『微笑む人』  書籍関係

〔書籍紹介〕

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神奈川県の安治川(あじがわ)で事故が発生する。
行楽に訪れた3人家族のうち
母親と娘が溺れて死んだのだ。
現場に駆けつけた消防隊員は、
夫のあまりに落ち着いた素振りに違和感を覚えるが、
普通の水難事故として処理されようとしていた。

しかし夫が二人を水に沈めた現場を見た目撃者が現れ、
火葬直前で遺体を確認した結果、
亡くなった妻の爪の間から
犯人をひっ掻いた時付着した肉片が見つかり、
その肉片のDNAが夫のDNAと一致した。
夫は逮捕され、犯行を認めた。
世間を驚かせたのは、
その夫のひととなりと犯行の動機だった。

夫の名前は仁藤俊美。
メガバンクに勤めるエリート銀行マンで、
品行方正、業績優秀、温和な人柄、
更に美形で高身長、高学歴、高収入。
行内をはじめ、周囲の人々に良い印象を持たれる人間。
同じ銀行で働いていた女性を妻に迎えて娘も誕生。
何一つ非のうち所のない、
幸せな家族だと思われていた。

そして、犯行の動機が
「自宅に本を置く場所がなくなり、
手狭になってしまったから殺した。
妻子がいなくなれば、その分スペースが取れると思った」
というのだ。

常軌を逸した殺人動機にマスコミは沸騰する。
仁藤の人格に問題はないのか。
その異常な動機は本当なのか。

本書は、事件に興味を抱いた小説家の取材の形を取る。
銀行、友人、大学、高校・・・仁藤の周辺をいくら当たっても、
「彼が殺人を犯すような人には見えない」
という良い評価ばかり。
しかし、現実に殺人は犯され、
その動機に対する供述を変える様子はない。

そして事件は新たな展開を迎える。
仁藤のかつての同僚の死体が
失踪から2年後、
安治川に近い湖水の底から発見されたのだ。
マスコミは二つの事件の関連性に燃え上がるが・・・

小説家の取材の中で、
仁藤の周辺で不可解な事件が起こっていることが確認される。
小説家の取材は
仁藤の小学校時代のある事件を追究していく。

そこで現れた新たな証言
しかし、その証言の信憑性も疑われる。

物語は事件の真相よりも
真相を解明しようとする小説家の内面に入り込んでいく。

実は結論はプロローグに書かれている。

人は他人のことをどれくらい理解できるものだろうか。
わかっているつもりで、
本当は何ひとつ知らないのではないか。
あなたの隣人が仁藤のような心根の人であっても、
その正体を知るすべはない。
知ったときにはもう、事は起きてしまっているのである。

だからといって、
小説として真実を追究して悪いわけではないが、
物語が進むにつれて、
仁藤という人物がますますわからなくなり、
更に、小学校時代の事件を証言する二人の人物の話も混迷を究める。
そして、それらが不明なまま、
小説は終わる。

つまり、プロローグに書いたとおり、
「他人のことを理解することは出来ない」
という結論に読者を放り投げるのである。

ここが、この小説の賛否の分かれるところだろう。

小説家の取材で、
過去の殺人事件の動機らしきものが解明される。

後輩の手柄を横取りした
空気の読めない同僚を排除するため殺した。

人気のゲーム機を手に入れるため、
友人を事故に見せかけて殺した。

隣の社宅にいる犬がこわく、
隣人家族を出て行かせるため、
犬の持ち主を殺した。

更に、連続殺人の発端となる
団地での転落事故が登場する。

読者を惹きつける力は並大抵ではなく、
最後まで一気に読ませるが、
読後の「モヤモヤ感」は並みではない。
作者の意図は、読者にそのモヤモヤ感を与えることだとは思い、
それはそれで成功しているが、
読後のカタルシスを味わいたい向きには
ちょっと困った小説である。

しかし、現実には犯人の心理など分かるものではない。
猟奇殺人事件の犯人の「心の闇」を
テレビのコメンテーターは口にするが、
そんなものが解明されたところで、
何の役にも立たない。
殺人を犯す人間、
その深い淵を越えることが出来る人間は、
やはり特殊な人間なのだと思う。

題名の意味は、
犯人の仁藤が誰に対しても向ける顔
「微笑む人」であることから来ている。
含蓄のある題名である。



映画サークルとウズベキスタン旅行記Cブハラへ  旅行関係

今日は昼頃銀座に出て、
映画を観た後、
いつものステーキ屋で300gのステーキを平らげ、
友人と会い、
その後、映画鑑賞サークルCCSの定例会へ。

デジカメを修理に出しているので、
写真はありません。

CCSでは、
近況報告の後、
「スポットライト 世紀のスクープ」
「ルーム」
「ボーダーライン」
の3作品について、感想を述べ合いました。


〔ウズベキスタン旅行記Cブハラへ〕

サマルカンドへのチャーター便が出された経緯は、
既に書きましたが、
本当はチャーター便というには、少し疑問があります。
なぜかというと、
毎週火曜・金曜のタシケントへの通常運行便を
サマルカンド経由にしただけの気配があるからです。
別に一便飛ばしたわけではないのです。
言ってみれば、
チャーター便というよりは、
「貸し切り便」といった方が適切でしょう。

↓はトラピックスのパンフレット。

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実は、当初、こちらに申し込みました。

しかし、数日後、↓のような新聞広告を見つけてしまいます。

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参加代金が1万円安い上に、
一人部屋参加料金が36000円→20000円と、
これも安い。
違うところは、トラピックスの方が
世界遺産のシャフリサブス観光が一つ多い点。

さらにJTBの方は
タシケントに一泊。
夕方6時まで部屋を使えるといいます。
深夜便に汗みどろで乗るより、
一旦汗を流せる方が嬉しい。

そこで、トラピックスからJTBに乗り換えることにしました。
参加者の中には、
同じ乗り換えをした方もいました。

↓はJTBの、相当力の入ったパンフレット。

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参加した後で、JTBはAからDまで
4つのコースを用意していたことを知りました。

↓は成田での受付カウンター。

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確かに、Aコース、Bコース、Cコースと
3つの受付があります。

AコースとBコースはほとんど同じ行程ですが、
Aコースはヒワに2泊、
Bコースはヒワ1泊、タシケント1泊、
という違い。
Cコースはヒワには行かず、
サマルカンド3泊、ブハラ2泊、タシケント1泊。
サマルカンド→ブハラ間は特急列車を使用。
Dコースはサマルカンドとタシケントだけで、
自由時間が多いコース。

4月22日出発では、
Aコース18人、Bコース28人、
Cコースは12人、
Dコースは成立しなかったようです。
JTBだけで3コース合わせて58人。


第3日目は、
サマルカンドを発った後、
ブハラへの移動日

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300q5時間かけて走破します。

そこで魅力的だったのが、
新聞広告のこの部分。

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28名の参加者を14名ずつに分けてバスに乗せます。
従って、一人で2席を占有。
ゆったり。
一人参加者には同じことですが。

更に「トイレ付き」というのも魅力で、
これを見て参加を決めた人もいました。
しかし、実際は「緊急用」ということで、
走行中の使用はなし。
通常どおりトイレ休憩を取ります。
だったら、「トイレ付き」などと書かかなければいいのに。

そのバスが↓。

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3台あります。
ここで驚愕の事実が。
2台に分乗した他に
1台はカラを走らせるのだというのです。
つまり、砂漠の中で故障した時の予備
さすがJTB、すごいことをする。

ブハラまでは、こんな感じで、
見どころもなく、
単調な景色が続きます。

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雲の形が面白い。

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途中、陶器の町ギジュドゥバンの工房を訪問。

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中にいた子供たち。

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けなげに、足でろくろを回しています。

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職人さんから説明を受けます。

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中庭の畑。

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先程の子供たちが遊びます。

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井戸もあります。

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販売所では陶器が並びます。

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ここでお茶の接待を受けました。

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再び単調な景色。

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この黄色い管はガス管。

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水道管は地中に、
ガス管は地上に、
がウズベキスタン流のようです。

ブハラの町に着きました。

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これが連泊するホテル、グランド・ブハラ・ホテル

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いかにも社会主義時代に建てたような建物。

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部屋は広いですが、

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各部屋での使用が集中すると、
お湯が出なくなります。

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水で髪を洗った時は、
泣きたくなりました。

続きは、今度。


『グランドフィナーレ』  映画関係

〔映画紹介〕

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ハリウッドスターやセレブが宿泊するアルプスの高級ホテル。
世界的な音楽家フレッドは80歳を迎え、
作曲も指揮も引退して優雅なバカンスを送っている。

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ホテルには様々な人間が宿泊しており、
フレッドの親友で映画監督のミックもその一人。
若いスタッフたちと新作の構想に没頭中だ。
その他にも人気のハリウッドスターや
今はボテボテの身体をさらしているサッカーの選手もいる。

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ある日、英国女王の使者が訪ねて来て、
フレッドに、かつて作曲して大ヒットした曲「シンプル・プラン」を
女王主催の音楽会で指揮してくれるように依頼する。
しかし、フレッドは「私事」を理由に頑なに拒む。
その「私事」とは・・・

というわけで、高級リゾートに泊まる人々の人間模様が描かれるのだが、
これが一筋縄ではいかない
というのは、
登場人物が過去の栄光をひきずり、
その幻影から逃れられない人々だからだ。
功成り名を遂げて、後は残された日々を過ごすばかり。
フレッド自身が音楽家として成功しながら、
家庭的には不幸な人物として描かれる。
「私は終わったんだ。仕事も人生も」と述懐し、
娘に「音楽に全て捧げて何が残ったの」と責められ、
「私は無意味に歳を重ねてきたのか。
自分を愛せないまま」
と言い、
「今からでも人生を愛せるだろうか」
と疑問を述べる。
英国女王の申し出は断りながら、
山中で、牧畜の牛のカウベルを指揮したりしている。

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映画監督のミックはもっと悲惨で、
過去に名作を作っていながら、
最近は鳴かず飛ばず。
次回作は内容よりも出演女優の名で出資をつのる有様だ。
その古い付き合いの女優に出演を断られ、
先行き真っ暗になる。
過去の作品で描いた120名の女性たちの幻影に悩まされるシーンは
本作中、白眉のシーン。

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ハリウッド俳優は、
かつて大ヒットしたロボット役を越えられず、
イメチェンが出来ずにたちすくんでいる。
しかし、一人の少女に声をかけられ、
ロボット役でない別の映画、
誰も観ていないと思っていた作品の中の
名セリフを指摘されて涙ぐんだりする。

他に食事中一言も口をきかない老夫婦は
口をきくかきかないかで
フレッドとミックの賭けの対象になっていたりする。
その老夫婦を森の中で見かけ、
意外な行動に目を見張るフレッドとミック。
夫婦というものの不思議を表したシーンだ。

フレッドの娘レナも
最近離婚を迫られ、
その理由を聞いて深く傷ついている。

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そして、フレッドが「シンプルプラン」を演奏しない理由は・・・
この肝心のシーンが予告編であかされているのは、
配給会社のセンスを疑う。

監督はパオロ・ソレンティーノ
「グレート・ビューティー/ 追憶のローマ」
2013年度のアカデミー賞外国語映画賞を受賞した監督だ。

フレッドはイギリスの名優マイケル・ケイン

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ミックにハーヴェイ・カイテル

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レナにレイチェル・ワイズ
ハリウッドスターにポール・ダノ
そして、ミックが愛する老女優にジェーン・フォンダ!。怪演

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かつての栄光に浸りながら、
残された日々を埋めることだけに専念する人々の
老境を描いて秀逸。

舞台となったアルプスのホテルは、
トーマス・マンが「魔の山」を書いた場所だという。
最後にフレッドはマンの中編「ベニスに死す」の舞台ベネチアを訪れる。
そこで会った人物とは・・・

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本作の原案は、著名なイタリア人指揮者が、
女王からオーケストラの指揮を依頼されたが、
レパートリーについて折り合いがつかずに断ったという
実話から触発されたもの。
ソレンティーノは
「自分にはあとどれだけの時間が残されているのかと考えた時、
人は未来に何を望むのかということを描きたかった」
と語る。
「私たちは普段、歳を重ねた人たちが、
それでもまだ将来に立ち向かおうとするなんて考えてもみない。
だからこそ80歳を生きる人たちが、
明日について期待することは何かということに非常に興味を引かれたんだ」

と言っている。

「グランド・フィナーレ」は日本で付けた題名で、
原題は「YOUTH」(若さ)。
強烈な皮肉と共に、
願望も含まれているようだ。

5段階評価の「4.5」

予告編は↓をクリック。

https://youtu.be/AGw8HeD4ZSk

「グレート・ビューティ/追憶のローマ」
このブログでの感想は、↓をクリック。

http://star.ap.teacup.com/applet/shokuniku/20140826/archive

予告編は↓をクリック。

https://youtu.be/RiICHx3jFPQ

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ウズベキスタン旅行記Bサマルカンド・その3  旅行関係

今夜の地震のニュースで、
NHKが「関東地方でインド5弱」というテロップを流してしまった。

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「しんど」(震度)と入力するところを
「いんど」と入れてしまった入力ミス。

というのは、
ただ、こういう作り物がツイッターで流れたのは事実。

ついでに言うと、
2004年12月14日、
毎日新聞のネット速報で
「北海道でインド5強」
と報道してしまった前例がある。

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これは、事実。


さて、ウズベキスタン旅行記を続けます。

ここ、レギスタン広場は、
サマルカンドの顔とも言える場所。

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今回の旅行中、3回訪れました。
1回目は、第2日目の夕刻、
左側にあるウルグベク・メドレセの

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中庭で、

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このような会場設定がなされて、

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歓迎イベント「サマルカンドの夕べ」を開催。

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ウズベキスタン観光省代表
日本大使館第一書記官も挨拶。

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これで、ようやくチャーター便が何故か判明。

安倍首相が昨年10月、
日本の総理として9年ぶりにウズベキスタンを訪問し、
カリモフ大統領との首脳会談で、
観光分野におけるパートナー関係の更なる拡大を進める、
という合意がなり、
その一つの表れとして、
チャーター便を飛ばす、ということになったのです。
4月8・15・22日と5月6日に計4便飛ばし、
今回は、その3便目。
ワールド航空サービスが元請けで、
阪急トラピックス、LOOKJTB、朝日旅行に呼びかけ、集客を展開。
その約2百数十名の一行を、政府あげて歓迎するのが、
この行事。
なるほど、そういうわけだったのか。

ウズベキスタン側としては、
日本人観光客約千人が大挙して訪れるということは
大変なことで、
この行事になったわけです。

で、まず民族音楽の演奏。

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次に民族舞踊の披露。

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そして、ファッションショー

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更に民族舞踊。

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こうして歓迎イベントは終了。

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その後、この市街地の

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民家を改造したレストランで

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代々伝えられた家庭料理を賞味した後、

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レギスタン広場に戻りました。

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ライトアップがきれい。

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「晴れ男」の私の参加する旅行には珍しく、
雨が降りました。

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それでも定刻の9時になると、小雨に。

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始まりました。
音と光のショー。

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プロジェクション・マッピングを使った華麗なショー。

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音楽も見事。

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内容は、ウズベキスタンの歴史を辿るもの。

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過去から現在へ。

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現在から未来へ。

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こういうものを見慣れている私からしても

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大変結構なものでした。

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これもめったに上映されていそうで、
今回の歓迎イベントの一つ。

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いやー、いいものを観せてもらいました。

動画を見たい方は、↓をクリック。

https://youtu.be/WOM1uvu6g64

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さて、日本と同じ月を見ながら、
夜が明けると、
レギスタン広場、3度目の訪問。

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奥から外を見たところ。
あのプロジェクション・マッピングはどこから投映したのでしょうか。

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この建物があやしい。

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ということは、左右2カ所から投映したということでしょうか。

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ところで、これは絵はがきの写真。

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広場の中に木があります。
プロジェクション・マッピングのために、
この木も切り倒したのか?

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さて、この広場の名前の「レギスタン」とは、
「砂地」の意味。
3つのメドレセに三方を囲まれた形になっています。
「メドレセ」とは、神学校のこと。
コーランの勉強だけでなく、
語学や数学、天文学も教えましたから
大学のような施設。
歴史的に教育熱心で
全国に神学校が建てられました。

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ティムール時代には、
大きな屋根のバザールが建てられ、
孫のウルグベク時代には
キャラバンサライ(隊商宿)建てられたり、
町の中心的機能を果たしました。

西側(向かって左)にあるのが
1420年に建てられた一番古いウルグベク・メドレセ

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あの天文台を作ったウルグベクの作った学校で、
自らも教壇に立ちました。

35mある入り口アーチには、
ウルグベグの嗜好を反映して、
青い星をモチーフにしたタイル模様が描かれています。

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アーチの両側のミナレットは、
「空を支える」ためだとか。

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内部は1階が4つの講堂とモスク、
2階が学生が生活するフジラと呼ばれる寮が55部屋あり、
100人以上の学生が寄宿し勉強していました。

昨夜の歓迎イベントの会場。

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奥はみやげもの屋です。

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正面にあるのは、
1660年に建てられたティラカリ・メドレセ

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1646年から1660年にかけて建てられた
1階建ての神学校です。

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神学校と金曜日のモスクの両方を意図して建てられました。

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ここには寮がないので、
ウルグベク・メドレセに寄宿し、
礼拝や勉強時はティラカリ・メドレセに通い、
実際はモスクとして使用されていました。

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中庭。

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青のドームの下の内装が見事で、
その荘厳さから「ティラカリ(金箔された)」という名が採られています。

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昔の姿。

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ソ連時代に修復がされました。

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礼拝所の修復には、
3sの金が使われたといいます。
この装飾には
このメドレセをもう一つ建築する分と
同じくらいの多額の費用がかけられているといいます。

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ここも今はおみやげもの屋。

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東側(向かって右)Iあるのがシェルドル・メドレセ
1636年に完成

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「シェルドル」とは、
ライオンが描かれた」という意味で、
ここのアーチには、
小鹿を追うライオンが
人面を帯びた日輪を背に描かれています。

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回教では偶像崇拝を禁止しており、
そのため、肖像画もなく、
模様も花のみ。
そうした中、
動物や人が描かれているイスラム建築は珍しく、
支配者が自分の権力を誇示する為に
あえて描いたと言われています。
建築家が責任をとって自殺した、
という伝説も残っています。

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中庭。

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二層の宿坊があります。

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ここもおみやげもの屋になっており、

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楽器店では実演も。

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この日は、広場の近所のスーパーに立ち寄りました。

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野菜や果物も売られているアメリカ式スーパー。

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でも回教国ですから、
お酒の販売はありません。

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飲み物は豊富。

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値段を調べると、
ジュース1リットル入り紙パックが110円位。

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コーラのペットボトルも100円位。

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ところが、ビン入りは400円、

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缶入りは300円と割高。

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理由を聞いたら、
ロシア製だからなんだそうです。
へ〜え。

これでサマルカンドとおさらばして、
バスはブハラに向かいます。

続きはまた今度。


『花神』(上)  書籍関係

〔書籍紹介〕

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司馬遼太郎の長編歴史小説。
日本近代兵制の創始者で、
「維新の十傑」の一人と数えられる
大村益次郎↓(1824〜1869年、文政8年〜明治2年)
の生涯を描く。

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1969年(昭和44年)10月1日から
1971年(昭和46年)11月6日まで
朝日新聞夕刊に、633回にわたって連載された。

大村益次郎の生涯は、
Wikipediaのものがよくまとまっているので、引用。

周防国吉敷郡(現:山口県山口市に編入)の
百姓に生まれた村田蔵六(後年大村益次郎と改名)は、
郷里を発ち、
大坂適塾に緒方洪庵を師として研鑽を積み、
抜群の成績を上げ塾頭にもなった。
医師として故郷防長に戻った蔵六だが、
人と交わるのが不向きなため田舎では変人扱いされていた。

黒船来航・開国開港など時代が大きく変化し始め、
諸大名が最先端の科学研究と
その実用化に向け本格的に動き始め、
ずば抜けて洋書を読解著述ができる蔵六は、
シーボルトの弟子二宮敬作の進言で、
伊予宇和島藩の軍艦建造に招かれ、
それを機に洋学普及のため、
江戸で私塾「鳩居堂」を開き、
幕府の研究教育機関(蕃書調所、のち開成所)でも出講するようになる。

出世をしても自らを売り込むことに興味のない蔵六だが、
維新倒幕へ向け藩内改革を目論む長州藩志士桂小五郎は、
江戸で出会った蔵六をさまざまな経緯を経て藩士として招き、
軍政改革の重要ポストに就けた。
その出自に対し藩内でも差別や抵抗を受けつつ、
また尊皇攘夷など狂奔な活動を起こし続ける
長州藩に侮蔑の念を隠さない
多くの蘭学者・洋学者(福沢諭吉)たちの白い目を承知しつつ、
蔵六は時代に花を咲かせる花神(花咲か爺)としての役割を担っていく。

長州征伐において勝利を収め間もない高杉晋作の没後に、
奇兵隊を倒幕に向け再編成し、
大政奉還後に発足した官軍における事実上の総参謀を務め、
戊辰戦争の勝利に貢献し
明治維新確立の功労者となった。
さらに維新政府の兵部大輔として軍制近代化の確立を進めてゆく。

一方で(本人は意に介さなかったが)、
旧来の思考でしか判断のできない者(海江田信義・大楽源太郎など)からの
偏見・嫉妬・批判はさらに深まり、
遂に京の宿泊先で遭難した。
死の床にあってもやがて来たる最後の大乱「西南戦争」を予感し、
新製の大砲を用意しろという遺言を残し、
最後まで技術者・実務家を通し生涯を終える。

本作を原作として、
NHK大河ドラマが製作され、
1977年1月2日から12月25日までの
全52話が放送された。
村田蔵六(大村益次郎)は中村梅之助が演じた。

上・中・下と長い小説だが、
とりあえず「上」を紹介。

百姓の身分で生まれた蔵六が
大坂の適塾で名を上げ、
一旦故郷で医者となるが、
宇和島藩に取り立てられ、
蒸気船を建造、
やがて時代の要請で江戸に出て幕府に用いられ、
元々の出自である長州藩の嘱託となり、
オランダ学からイギリス学に転換するまでを描く。

物語を急がず、
様々な蘊蓄を傾けながら、
悠揚迫らず、という言葉がふさわしい描き方で、
幕末に生きた一人の傑出した人物を描ききる。
さすが大家の筆である。

蔵六の父親が「葛根湯医者」などと揶揄されるところで、
次のように述べる。

元来、医者とくに内科医は、
一定の医学的教養や経験歴があったところで、
どうにもならない。
うまれつきのかんのよさが大事で、
でなければいかに学識と経験があったところで、
その経験がかんを生む素地にはならないのである。

まさにいい得て妙な真理である。

他に

人の主義は気質によるものだが

という記述もある。
まさに、日本人の政治的立場というものが気質によるものだとよく分かる。
非武装中立、原発反対、安保法制反対
などのメンタリティは、
まさに「気質」が支配しているものと思われる。

ペリー来航の衝撃も、次のように述べる。

日本人が、あたらしい文明の型をみたときに
うける衝撃の大きさとふかさは、
とうてい他民族には理解できないであろう。
日本人を駆りたてて維新を成立せしめたのは、
江戸湾頭でペリーの蒸気軍艦をみたときの衝撃であるということは、
すでに触れた。
衝撃の内容は、
滅亡への不安と恐怖と、
その裏うちとしての新しい文明の型への憧憬というべきもので、
これがすべての日本人におなじ反応をおこし、
エネルギーになり、
ついには封建という秩序の牢獄をうちやぶって
革命すらおこしてしまった。
この時期前後に蒸気軍艦を目撃した民族は
いくらでも存在したはずだが、
どの民族も日本人のようには反応しなかった。

その結果、
薩摩藩、佐賀藩、宇和島藩の3藩が
ほとんど同時期に蒸気船を建造している。

中でも一番小さい藩の宇和島藩で、
建造を命令された蔵六は、
蒸気船など見たことがないのに、
オランダの書籍を頼りに建造してしまうのだ。
それに貢献したのは、
提灯張り替えをしていた嘉蔵という下層階級の青年で、
話を聞いただけで、
蒸気機関のひな型のようなものを作ってしまう。
これを見て蔵六は驚嘆し、
同時に腹を立てる。

嘉蔵がヨーロッパにうまれておれば
りっぱに大学教授をつとめているであろう。
それを思えば、
嘉蔵の身分のあわれさもさることながら、
もっと大きなものへの腹立ちを感じたのである。


かれは、ヨーロッパ人に対抗できる
ほんものの日本人とは
嘉蔵のような男だとひそかにおもっていた。
いま京や江戸ではやりの攘夷さわぎの志士どもについては、
蔵六は口に出して批判したことがないが、
軽蔑していた。

嘉蔵は小男で、
まるい顔に薄いあばたがある。
蔵六がものをいうたびにペコペコ頭をさげていたが、
やがて話が蒸気船のことになると、
嘉蔵のなかから卑屈さが消え、
堂々と語りはじめた。
「こういう男が尊敬されるような世の中をつくらねば
日本はほろびるのだ」
と、蔵六はしみじみおもった。
ヨーロッパのことはよくわからないが、
日本は人間についての価値観が
どうやらまちがっている。

蔵六の人生観をあらわす、次のセリフもいい。

(小さな墓石を一基、
それを買えるだけの金をのこして、
一生を終えればいい)


蔵六の塾に集まった塾生たちにたいする記述に、
当時の気風がうかがえる。

塾生たちは、
蔵六自身がおどろくほどに熱心であった。
総じていえば、
そういう諸学課を通じて
西洋学という巨大な技術世界に
すこしでも接近したいという熱気が、
塾生を駆りたてていた。
この時代の日本人の知識欲のつよさは、
おそらく世界史的な驚異というべきものであっただろう。

横浜で青年たちに教えたヘボンの驚きも面白い。

ヘボンにとって意外なことは、
かれらは英語ができないくせに、
数学がよくできるのである。
「かれらはみな、
二次方程式をふくむ代数や平面三角法、
球面三角法などといったものによく通じていた」
とヘボンが述懐しているように、
どの人物もそういうものをスラスラと解くのである。

「まったくおどろくべき国民である」
ヘボンは、日本と同じ条件下におかれた
どの国のどの民族でも
こういう奇蹟はありえない、と書き、
そのなぞについて考えこんでしまったらしい。

蔵六をはじめとする先駆者たちが
オランダの背後にある
もっと大きな世界を知り始めるところが大変興味深い。

教授者である蔵六がそろそろ悩みはじめたのは、
「オランダ語だけでよいのか」
ということであった。
あたらしい産業文明を背負っている言語が、
オランダ語でなく
英語であるということに
蔵六自身、気づきはじめたのである。

この極東の島にいる日本人のおもしろさは、
オランダ文字という
いわば針の頭ほどに小さな穴を通して、
広大な西洋の技術世界をのぞいている。

福沢諭吉が横浜に行ってみると、
その文字が一字も読めなかった、
ということが描かれている。
オランダ語が世界だ、
と思っていた学究者には衝撃であっただろう。

──蘭学か英学か。
という択一になやんだ
この時期の福沢諭吉という青年は、
おおげさにいえば
日本の文明史の潮合(しおあい)に立っていたといっていい。

開明にたいする記述も面白い。

この開明という現実主義と
攘夷という壮烈な非現実主義の戦いは、
日本にあってはこの時代だけでなく、
ほとんど体質的な持病といっていい。

他のアジア諸国との違いも興味深い。

同時代、おなじ極東にある中国や朝鮮では
なお儒教という形骸化された思想と、
道教という民間習俗のなかで、
いわゆるアジア的停頓をつづけていたが、
日本のみは
産業革命がまきおこした
世界的な変動の波に乗ろうとしていた。
福沢諭吉が後年いった「脱亜論」は
すでに万延元年前後の日本の現実であった。

幕末の時期に高位者の持っていた資質もなるほどと思わせる。

幕末の有識者というものは、
その感情生活ですら
私情よりも天下のなりゆきごとを先行させて
喜憂するというところが濃厚であり、
この有識者一般の通癖が、
明治維新という文化大革命としても
世界史上にない大転換を遂げしめたのであろう。

日本史上、どの時代にも、
この時代ほど公というものが、
人の心を支配していた時代はない。

まさしく、
日本は明治維新敗戦という
大きな節目を通して発展した。
その時代に生きた人物を描くことに
作家が執心する気持ちもよく分かる。





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