小説『恥も外聞もなく売名す』  書籍関係

〔書籍紹介〕

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安土桃山時代から江戸時代前期にかけての戦国武将・
渡辺勘兵衛(渡辺了。1562〜1640)を描く。

Wikipedia による略歴。

はじめ浅井氏麾下の阿閉貞征に仕え、貞征の娘を妻とした。
「槍の勘兵衛」と称される槍の名手であり、
摂津国吹田城攻めで一番首を挙げ、
織田信長から直接称賛された。

後、羽柴秀吉に仕え、秀吉の養子・秀勝付きとなり、
次いで豊臣秀次の家老中村一氏に仕えるも
恩賞に不満を持って浪人。

その後、増田長盛に仕え、
関ヶ原の戦いで西軍についた長盛の出陣中に、
居城の郡山城を任された。
戦後、既に長盛が所領を没収されて高野山に蟄居していたにも関わらず、
「主君長盛からの命で城を守っている。
それ以外の命によって開城はできない」と、
城接収役の藤堂高虎、本多正純らにあくまで抵抗した。
その後、徳川家康らによって長盛に書状を書かせるまで
城を守り通し、無事に開城もすませた。

その忠義と力量に仕官の誘いが相次いだが、
同郷の藤堂高虎に2万石の破格の待遇で仕えた。
今治城の普請奉行を務めるなど、
槍働き以外の才能を見せ、
その後藤堂氏が伊勢国に移封となると、
上野城城代にまでなった。

大坂の陣では藤堂勢の先鋒を務めるが、
冬の陣にて戦い方をめぐり主君・高虎と衝突。
夏の陣の八尾の戦いにおいては
長宗我部盛親・増田盛次の部隊に襲い掛かり、
300余人を討ち取る活躍をした。
しかし、この活躍も独断専行甚だしく、
7回にも及ぶ撤退命令を無視して追撃して得たもので、
戦いには勝ったものの損害もまた大きく、
高虎や他の重臣たちから疎まれる原因となった。
そのため戦後出奔して再び浪人となった。

仕官の道を探すものの、
藤堂氏から
奉公構(仕官を他の家にさせないようにする願い)の触れが出ており、
江戸幕府などからも誘われるものの、
適うことはなかった。
土井利勝を通じて高虎に奉公構を解除するように願い出たが、
高虎は「奉公したければ
(姻戚関係のある)会津の蒲生家か讃岐の生駒家に仕えよ」と命じ、
これを彼は承知しなかった。
後、天海を仲裁役にして奉公構の解除を願ったが、
藤堂家から出された一方的な和解の条件に承知せず、
逆に高虎への不平不満を申し立てたため、交渉は決裂した。

高虎の死後も、
子の藤堂高次が引き続き奉公構の方針を維持したため
仕官はかなわず、
その才を惜しんだ細川忠興や徳川義直らの捨扶持を細々と受けながら、
「睡庵」(水庵)と称した。

寛永17年(1640年)、京にて死去。78歳。

という史実を、虚実ないまぜにして描く。

物語は、増田長盛から郡山城を任されたあたりから描く。
長盛の息子、増田兵部が城を訪れ、
城を明け渡すように迫るが、
主君長盛から託された城だから
長盛の指示がなければ開城するわけにはいかないと主張する勘兵衛に
兵部は
「さような意固地をつづけるのは、
おのれの名を売るために過ぎぬであろうに」
と怒鳴るのに対し、勘兵衛は
「名をあげることはに命を張るのが
もののふと申すもの。
それを恥と申されるのならば、
この勘兵衛、
恥も外聞をかえりみず、
おのれの名を売りまするわい」
と言ってのける。

これが題名の由来で、
ボイントは「もののふ」

もののふ・・・武勇をもって主君に仕え、
       戦場で戦う人。武人。武者。兵(つわもの)。

長盛と兵部の会話。

「そなた、勘兵衛に嫉妬しておるのだな」
「誰があのような男に──」
「本当は勘兵衛のように生きたいのではあるまいか」
「さようなわけがありますまい」
「わしは、勘兵衛に嫉妬しておるぞ。
できれば、あのように生きてみたかった」
「あの男は、恥も外聞もかえりみず
名を売るなどと申す見下げ果てた男。
おのれの売名のために、
父上の大恩を仇で返したのですぞ」
「名を売るもの結構ではないか。
それが、本来のもののふではあるまいか」

後に主君となる藤堂高虎も「渡り奉公」と称して、
次々と主君を代えて来た。
「もののふ」という意味はよく分かるのだが、
一国一城の主となった今、
その「もののふ」だけでは通用しないことを知っている。
しかし、勘兵衛の生き方には、
高虎は内心、憧憬に近いものを持っている。

その勘兵衛と高虎の内面の葛藤を描くのが本作のキモ。

高虎の側室の熊が
「女がおのれの顔で生きるには
どうすればよいと申されますか」
と問うた時の勘兵衛の返事。

「右も左もすべて地獄でござる。
そのとき、どちらの地獄に飛び込むかを
命がけで決することをこそ、
おのれの顔で生きると申すのでござる。
地獄を恐れ厭うて右往左往することではござらんわ」

高虎の家臣で、
「もののふ」の一人、菅平右衛門が
豊臣家滅亡を画策する徳川家康のやり方に反対して
「このような戦において幕府にご奉公つかまつれば、
槍が汚れるような気さえする」
と言うのに対して、勘兵衛が言う言葉。

「手前は、槍が汚れるなどとは思いませぬな。
手前には善き戦も悪しき戦もござらぬゆえ。
殿の御命をこうむったならば、
いかなる相手であろうと死力を尽くすまでのこと」

「強い者が肥え太り、
弱い者が痩せるのは
いたしかたのないこと。
その世の動きを見据えて仕える先を選び、
出頭せんとするのが
渡り奉公人の道と心得る」

その平右衛門を処断した高虎に
勘兵衛はついに愛想を尽かす。

高虎がこれほど変節したいま、
残念ながら藤堂家を去らなければならない、
と勘兵衛は腹を決めた。
主が召し抱えるべき臣を選ぶのと同様に、
臣もまた、仕えるべき主を選ばなければならないのだ。
臣といえども決して木偶(でく)のようなものではなく、
斬れば血の出る人なのだから。

その平右衛門の仇討ちとして、
勘兵衛は戦場を選ぶ。

「臣といえ、決して碁石や将棋の駒ではないのだ。
我らはおのれの意地と名にかけ、
おのれの心に従って走り、槍をふるう。
この当然の理を、
俺が戦場で暴れて見せることによって、
和泉守殿(高虎のこと)らに思い出していただこうと申すまで」

死のまぎわ、高虎は息子の高次を呼んで、こういう。
「水庵を赦免してやれ。
やつとわしとのことは私怨にすぎぬ。
男と男の意地の張り合いであって、
藤堂家とも無縁よ。
将軍家であれ、大名家であれ、
治世のために
やつが要ると申されるところがあるならば、
どこでも出仕させてやるがいい」
しかし、この高虎の遺言は高次によって握りつぶされ、
勘兵衛はついに死に至るまで
新たな主に仕えることはなかった。

これらに高虎の重臣の藤堂仁右衛門
大小姓の細井左内らの内心もからむ。
特に左内は勘兵衛の言った言葉が棘のように刺さる。

「おのれを尊べぬ者は、
他からも尊ばれぬぞ。
権門にへつらうために
死人のように生きる者は、
用済みとならば
塵芥のように捨てられるばかり」

最後に左内は雲水となって勘兵衛と再会する。

「主従や身分は当座のこと。
しょせん、天が下に、
おのれの主はおのれのみしかござらぬ」
と言う勘兵衛に左内は
「水庵殿がからやましい。
どうすれば水庵殿のように生きられるのか・・・」
と言うと、勘兵衛の答はこうだった。
「子細はごさらぬわ。
ただ、胸に咲く花の声に耳を傾けるのみ」

渡辺勘兵衛を主人公にした小説には、
他に池波正太郎「戦国幻想曲」があり、

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司馬遼太郎の短編集「軍師二人」の中の一篇、
「侍大将の胸毛」がある。

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時代小説の重鎮二人が題材に求めるほど
渡辺勘兵衛は魅力的の人物なのだと分かる。





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