エッセイ『小松左京さんと日本沈没 秘書物語』  書籍関係

[書籍紹介]

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筆者の乙部順子さんは、
1977年から小松左京さん(1931年1月28日〜2011年7月26日)の

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アシスタントをつとめ、
1981年からは秘書になった人。
小松さんが亡くなるまで34年間
小松さんの下で仕事をしてきた。
2001年から季刊の同人誌「小松左京マガジン」を発行し、
小松さん没後の2013年まで、
全50巻を刊行。

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人生の大半を大SF作家・小松左京と共に歩んだ人だ。
ただし、「日本沈没」の発刊は1973年だから、
まだ秘書になっておらず、
ちょっと看板に偽りあり。

それはおいておいて、
34年間の秘書の立場から、
生の小松さんの生き方を活写するのが、この本。
2012年1月から2015年の間、産経新聞に連載された
「宇宙からのメッセージ小松左京と秘書のおかしな物語」を中心に
他の雑誌に発表したいくつかのエッセイで構成されている。

この本で初めて知ったが、
小松さんは戦後しばらくの間、漫画家を志し、
実際に何冊か刊行しているという点だ。
小松さん自身は、
漫画を書いていたことを封印していたのだが、
ある時期、復刻を許した。
「モリ・ミノル」名義で(小松さんの本名は、小松実)
「第五実験室」「大宇宙の恐怖アンドロメダ」
「イワンの馬鹿」「大地底海」
などという作品で、
題名だけ聞いても胸が高まる。

↓は、米メリーランド大・プランゲ文庫で発見された
“幻のデビュー作”、「怪人スケルトン博士」(1948)。

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人工地震を起こす装置で日本を海に沈めようとする
スケレトン博士の陰謀を
探偵スピイドが阻止する物語で、
「日本沈没」を彷彿させる内容だ。

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乙部さんは、こう書く。

漫画も、ある時期から
イメージのほうが膨らみすぎて、
画力がそれに追いつかず、
「本業」にすることをあきらめてからは、
「漫画家」と呼ばれるのは、
プロの漫画家に対して失礼だと思っていたのではないか。

もし一つ間違えば、
漫画界は、手塚治虫に加えて、
「小松左京」という大漫画家を擁していたかもしれないと思うと、
なんだか興奮しないか。

多才ぶりの中に、音楽の才能があったことも初めて知った。
旧神戸一中時代に、
同級生の高島忠夫とバンドを組んで、
高島さんがギターとヴォーカル、
小松さんがヴァイオリンを弾いていたという。
大学卒業後「牧神座」という素人劇団では
脚本、演出をし、
ある作品の中では、
合唱曲の作詞・作曲もしているというから、すごい。

新婚の貧乏時代の挿話も驚かされる。

不安定な収入の生活で、
夫のいない奥方の楽しみは
ラジオに耳を傾け金魚を愛で、
野良猫を可愛がること。
ある日、六畳一間の部屋からラジオが消えた。
「ついにラジオも質草になったか」
と、小松さんは自分を責めた。
「ならばラジオの代わりになる娯楽をぼくが書こう」
と毎朝二百字詰め原稿用紙何枚かずつ書いて
出勤するようになった。
それが(中略)「日本アパッチ族」の原型になる。
実はラジオは壊れて修理に出していただけだったのだが、
経済的に苦労させて申し訳ない、
という小松さんの優しさが、
ユーモアたっぷり、
毎日ゲラゲラ笑える面白いお話を生み出したのだ。

最初の単行本「日本アパッチ族」(1964)は、こうして生まれた。
私は高校時代この小説を読んでいる。

小松さんの生きた時代は、
コンピューターが生まれ、
どんどん進化した時代だ。
パソコンが出ると、小松さんはすぐに飛びついた。
しかし、その規模は、
まだ8インチフロッピーで128バイトしかメモリー容量がなく、
英語とカタカナしか使えない8ビットパソコンだった。

それでも当時としては驚異的なデータ処理機器だった。

と、乙部さんは書く。

それ以前に、
1964年に世に現れた電卓を、
小松さんはこれをすぐに購入。
値段は12万6千円から37万円まで諸説あるが、
「目の玉が飛び出るほど高かったが、
あれを使いまくったおかげで『日本沈没』が書けた」
と語っている。

1979年に発売された
初の国産ワープロである東芝のJW-10(630万円)も、
いち早く一号機を小松左京事務所で使用している。

その後のコンピューターの進化を見た小松さんはどのように驚いたか。
携帯電話が登場し、アイホンに進化することは予測しただろうか。
こんな時代が来ることは、
昔のSFでも全く予測できなかったことだった。

また、災害に対する小松さんの責任感も興味深い。
阪神淡路大震災の時は、
倒壊した高速道路に腰が抜けるほど驚いたという。
そして、「日本沈没」の著者としての「責任を感じて」
新聞に震災のルポを連載する。
そして、2011年の東日本大震災も目撃した。
小松さんが亡くなったのは、
東日本大震災の4カ月後である。

無類の愛猫家であることも、この本で初めて知った。
なにしろ、東京にいて、関西の家に電話するとき、
第一声が「猫は、元気か?」だというのだ。
「みんないるか?」と聞くこともあった。

ここなど、海外から家に電話する時、
「猫たちは、みんな元気?」
と聞く私は、つい微笑んでいまう。

色紙にこのように書くこともあったという。

「幼而従親(幼くしては親に従い)
 婚而従妻(婚しては妻に従い)
 老而従子(老いては子に従い)
 耄而従猫(ぼけては猫に従う)」

また、別な色紙には、

「幸せは 夕餉晩酌たのしみつ
 猫をかぞえて みんないる時」   


とも書いた。

小松さんの小説を読む時、
驚くのは、そのスケールの大きさと、
膨大な知識量である。
あの頭脳の中には、
一体どれだけの情報が詰まっていたのだろうか。

筒井康隆は、小松の自選短編集『骨』の解説で、
自身との比較において、
「自分は、自分の頭の中にある、
知識やシチュエーションを組み合わせて、
小説を考えていく。
だが、小松左京は、
まず『こういうテーマの小説を書く』と決め、
それに沿って彼の頭をワッサワッサと揺り動かすと、
膨大な関連する知識が落ちてきて、
それをまとめあげていく」
と、小松の創作法を評したという。

しかし、乙部さんは、こう書く。

小松さんの秘書として34年間、
一緒に仕事をしてきた私が、
いつも感じていたのは、
宇宙と人類の問題や
日本を沈没させたりという、
とてつもない物語を書く人が、
日常の些細なことをとても大事にしている、ということ。
たとえば新茶をうまく供することができたときには、
「美味しいお茶がね」と言ってくれ、
朝一番の牛乳を飲んだときには、
「あ〜美味しい」と
実に幸せそうに言う。

最後に、あとがきで、こう書く。

「小松左京」という一人の人格を通して、
私は現代史を見、
昭和の大きな知性のありようを
生々しく見ることができた。
その知力は非凡であっても、
人間としては実に人間くさくて、
そこがかえって魅力的だった。
人類史、いや宇宙史レベルで物事をとらえることのできた知性は、
人間の愚かしさ、醜さ、おぞましさも含めて
愛することができる大きな存在だった。
そして未来をあきらめていなかった。
人間をあきらめていなかった。
このような「小松左京」という存在を
身近に観ることができた幸せを、
いまあらためてかみしめている。






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