『義民が駆ける』   書籍関係

〔書籍紹介〕

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江戸時代後期の天保義民事件に材をとった、
藤沢周平の時代小説。
1976年から77年にかけて、
中央公論社の雑誌『歴史と人物』に連載されたもの。
藤沢作品では、
私が未読のものが2つ程あり、
その一つがこの作品。
今回、縁があって、読むことが出来た。

財政難に苦しむ川越藩藩主松平斉典は、
先代将軍徳川家斉の二十四番目の男子斉省を養子に迎えていることから、
その生母おいとの方に働きかけ、
幕府首脳に多額の賄賂をばら撒いた上で、
川越よりもはるかに経済状況の良い庄内への国替えを画策した。
庄内藩はよく耕された肥沃な田地を持ち、
良質の米を産して富裕な藩と見なされていた。

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その案は老中水野忠邦によって、
荘内藩を長岡に、長岡藩を川越に、川越藩を荘内に移す
三方領地替えという形に変形され、
天保11年(1840年)11月、国替が命じられる。

川越藩は石高15万石。
庄内藩は表高14万8千石であるが、
実高は21万石と言われ、
藩主忠器らによる殖産興業や農政改革によって
比較的安定した藩財政を維持していた。
一方、長岡藩は7万4千石。
明らかに庄内藩だけが損をする国替で、
その理由が10年も前の庄内藩の
不始末とも言えない些事が理由にされたのだ。

荘内藩は、藩主酒井忠器、世子忠発、
その他藩首脳、商人本間光暉、佐藤藤佐らが
それぞれの立場から善後策を練るが、
幕府に逆らうことは最初から無理だった。

しかし、農民たちが動き始めた。
その背景には、庄内藩が飢饉の時の農民救済など
善政をほどこしていたことだけでなく、
川越藩主が過酷な年貢取り立てをすると思われたからだった。

西郷組の本間辰之助や玉龍寺の僧侶文隣らの指導により、
次々と江戸を訪れた農民は、
登城中の老中に嘆願書を渡す「駕籠訴」に成功する。
農夫の服装のまま江戸を訪れた農民たちの行動は
江戸市民の同情を呼び、
庄内藩の近隣藩に対する働きかけによって
幕府中枢に意見をする藩主も多数出て、
世論は国替えの撤回へと動いていくが、
幕府が一度出した命令を撤回するはずはなく、
時間だけが過ぎていった・・・

やがて、先代将軍家斉が、続いて斉省が病死したこと、
更に川越藩が斉典の生母を通じて
大奥から老中水野忠邦ら幕閣に対して
転封工作を行ったことが明らかになると、
諸大名からも批判の声が上がるようになり、
天保12年7月に
将軍徳川家慶の名において、
三方領知替えの中止
川越藩への2万石の加増が決定された。

という8カ月間の経緯を
庄内藩の藩主や執政たち、
庄内藩江戸屋敷、
庄内藩の出入り商人、
庄内藩の農民たち、
川越藩関係者、
川越藩から出されたスパイ、
幕府首脳の井伊直亮、水野忠邦、太田資始ら、
南町奉行の矢部定謙
などおびただしい登場人物を配しての群像劇として見せる。

背後にすさまじい調査があったことがうかがえられ、
既に末期に入った徳川体制のほころび
鮮烈に描かれる。

特に、農民たちの自主的な動きが活写され、
本当にその場にいるかのような臨場感で描かれる。
特に、江戸に行く時、
駕籠訴をするからといって、
羽織も着用せず、
わざと百姓の恰好のままで、
蓑と笠を着て、
今庄内から百姓が来た、という恰好で行った
戦略も素晴らしい効果を上げる。

「そういう恰好で行けば、
江戸さ着いたどぎ、
否応なしに目立つわけでがんす。
そごがつけ目で、
庄内がら、百姓が何しさ来たなだろ、
と思わせて置けば、
訴えだあど評判がぱっとひろがるですのう。

つまり、我われは、
江戸の人方がら、
同情され、味方になってもらわねばならねえわけで、
羽織、袴の役持ちの百姓でなぐ、
ただの百姓が、やむにやまれず
殿さま引きとめを訴えさ来たというどごろを
みて頂ぐわげでがんす」

その結果、思惑通りになり、
訴えを受けた老中の各藩の取り調べ役人が
「酒井は良い百姓をもって幸せだ」という声があがり、
取り調べ役人の中には涙を流した者もいた、
という話は泣かせる。

それに対する庄内藩首脳の反応。

「感心な者たちですな」
「我われがやりたくても出来んことを、
連中がやっておるという気もいたす。
それも誰に命じられたということでなく、
彼らの考えで動いたところが値打ちじゃな」
「その考えは、少々甘くないか」
「甘い? さようかな」
「百姓にはなかなか喰えんところがあることは、
知らんわけでもなかろう。
このことにしても、
きれいごとではない
彼らなりの魂胆があって動いておると、
わしは睨んでおるがの」
「そう言ってしまっては身も蓋もござるまい。
仮りに何かの魂胆があるとしても、
彼らのやっておることは、
明らかに酒井をよしとし、
川越を忌避しておる。
この一点は間違いござるまい。
それに、それがしが感心だと申すのは、
彼らが、咎めを承知の上で、
あえて江戸に向かったことを申しておる。
なまなかの武士も及ばん覚悟と見受ける」

当時は民衆が徒党を組んで公儀に反抗することは
最も重い罪
とされ、
主だった者は死刑と定められていた。
百姓たちの行動は、死の覚悟の上だったのである。

しかし、結果として、彼らは謹慎10日程度の処分だけだった。
それは、
幕藩制の下では、江戸幕府や徳川将軍家は
藩主である酒井家とは主従関係にあったが、
酒井家と主従関係にある庄内藩の家臣や領民に対しては
直接処分する権限はなく、
処罰の権限を持つのは
主君である庄内藩酒井家であるため、
軽い処分しか行われなかったのである。

それだけに、
国替えが撤回され、
それが早駕籠に乗った使者によって伝えられた時の喜びは大きい。

走りながら、人びとは絶えず叫び続けている。
ほとんど意味不明の歓声だった。
身体の奥底から衝き上げるものがあって、
彼らは叫ばずにいられないのだった。
彼らを酔わせているのは強い安堵感だった。
半ば本能的に、彼らは変革を嫌悪する。
昨日のように今日があり、
今日が何ごともなく明日につながることに、
彼らは暮らしの平安をみる。
そうである限り、
たとえ細々とした暮らしでも、
父祖以来の手馴れた生き方を頼りに、
彼らは生き続けることが出来る。
国替えの沙汰は、そうした彼らの生き方に、
一方的に変革を強いる恐れがある
無態なものとして立ち現れたのであった。
八カ月、彼らは不安な気持で暮らしてきた。
その不安が解けたのである。
帰ってきたのは、
手垢に汚れた変りばえもしない日々であるはずだった。
だがその変りばえしない暮らしが、
いまは眩しく光りかがやくようだった。
彼らは歓呼して自らを祝福しないでいられない。

いずれにせよ、
江戸時代という封建制度の時代の出来事である。
その後、日本は激動の時代を迎え、
幕末に入る。
年号が明治に変わるのは、
義民たちの出来事からわずか27年の後
武士の社会は変り、幕藩体制が終わりを告げ、
廃藩置県で藩もなくなる。
そんなことは庄内藩の人々も幕府の執政たちも
知らなかったのである。






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