『ピラミッド・タウンを発掘する』  書籍関係

〔書籍紹介〕

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著者の河江肖剰(かわえ・ゆきのり)氏は
エジプト考古学者。
現在は名古屋大学CHT共同研究員。
1992年から2008年まで
米国エジプト調査協会のメンバーとして
ピラミッド・タウンの発掘、
並びに多国籍チームによる
メンフィス地区の巨石建造物の3D計測調査に従事。

「ピラミッド・タウン」とは、
ピラミッド建造に関わった人々が住んでいた都市のこと。

ピラミッドはある日突然砂漠の中に出現したわけではなく、
建造計画があり、
石材の切り出しがあり、
その運搬、積み上げがあり、
それに従事する何千人の生活がある。
生活するためには住居が必要で、
そこで食される食材の収集があり、
調理場があり、
食事の場があり、
ゴミの廃棄場所がある。

ピラミッドを造営するためには、
人々を住まわせる都市を造らなければならない。
住居、食料の貯蔵や生産や配給を確保し、
道具や工具も作っていく必要がある。
同時に、物資を運ぶための港や
建設現場のピラミッドまでの運搬路も整えていっただろう。

そうした「人間」のわざを裏付ける
ピラミッドタウンを発見し、発掘し、調査する。
それによって
古代の大建造物建設の内実に迫ろうとする。

本書は、
第T部 どのようにピラミッドを作ったか
第U部 なぜピラミッドを作ったか
第V部 誰がピラミッドを作ったのか 
の3つの部からなる。

第T部は、
クレーンや起重機がない時代に
どうやって石材を上に積み上げたかを論証する。
傾斜路を作ったというのが定説だが、
その傾斜路も様々な説がある。↓

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傾斜路と聞いて、
私は右上のような単純な傾斜路を想像したが、
しかし、この案だと傾斜路建造のために莫大な石材が必要になり、
ピラミッドの3分の2程度の体積の構造物を
ピラミッドとは別に作らなければならない、
従って、不可能。
というのを本書で初めて知った。

第U部のハイライトは、
第5章の「王墓か、否か」に尽きる。
そこへのアプローチが

考古学的考察とは
刑事事件の現場検証と同じだということだった。

という指摘は面白い。

特に、現地がピラミッド単体で成り立つものではなく、
河岸神殿、参道、葬祭神殿と一体した
「ピラミッド複合体」という存在であることも興味深い。↓

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しかし、何と言っても本書の核心は、第V部
「誰がピラミッドを作ったのか」である。
その「誰」とは「クフ王」とか「カフラー王」とかのことではない。
実際に計画を立て、石を切り出し、
石を運び、石を積み上げた人々のことである。

ピラミッドを造った人々は
いったいどこに住み、
どのような生活をし、
そして建造中には
ギザ台地の上で実際どのように活動していたのだろうか?

こうした設問に従い、
筆者らは、三大ピラミッドの東南にその場所を発見し、発掘するのである。↓

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位置などからメンカフラー王のピラミッド建造に従事した人々の住居と考えられ、
2千人が寝泊まり出来る営舎やパン焼き場も発見された。
そして、様々な証拠を元に、
当時の労働者に一体どれほどの食料が配給されていたのかを突き止める。

これらの発掘現場からのデータと
実験考古学から得た知見を組み合わせると、
あるひとつの仮説が浮かび上がる。
──おそらく、このパン焼き場では、
長屋に住む人々のためだけに、
一日に一回パンが焼かれ、
人々は四日に一度、
その巨大な9494キロカロリーのパンを一個受け取っていたのだ。

パン以外に肉や野菜も供給され、
栄養は重労働に耐えるだけのものが配給されていた。
つまり、それが賃金に相当していたのだ。

パンとビールは、
古代エジプトの主食というだけでなく、
主な配給品として配られていたものだった。
現代風に言えば、
それは賃金にも相当する。
鋳造貨幣が生まれたのは、
紀元前7世紀後半のリディア(現在のトルコ・アナトリア半島西部)だが、
ピラミッド時代にはすでに徴税し、
分配する制度は出来上がっていた。
これは、江戸時代、
米を年貢として農民から徴収し、
それを武士に分配する仕組みになっていたのと似ている。
現在も国の予算案の調整と議決に、
政治家や官僚たちはもっとも力をかけるが、
古代エジプトにおける予算とは、
当然のことながらお金ではなく、
配給の要となる穀物であり、
それを加工したパンとビールだった。
一国の経済は人間の体にたとえられる。
人間の身体を血液が循環するように、
「マネーフロー」という経済用語の通り、
お金も社会を循環し、
経済に活力を与える。
それと同じように、
古代エジプトでは、
パンとビールが循環し、
「パンフロー」もしくは「ビールフロー」で
古代エジプト経済は回っていたのだった。


つまり、ピラミッドを建造したのは、
奴隷ではなく、
順番に徴用された国民であり、
その「賃金」はパンとビールで支給されていたというのだ。

そして石材に書かれていた「刻紋」を分析して、
最小のグループが20人で
その小隊が10組にまとめられて
200人規模の中隊を形成し、
それが5つまとまり1000人規模の大隊となり、
それが2つにまとまって競い合う2000人の連隊が形作られるという、
三層から成る極めて見事な作業集団の
ヒエラルキーが組織されていたことを推論する。↓

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いやはや考古学者とはすごい仕事をするものである。
その他、採石部隊2400人の他、
工具を造る人、料理をする人、
衣服を作る人等で
ピラミッド建造に携わった人数は
2万〜3万人ほどいたと推定される。

ピラミッドタウンの発掘は進み、↓

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サッカー場となっている場所の下にも遺跡があるのだが、
それを避けて西側の土地の発掘を優先する。
しかし、古代エジプトのピラミッドを造営した人々が住んだ町の上で
現代の子供たちがサッカーに興ずるというのは面白い光景だ。

このサッカー場の西の町の発掘で
巨大なゴミ捨て場が発見され、
「ゴミの山は宝の山」とする
考古学者の視点も興味深い。

こうしたピラミッド・タウンの発掘も
思わぬ事態で頓挫する。
それがチュニジアから始まった「アラブの春」である。
30年近く続いたムバーラク政権が倒れ、
エジプトの政情が不安定になり、
発掘を中断せざるを得なくなったからだ。

最後の「エピローグ」で、
4500年前のピラミッド・タウンの一日を小説風に描写して興味深いが、
その中で、当時ギザには人工的な時間が存在しており、
太陽が10回沈むと「一週間」で、
それが3回続くと一カ月。
すると徴用された人の仕事の期間が終わる、
というのも初めて知った。

エジプトに興味のある方には
最新情報満載の垂涎ものの本である。


私がエジプトを訪れたのは、1999年11月
カイロ、アスワン、ルクソール、アレキサンドリアと回った。
既に16年。
あの時に比べ、情報量も知識も飛躍的に増えている。
もう一度行ってみたい気がする。





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