『人間の分際』  書籍関係

〔書籍紹介〕

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賢人・曽野綾子さんの70篇ほどの著作から集めた金言集
最近、曽野さんはこういう本が多い。

本の題名は、いろいろと意味が深いが、
まえがきにある次の部分が代表する。

蛇でもタヌキでも、
おそらくねぐらの穴の寸法は、
自分のからだに合ったものがいいのだろう。
大きすぎても小さすぎても、
不安や不便を感じる。
この「身の丈に合った暮らし方」をするということが、
実は最大のぜいたくで、
それを私たちは分際というのであり、
それを知るにはやはりいささかの才能が要る。
分際以上でも以下でも、
人間はほんとうには幸福になれないのだ。

分際を心得て暮らせば、
それはその人にとって最高の生涯の一つの形なのだ。
こんな簡単な原理さえ見極められずに、
「人並み」や「流行」を追い求めて死ぬ愚か者は、
多分世間に私一人ではないのである。

心に残る言葉は多いが、
引用するときりがないので、
第7章 老年ほど勇気を必要とする時はない
から金言を書き出してみよう。
なにしろ、私も「老境」に入ったから、
人ごとではないのだから。

(一行空いているのは、
 別々な部分からの採録を示す。)

人間が高齢になって死ぬのは、
多分あらゆる関係を絶つということなのである。
もちろん一度に絶つのではない。
分を知って、少しずつ無理がない程度に、
狭め、軽くして行く。
身辺整理もその一つだろう。
使ってもらえるものは一刻も早く人に上げ、
自分が生きるのに基本的に必要なものだけを残す。

何歳で死のうと、
人間は死の前に、
二つのことを点検しているように思われてならない。
一つは自分がどれだけ深く人を愛し愛されたかということ。
もう一つは、
どれだけおもしろい体験をできたか、である。
それが人並み以上に豊かであれば
納得して、死にやすくなる。

私は今でも一つの町を去る時、
もう生きて再びここには来ないだろう、
と必ず思っている。
しかし私は振り返ることはしない。
見返る姿がさまになるのは、
美人だけなのだ。
その代わり、私はいつも、
「ここも見た」「あそこも見た」「ありがとうございました」
と心の中で呟いている。
「見た」ものは決して景色だけではない。
どの町でも、私は、
悲しみも、諦めも、
歪んだ人生そのものも「見た」。
だからもうこれでいい、
という気持ちなのである。

よく人は、老年は先が短いのだから、という。
その言葉は願わしくない状態を示すものとして使われるのだと思う。
しかし私はそう感じたことがない。
もう長く苦労しなくて済む。
もう長くお金を溜めておいて何かに備えなければならない、
と思わなくて済む。
もう長く痛みに耐えなくて済む。
晩年はいいことずくめだ。
晩年には、人生に風が吹き通るように身軽になる。
晩年には人の世の枷が取れて次第に光もさしてくる。

人間にはすべてのことに終わりがある。
そしてその終わりは少しも悲しむべきではない。
自然が、時が、
実は神が「もういいよ。もうお休み」と
祝福を与えてくれるのだ。
その時人間は何一つ思い残すことなく、
来世への旅立ちに向かう。

霊魂は、永遠の生命を得るためには、
一度は必ず、この世に生まれ出なければならず、
そのために、地上の夫婦は、
与えられる限りの力で
一人でも多くの子供を生むべきだ、
と木下は教えられて来たのである。
この宇宙にはそのようにして、
何万年、何十万年も、
生まれる機会を与えられるべくして待機している霊魂が、
月光の中の塵のように浮遊しており、
それは一つの荘厳な詩のような光景として
木下の眼には見えている。
男女の睦み合いという、
最も素朴で原始的な、
むしろ滑稽ですらある行為が、
そのような神の計画に参加すると考えると
何ともおかしいのである。

死刑囚の最期に立ち会う教誨師によれば、
死刑執行の当日になってじたばたするのは、
子供のない人だという。
後に心を残して死なねばならぬ子持ちこそ、
本当は死にたくないといって
騒がねばならないのだろうが、
それが逆になるのは、
子供のない人は
自分が死ねば後に何もなくなる、
と思うからなのである。
子供を産めばいいというものではない。
子供がなくても
人間として与えて生きた人は、
すでに彼が生きてきた証を、
後世に伝えたという自覚を持てる。
最後の日に
その人はなすべきことをした安らぎのうちに死ねるのである。

聖書に、
「一粒の麦は、
地に落ちて死ななければ、
一粒のままである。
だが、死ねば、多くの実を結ぶ」
という言葉があります。
その一粒は、
そのまま取っておかれる限り、
芽を吹くこともなく、
新しい実を結ぶこともない。
しかし、それが蒔かれ、
まるで墓に葬られるように土の中に埋められて、
その原型を失うようになって初めて、
新しい命である芽を吹く。
つまり、麦の一粒の死が、
やがて「多くの実を結ぶ」ことになるというのです。
私が知り合った神父や修道女たちは、
それぞれの理由で修道院に入り、
結婚もせず、子供も持たず、
自分から望んで、
世界のもっとも貧しい国の片田舎で
一生を過ごしたりしました。
彼らは、その土地の子供たちに読み書きを教え、
栄養失調児にご飯を食べさせ、
小さな診療所で貧しい患者に薬を与え、
赤ん坊が生まれるのを助ける、
というような仕事をしています。
住まいには電気もガスも水道もなく、
バスタブにゆっくりと浸かって疲れをとるなんていうこともない。
タンクに貯めた水を、
空き缶の底に錐でたくさん穴を開けた
シャワー・ヘッド風のものに導いて、
ぽしゃぽしゃ落ちる水で体を洗うだけ。
アフリカでも夜に水で体を洗うのは、
寒くてつらいものなんですよ。
それでも彼らは、
たまに日本での休暇を過ごすと、
いそいそとまた「地球の僻地」へ帰って行く。
それは、一粒のままを保って生きるのではなく、
死んでも誰かに何かを残すことで、
自分の存在が生き続けることを望むからです。

一粒のままがいいか、
そこから芽が出るために死ぬのを選ぶか、
人間はそこそこ生きているうちから決めなければならない。
死んで芽を出す道は、実は簡単だ。
人のために働くことなのである。





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