
14歳から17歳までの12人の少年少女たち。
あらかじめ教えられた暗証番号で入り口を抜け、
受け付けカウンターの金庫も、
同様に教えられた番号を入力して開け、
1番から12番までの数字板を手に、
地下の多目的ルームに向かう。
そこには、12個のベッドが用意されていた。

ほどなくして、
集まった子どもたちは、
睡眠薬と練炭を使った集団自殺をするために
サイトで呼び寄せられたのだと分かる。
全員の遺書は主宰者のネットトサーバに保存されており、
予定時間の正午に多数決を取って、
計画通りに安楽死が実行できる予定だった。
しかし、12人のはずなのに、
一人多く、その少年は既にベッドの中でこときれていた。

こうして、死んだ少年がどうしてここにいるのか、
殺されたのではないか、
というを解くために議論が始まる。

目次を見たら、「12対0」、「11対1」「10対2」などとあり、
「3対9」を経て、最後は「0対12」で終わっているから、
最初は自殺賛成者の方が多かったのが、
議論の末に、最後は自殺反対が勝ち、
散会していくのだろうと予測はつく。

となれば、
「12人の怒れる男」
を下敷きにしているのだろうと、推測できる。

十二人の怒れる男・・・
1954年製作のアメリカのテレビドラマ。
1957年にシドニー・ルメットの初監督、
ヘンリー・フォンダ主演で映画化され、
ベルリン国際映画祭金熊賞を受賞するなど、
高い評価を得た。

父親殺しの罪に問われた少年の裁判で、
12人の陪審員が評決に達するまで
一室で議論する様子を描く。
証拠や証言から、
陪審員の大半は少年の有罪を確信しており、
全会一致で有罪になると思われたところ、
ただ一人、陪審員8番だけが少年の無罪を主張する。
彼は、他の陪審員たちに、固定観念に囚われずに
証拠の疑わしい点を一つ一つ再検証することを要求する。
陪審員8番の熱意と理路整然とした推理によって、
陪審員たちの心に変化が起こり、
最後は少年に無罪の判決が下される。 

その後も再三、テレビドラマや映画化され、
舞台化もされている。
本作品にインスピレーションを得て、
筒井康隆作「12人の浮かれる男」や、
三谷幸喜作「12人の優しい日本人」などが作られている。

さて、本作だが、
自殺願望の12人の子どもたちが集まる、
という設定自体にリアリティが感じられなかった。
まして、子どもたちの自殺の動機も信憑性が乏しく、
その上、ミステリー仕立てで、
おびただしい会話が交わされるが、
その会話が空疎で読み進むのが辛かった。
年端もいかない子どもたちの
世間知らずの議論など延々と書かれても、
読者は戸惑うだけである。

むしろ、同じ設定でも、
もっと年齢を上げて、
人生の経験をなめ尽くした人の
自殺願望とすれば、
それぞれの人生が浮き彫りになって説得力が増しただろう。
終わりの方に「不妊報酬制度」などという
究極の人類滅亡思想が出て来るが、
仮に年長者が言うのなら説得力があるが、
ハイティーンの娘が言うのでは「たわごと」にしか聞こえない。

一つの場所に限定して、
少ない登場人物で描くという
設定と意欲は買うが、
全ての失敗は、
登場人物を子どもに設定したことにあるように思えてならない。

冲方丁(うぶかた・とう」の小説は、
「天地明察」「光圀伝」など、
良いものがあるが、
これは失敗作で、
直木賞候補だから読んだが、
そうでなければ、最初の20ページで投げ出していただろう。

そもそも直木賞候補に選ばれたこと自体が疑問。

選考委員の評価も厳しい。

浅田次郎
そもそも小説のデザインに無理があったように思えた。
作品以上の実力を持つ作者には、
おそらく別の意図があったはずなのだが、
だとすると本作が候補に上ったこと自体が
果報とは言えなかったのではあるまいか。

宮城谷昌光
問題作である。
特別な空間を設定しておいて、
社会的夾雑物を排除してしまおうとする手法は、
わからぬでもないが、
整理がよすぎると小説が冷えるという弊害が生ずる。
ほとんどの読者には、
そこが非現実の空間であることが、
わかりすぎるほどわかってしまうのではないか。
そういう認識をもって作者は、
シェイクスピアのように、
詩的にあるいは哲学的に
遊んでしまったほうがよかったのではないか。

宮部みゆき
謎解きミステリの部分をなくし、
ティーンエイジャーたちの
「命をめぐる討論小説」に徹した方が、
冲方丁さんが彼らの言葉を通して語りたかった想いが
くっきりしたのではないでしょうか。
加えて、
彼らに固有の名前は必要なかったのではないかとも思います。
ちょっと深読みし、読み違いもしているかもしれませんが、
私には触発されるところの多い作品でした。

北方謙三
頭で考え、会話で進行させた作品だろう。
十二人がほんとうに死にたがっているのかどうかも、
途中で曖昧になる。
ミステリー仕立ての鍵になる、
すでに死んでいる十三人目が、実は生きていたりして、
私は戸惑った。

高村薫
新本格の謎解きゲームなので、
子どもたちの死にたい理由や行動原理には
リアリティがなくてもよいが、
死者が実は生きていたことなど、
肝心の仕掛けに無理があり、緩すぎる。

林真理子
最初から結末がわかるというのがつらいところであろう。
後半の推理は退屈であった。

東野圭吾
登場人物たちの話し合いのテーマは、
期待したほど深遠なものでも、デリケートなものでもなかった。
子供たちが面白いことをいっていないわけではない。
たとえば、
「癌もヘルペスも病気には変わりない。何が違うのか」
というテーマでもいいし、
「母親はどこまで子供を自分のものとして扱っていいか」
でもいい。
せっかくの設定を生かしていないと感じた。
リアリティを損なう瑕瑾もあった。
この施設に常駐している者が
一人もいないというのはあり得ないだろう。
「ゼロ番」の少年に関しても、医学的におかしい。

桐野夏生
全員の意見が一致しないと集団自殺できない、
というシチュエーションが呑み込めないと、
何のために何度も決を採るのかが伝わらない。
また、子供たちそれぞれの「死にたい」動機が弱く、
書き分けも今ひとつだ。

伊集院静
私には作者が何を書き、読み手がこの作品のどこに興味を抱き、
小説の力を感じてよいのか、
正直、混乱してしまった。
作者が意図するものに重きを置き過ぎたのではないかと思えた。



映画『ノーエスケープ 自由への国境』  映画関係

[映画紹介]

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「ゼロ・グラビティ」でアカデミー賞監督賞を受賞した
アルフォンソ・キュアロンがプロデューサー、
その息子のホナス・キュアロンが長編初監督を務めた、
と聞いて観た作品。
ホナスは「ゼロ・グラビティ」で共同脚本もしている。
メキシコ映画。

舞台はアメリカとメキシコの国境にある砂漠。
15名の不法入国者を乗せたトラックが故障してしまう。
仕方なく徒歩で砂漠を歩き、
国境の鉄条網を越える。
しかし、灼熱の砂漠の中で、
先行組と遅れ組に別れてしまう。

と、先行組に突然の凶弾が襲い、
次々と倒されていく。
遅れ組は身を隠すが、
狙撃者に発見され、
一人、二人と銃弾に倒れていく。
最後に残ったのは、
息子に会いに行くために国境を越えた男と
メキシコは危険だからと
父親にアメリカ行きを勧められ女の二人だけだった。

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狙撃者は、トラックに南軍の旗をはためかせた男。
兎狩りに来て、不法入国者を見つけ、
皆殺しを始めたのだ。
ライフルの腕がものすごくいい。
撃った後「自由の国にようこそ」とうそぶく。

何やら「メキシコとの国境に壁を」と主張した
トランプの公約を彷彿とさせるが、
この映画の製作年は2015年だから、
トランプの政策とは関係がない。
時代が映画に追いついた、とも言えるし、
こういう内容だから、今公開に至ったとも言えるだろう。

映画は全て屋外のロケで撮影されており、
自然光の効果を狙ったという。
セット撮影の部分など1秒もない。
回想も使わない。
密入国者一人一人の事情など、
主人公と女について、ほんの少し触れるだけで、
ただひたすら狙撃から逃げる人々の姿を追い続ける。

摂氏50度を越す過酷な環境で、
見える光景は岩山と灌木とサボテンのみ。
水も食料もなく、武器もなく、
狙撃者から逃げまどうしかない。
逃れる術はあるのか・・・

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あれほど遠いところから
一発で仕留める腕の持ち主なのに、
主人公には当たらない、
猟犬も女を襲わないなど、
ご都合主義の点は見受けられるが、
単純な構造で88分を貫いた
監督の志はよしとすべきだろう。

主人公を「天国の口、終りの楽園。」の
ガエル・ガルシア・ベルナルが演じ、

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狙撃者を「悪党に粛清を」で冷血な南部大佐をやった
ジェフリー・ディーン・モーガンがつとめる。

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このジェフリーが渋くていい。

原題の「DESIERTO」は、「砂漠」

5段階評価の「3.5」

予告編は↓をクリック。

https://youtu.be/inAGM5yWiGY

TOHOシネマズシャンテ他で上映中。

タグ: 映画

得票ゼロ  様々な話題

新潟県阿賀町で4月23日に行われた町議選で、
得票数ゼロという候補者が出た。

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定数12に対して、現職12人、新人3人の計15人が立候補
有権者は1万373人で、
7854人が投票。
投票率は75.72%だった。
その結果は↓。

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当選者で得票数が1番少なかったのは427票で、
この男性の次に得票数が少なくて落選した候補でも、
246票を獲得している。

得票ゼロの候補者は60歳の無職男性の新人候補。                 
家族はいないのか、親戚はどうしたのか、
ちゃんと選挙運動をしたのか、
等々疑問は残るが、詳細は不明。

少なくとも自分は自分に投票しているはずで、
実際、本人は、
自分の名前を漢字で書いて投票したと言っている。
だとしたら、よほど汚い字で、
「判読不明」として無効票となった可能性があるという。
ちなみに、無効票は100票あった。

男性は取材に対し
「驚いたが、すでに結果が出ていて騒いでも仕方がない」
と話した。
もしかして、自分に投票していないのかもしれない。

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昔は(いつまでかは知らないけれど)、
自分で自分に投票する行為は、
あまりほめられた行為ではない、と思われていた。
事実、子どもの頃の学級委員選挙でも、
自分の名前は書かなかったと思う。

その「自分で自分に投票するのは恥ずかしい行為」
というのを扱った小説に、
菊池寛「入れ札」がある。

国定忠次(忠治)が子分と共に信州路へ逃れていく途中の話。
忠次の心を苦しめているのは、子分の始末だった。
赤城山へ籠った当座は、50人に近かった子分が、
途中次々と脱落し、あるいは捕らえられ、
その時には11人しか残っていなかった。
これ以上、大人数を連れて歩くわけにもいかず、
かといって一人きりになってしまうことも困る。
信州追分の親分の家に、転がり込むにしても、
国定村の忠次とも云われた貸元が、
子分の一人も連れずに、顔を出すことは、
沽券にかかわることだった。
手頃の子分を二三人連れて行くとしたら、
一体誰を連れて行こう。
内心は連れていく子分の心づもりはあったが、
今まで命を捨てて着いてきてくれ子分の中から
二三人を引き止めて他に暇をやることが、
どうしても気が進まなかった。

意を決した忠次は子分を集め、
二三人だけを連れて、ここで別れたいと告げ、
その人選をどうするかを持ちかける。
様々な案が出ては否決されていく中、
忠次は卑怯な提案をする。
子分たちが投票(入れ札)して、
得票数(札数)の多い者から3人だけ連れていこう、というのだ。
自分では決められず、子分たちの手に委ねたのである。

半紙と筆が準備される中、
主人公に焦点が当たる。
稲荷の九郎助
年齢から見ても、履歴(?)から見ても、
忠次の身内では、第一の兄貴分なのだが、
忠次からも子分たちからも軽んじられ、
後輩である浅太郎や喜蔵に追い越されてしまった存在だ。

九郎助は密かに票読みを行う。
浅太郎に4枚(票)、喜蔵に3枚入るとして、後4枚残る。
自分の1枚をのけると3枚。
もし、その中、2枚が、自分に入れられていれば、
3人の中に加わることは出来るかも知れない。
誰が入れてくれるか、
弥助の他には思い当らない。
弥助も九郎助と同様に、古顔だが、
後輩の浅太郎や、喜蔵などが、台頭して来るのを、
常から快からず思っているから、
こうした場合には、きっと自分に入れてくれるだろう。
事実、弥助は筆を渡すときに、
九郎助の顔を見ながら、意味ありげに、
ニヤリと笑った。
「お前を入れたぜ」と云うように。

あと1枚。
その1枚が、九郎助には生死の境、栄辱の境であるように思われた。
入れ札に洩れて、年甲斐もなく置き捨てにされることが
どうしても堪たまらなかった。
浅太郎や喜蔵の人望が、
自分の上にあることが、まざまざと分かることを、
どうしても認められなかった。

催促されて、九郎助は「くろすけ」と書く。

開票結果は、
浅太郎と喜蔵が各4枚。嘉助が2枚。
九郎助は──1枚。

自分以外には、誰も投票しなかったのだ。
あの弥助さえ。

忠次は自分の思い通りの人選が出来たのに満足し、
お金を分け与え、子分たちと別れる。

子分たちがそれぞれの方角に散っていくと、
九郎助も山を下る。
九郎助は、落選した失望よりも、
自分の浅ましさが、ヒシヒシ骨身に徹こたえた。
みんな親分の為を計って、浅太郎や喜蔵に入れたのだ。
そう思うと、自分の名を書いた卑しさが、
いよいよ堪えられなかった。

九郎助の後から声をかける者があった。弥助だ。
一緒に歩きながら弥助は言う。
「浅や喜蔵は、いくら腕っぷしや、才覚があっても、
お前に比べればホンの小僧っ子だ。
十一人の中でお前の名をかいたのは、この弥助一人だと思うと、
俺ああいつらの心根が、全くわからねえや」
怒りに全身を震わせ、弥助を斬ってやろうかと思う。
しかし、弥助の嘘を咎めるのには、
自分の恥を打ち明けねばならない。
口先だけの嘘を平気で云う弥助でさえ考え付かないほど、
自分は卑しいのだと思うと、
頭の上に輝いている晩春のお天道様が、
一時に暗くなるような味気なさを味わうのだった。

この話、好きです

九郎助の、古参であるというだけで、
親分からも子分の仲間たちからも
軽んじられた立場に対する悲哀。
能力もなく、人望もない、自分自身への評価。
そして、自分で自分に投票するという
恥ずかしい行為に対する自己嫌悪と、
弥助の嘘をとがめるには、
自分のしたことを明らかにしなければならないという、
複雑な立場・・・

この痛みを内包しながら、
九郎助は、その後生きていかなければならないのだと思うと、
胸が切なくなります。

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倉本聰に、こんな作品があります。

町会議員に立候補した男(たしか、フランキー堺がやっていた)が、
妻と娘と一緒に選挙運動にいそしむ。
投票結果は──2票しか入らなかった。
自分は確かに自分に投票した。
あと1票は、妻か、娘か。
裏切ったのはどちらか。
結果はどうだったか、忘れました。

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古い話ですが、
その2票で当選した例があります。

1933年(昭和8年)2月11日、

兵庫県多紀軍の後川村(しつかわむら)の村会議員選挙で、
得票数2票で当選者が出た。

当日は猛吹雪で棄権者が約5割もあり、
酒造出稼者も投票に帰ってこなかった。
議員の定数は12。
有権者は221人。
投票数は118票。
得票数の最高は18票、少ないのは2票が4名、1票が1名。
つまり、当選ライン内の11位に4名が並んでしまい、
法規によって(多分くじ引きで)2票の4名の内、2人が当選と決定。

ちなみに、4年後の昭和12年、
同村の村会議員改選選挙の日は暴風雨で、
得票数4票で当選が決まっている。

参院選比例区では、一部の自治体で
比例候補者の得票がゼロだったという例があります。

2016年7月の参院選に比例区で出馬した民進党候補は、
岐阜県本巣市における得票数がゼロだった。

同じ参院選で、
比例区で当選した片山虎之助議員(日本維新の会)も、
愛媛県西条市での得票数がゼロだった。

比例区では、
党名か候補者の氏名のどちらかを記入するため起こった現象。

前者の例では、
同市在住の男性らが、開票作業に疑いがあるとして、
選挙の無効を求めて訴訟を起こした。

後者の例では、                                 
日本維新の会は、少なくとも3人が片山氏に投票したとして、
選挙の無効を求めた訴訟を起こした。

いずれも裁判で却下。
                                        
世の中、いろいろなことが起こるものです。


評論『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』  書籍関係

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題名のとおり、中国と韓国をディスる本である。
しかし、日本人がするのではなく、
米国人がするのだから、
問題はないだろう。

著者は他の論文の中で、
「日本のなかでいちばん好きなのは日本人です」
と書いているくらい、日本(人)びいき。
元々モルモン教の宣教師として来日し、
その後、国際法律事務所に就職し、
企業への法律コンサルタントとして再来日。
知的レベルの高い米国人として、
テレビなどにも出演した。
その公平な観点から、
最近の中国と韓国の日本に対する仕打ちに我慢ならないらしく、
あちこちにそういう評論を発表している。

冒頭に、こう書く。

日本人と中国人、そして韓国人とでは、
根本から、正反対といっていいほど違います。
そして、その違いの根源が「儒教」にあると、
私は考えています。

で、その「儒教の呪縛」なのだが、
なかなか読んでも分からない。
どうやら、儒教の中には「公」よりも「私」を大切にする思想があり、
それが共産主義と結びつき、
文化革命を通じて、
「仁・義・礼・智・信」などの道徳心や倫理観が失われ
中華思想の中で増幅し、
「自己中心」の国、
「おまえのものはおれのもの、
おれのものもおれのもの」

という、傲慢な国民性を作った、ということらしい。

その結果、どうなるか、
国際法という公のルールを守ることよりも、
「自国だけの利益」を追及する国になった。

元々独立国であったチベットを軍事侵攻し、
イスラム国家であった東トルキスタンも取り込み
南シナ海を自分の海だと主張し、
国際司法裁判所の決定にも従わず、
尖閣を自分の島だと主張し、
更に、沖縄も元々中国のものだと主張する。
その根底に儒教から来る中華思想があるという。

ある中国人は
「中国人には国境という意識が薄いのです」
と言い、
それが周辺諸国と摩擦を引き起こす原因だ。

中国社会を覆う汚職も、
中国人の役人に「公」という意識がなく、
すべては「私」を基準に動いていることが原因なのだ。

共産党一党独裁体制を守るためには、
国民の言論の自由も奪ってしまう。

中国人は詐欺でも、
「騙すより騙される方が悪い」と考える。
だから、平気で嘘をつく
「南京大虐殺」も犠牲者が30万人と、
不可能な数字をあげ、
間違った写真や資料を並び立てる資料館を作る。

これらは、最近の中国の主張としてきたことを見ると、
なるほど、そこに根源があったかと悟らされる思いがする。

韓国については、
その「事大主義」によって中国にすり寄り、
そのことによって他の周辺諸国に対して優位性を保とうとした。
自分たちのことを「小中華」と自称し、
朝鮮半島は中国から一番近い位置にあるので、
中華思想に従えば、
永遠にナンバー2のポジションを得られると考える。
その結果、
上位には中国だけがあり、
朝鮮半島より距離が遠い日本を一段低い国と決めつける。
その日本が世界の大国となり、
文化が受け入れられ、
世界中で尊敬されているのが、
我慢できない。

儒教思想に基づく上下関係を絶対と考える朝鮮人にしてみれば、
日本が自分たちの上を行くことは、とても受け入れがたい屈辱・・・
まさに「対等」という概念が存在しない、
儒教思想の呪いです。

その「妬み」が、
慰安婦や徴用工を問題視し、
「かつて日本はこんなことをした」
と世界に宣伝して、
なんとか日本を貶めようとする根源的な力になっている。
日本を貶めるには、
戦時中のことを持ち出すしかないのだ。
だから、はるか70年以上前のことを持ち出しても、
恥じることはない。

1964年の「日韓基本条約」で、
韓国にある日本人の資産を放棄するでけでなく、
国家予算の倍以上の経済援助をして、
「全て解決済み」としたのにもかかわらず、
いつまでもいつまでも70年以上も前のことについて
いちゃもんを付けるのは、
とにかく自分たちより上を行く、
本来自分たちより下に位置するものを引きずり降ろしたいという、
怨念に他ならない。

そして、こう述べる。

一括りに「東アジア文化圏」などといいますが、
中国と韓国、そして日本の文化には、
大きな隔たりがあります。
確かに日本にも儒教は伝わりました。
それは仏教が伝来する以前のことです。
そして日本人は、儒教の精神を上手に取り入れながら、
独自の文化を発達させていきました。
仏教精神も取り入れ、
伝統的な神道などにうまく吸収し、
江戸時代には、武士道という倫理・道徳規範として確立させます。

日本人の公の心、秩序、名誉、勇気、潔さ、
惻隠の情といった高潔な精神は、
この武士道に集約されるということです。
日本人は、儒教の教えのよい部分だけを選んで、
武士道に上手く採り入れた、といってもいいでしょう。

江戸時代以降の武士道は、
支配者層であった武士が
自らを律する道徳規範として成立しましたが、
庶民はそんな武士を尊敬し、
憧れも抱いていたので、
やがて日本人全体の精神として、
生活の中に浸透していったのです。

なぜ同じ儒教に影響されながら、
日本が中国や韓国と違った
独自の文化を生み出すことができたのか。
その原因の一つとして、
日本が建国以来、
一度も王朝交代が起きていないことが影響している、と指摘する。
日本には、「絶対的な公」
つまり、「天皇・皇室」が存在するからだ。
それに対して、中国・韓国では、
皇帝を名乗る人物も、
どうせ10代もすれば入れ替わるのだと歴史が証明しているから、
家臣たちも「公」に対して
絶対的な忠誠を誓う気持ちになれなかったのだろう、
と推測する。

言われてみれば、そのとおりで、
世界最古の国、日本だけの特色といえよう。

日本人でも気づかないことを
こうして外国人から指摘されるのは妙なものだが、
確かに、そのとおりだ、という気がする。

こうして、日本と中国・韓国の違いが明らかになれば、
それらの国との付き合い方も考えなければならない。

特に、日本のような「公」の尊重、
が通じない相手なのだから、やっかいだ。

「公」への忠誠がなければ、
汚職も利益誘導も当然だし、
やったもの勝ち。
同様に、国境の侵攻も
世界の批判など気にする必要はない、
やったもの勝ち、ということなのだろう。

こういう考えの国がすぐ隣にいて、
膨大な軍備費を使って虎視眈々と狙っているのだ。

北朝鮮問題も、そのあたりに本質がありそうだ。
世界という大きな視点で考えることが出来ず、
自国の体制だけが大切で、
核とミサイルを強化し続ける国。

しかし、天法に反することがいつまでも通用するはずはない。
やがて、世界も中国・韓国の抱く本質に気づき、
日本人の持っている精神性が
世界の注目を浴びる時が来るだろう。

中国も韓国も世界の中では
既に「嫌われ者」になっている。
まさに「悲劇」は続いているのだ。
そのことに気づき、
自己変革しなければならないだろう。

そんなことを考えさせられる本だった。






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