小説『赤猫異聞』  書籍関係

今朝、娘はソウルに飛びました。
キム・ジュンスのミュージカル「ドリアン・グレイ」の初日の舞台を観るためです。

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本当の初日は9月3日。
1日・2日はプレビュー。
今夜、プレビューの初回を観ます。
明日も明後日も。
初日まで待てばいいじゃないか、
と私が言うと、
「誰も観たことのない舞台を、
千数百人の観客と一緒に
かたずを飲んで見守る、
それがないとも言えない」
のですと。

確かに、それはそうで、
何事にも「初めて」の味付けは、
輝きを増すものです。

この後、娘は2回観に行く予定。
うち1回は、私と一緒です。


〔書籍紹介〕

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江戸から明治に変転する伝馬町牢屋敷を舞台にした
浅田次郎の小説。

「赤猫」とは、放火犯の俗称、総じて火事を意味するが、
伝馬町牢屋敷では、
火の手が迫った際の「解き放ち」を
囚人たちの符牒で、そう呼んでいた。

「解き放ち」・・・
1657年3月2日(明暦3年1月18日)の明暦の大火の際、
小伝馬町の牢屋奉行である石出帯刀吉深が、
焼死が免れない立場にある罪人達を哀れみ、
大火から逃げおおせた暁には
必ず戻ってくるように申し伝えた上で、
罪人達を一時的に解き放つ「切り放ち」を独断で実行した。
罪人達は涙を流して吉深に感謝し、
結果的には約束通り全員が戻ってきた。
吉深は罪人達を大変に義理深い者達であると評価し、
老中に死罪も含めた罪一等を減ずるように上申して、
実際に減刑が行われた。
以後この緊急時の措置が制度化されるきっかけになった。
                (Wikipedia より)

明治元年暮、東京に火事が発生し、
牢屋を預かっていた石出帯刀
(江戸幕府伝馬町牢屋敷の牢屋奉行の世襲名)は、
囚人たちの解放を決意する。
鎮火後の暮れ六つまでに帰参することを約束させて。

物語は解き放たれた3人の囚人に焦点を当てる。

一人は牢名主の繁松
賭場開帳の罪で遠島となっていた侠客。
親分の罪を被ってに入牢し、
器量を発揮して牢名主になっていた。
出所後を恐れた親分の手が回り、
死罪が申し渡され、
その理不尽な裁きにも
「妙なお裁きもあったもんで」
と死刑の場におもむく。
今まさに首が斬られるという瞬間に
火事を告げる早鐘に、死刑は一時中止となる。

一人は旗本の次男三男で、
鳥羽伏見の戦いで敗れ、
上野の山の戦いでも敗残し、
江戸市中の空屋敷に潜伏して
夜な夜な官軍の兵隊を斬って回っていた岩瀬七之丞

一人は夜鷹の総元締めの莫連女の白魚のお仙

この3人は解き放ちの対象から外され、
命を奪われそうになるが、
その前に立ちはだかったのが鍵役同心の丸山小兵衛
「解き放ちは火事にも喧嘩にもまさる江戸の華だ」
と主張して、石出帯刀の「解き放て」の一言を引き出す。

ただし、三人の解放には条件がついた。
鎮火の後、三人が共に帰って来た場合は無罪放免。
帰らない者がいた場合は、帰った者が死罪。
三人とも帰らない場合は、丸山小兵衛が腹を切る。

誰かが死なねばならなかったのです。
それぞれ見知らぬ他人が、
あの赤猫の晩に
のっぴきならぬ命の絆で結ばれてしまった。
まるで氏素性のちがう、
それまで何の縁(えにし)もなく生きてきた四人が。

こうして3人は火事が燃え盛る東京の町に放り出される。
各自のすることは、「意趣返し」だった。

白魚のお仙は、
江戸から東京への混乱に乗じて悪行の限りを尽くした
八丁堀同心の猪谷権蔵を殺すこと。

繁蔵は、その罪を被って牢に入ったのに、
逆に死罪に嵌めようとした親方の麹屋五兵衛に復讐すること。

岩瀬七之丞は、
のさばる官軍の橋番所を襲撃して天誅を与えること。

それぞれがそれぞれの目的のもと、
意趣返しの場に向かうが、
結果は意外な謎が待っていた。

物語全体が、
明治が進んでからの典獄(刑務所長)が
明治元年の赤猫騒ぎを調査するため、
関係者を尋ねて聞き書きする、
という仕掛けになっている。
まず、旧伝馬町牢屋敷同心の証言。
次に、それぞれ明治への変転を生き抜いていた、
問題の3人の証言。
そして最後に、意外な人物の死の間際の証言。

どうしてこういう形式を取ったか。
最後の人物の証言で謎が解明され、真実が判明するのだが、
まさに話巧者・浅田次郎の面目躍如。
こういうことなら、
この形式しかなかっただろうと納得する。

そして、最後の人物の証言が感動的で、
それまで張られた伏線が回収され、
物語の真の主人公が誰であったかが明らかになる。

と共に、牢屋敷で世襲的に継がれてきた牢役人、
それは他になり手がないので世襲せざるを得なかったのだが、
その、牢獄で囚人を手にかけてきた牢役人たちに対する
鎮魂歌の赴きをかもし出す。

私どもはみな二百幾十年もの間、
そうした浮世ばなれのしたお役目についてきたのです。
お定めでは一代抱えの同心であるのに、
手替りなどいるはずはないゆえの世襲でございました。
勤皇も佐幕も、攘夷も開国も、
私どもにとっては他国の出来事でした。
お江戸のまんまん中に、
小伝馬町牢屋敷という名の
離れ小島があって、
私どもは大昔からそこに住む異族であったのです。

実業家として成功した繁蔵の言葉。

「私ァこう思う。
人間はみんな神さん仏さんの子供なんだから、
あれこれお願いするのは親不幸です。
てめえが精一杯まっとうに生きりゃ、
それが何よりの親孝行じゃござんせんか。
だから、寄進する金があったら
そのぶん給金をはずむか、
お国に使っていただくか、
貧乏人にくれてやってます。
それが一等、神仏のお喜びになることだと思いやすので」

軍学校の教官になった七之丞の言葉。

「武士とは不自由なものよ、と思いました。
先祖代々の御役があり、
拝領屋敷を持ち、
矜りと面目とにがんじがらめにれれて身じろぎもできぬ。
それに引き較べ、
火事も戦も酒の肴にできる町人どもの、
何と自由であることでしょう」

同じく七之丞の述懐。

「厭離穢土欣求浄土。(えんりえどごんぐじょうど)
東照神君家康公が昇旗に記された、
われら旗本の誓詞であります。
穢(けが)れたこの世をば厭(いと)ん離れ、
欣(よろこ)んで浄土へ赴く。
わが父祖はこの誓詞を口々に唱えて、
戦国の世を戦い抜いたのでありました」

丸山小兵衛の竹馬の友であり、同僚である杉浦正名の話。

「友と学んだ寺子屋にて、
老師が二人がたけに諭した教えがござりまする。
『法は民の父母(ちちはは)なり』
出典など存じませぬ。
不浄役人の小伜として、
町人の子供らからも疎んじられていた私と丸山に、
師はその言葉を贈って下さいました。
『法は民の父母なり』
ならば、世が乱れて法が父母の慈愛を喪うたとき、
その法にたずさわる者は
みずからを法と信じて、
救われざる者を救わねばなりますまい。
おのれ自身が民の父母にならねばなりますまい。
丸山小兵衛はけっして神仏の化身などではなかった。
務めに忠実たらんとすれば、
人はみな神仏に似るのでございましょう」

幕末の混乱期に起った一つの事件を描いて、
味わい深い一篇。





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