『麗しき花実』 書籍関係
〔書籍紹介〕

乙川優三郎が書く
江戸時代の女流蒔絵師の物語。
蒔絵(まきえ)は、漆工芸技法の一つ。
漆器の表面に漆で絵や文様、文字などを描き、
それが乾かないうちに
金や銀などの金属粉を「蒔く」ことで
器面に定着させる。





尾形光琳作「八橋蒔絵箱」(国宝)

西村松雲作「高台寺蒔絵中棗(なつめ)」

松江の蒔絵師の家に生まれた理野は
長兄が継いだ父の工房を後に
次兄の修行について江戸に向かう。
次兄は当代一流の蒔絵師原羊遊斎に弟子入りし、
二人は羊遊斎の妾の管理する寮に住み込む。
次兄は貪欲に学び、みるみる腕を磨いていくが、
根をつめたのがたたって亡くなってしまう。
一人残された理野は帰郷を勧められるが、
「兄の道具はわたくしも使えます。
どうか原先生の弟子にして下さい」と頼み込み、
弟子になる。
この江戸で修行する理野を縦糸に
江戸後期の二十代の女性の生き方を横糸に
物語は紡がれていく。
羊遊斎の妾で寮母の胡蝶、
天才肌で気難しいが女が魅せられる蒔絵師の祐吉、
兄弟子の金次郎、
好意を寄せる画家の鈴木其一
など多彩な人物が脇を固める。
江戸時代の実在の光琳派画家酒井抱一も出て来る。
原羊遊斎と鈴木其一も実在の人物である。
尾形光琳筆「燕子花図屏風」

酒井抱一筆「月に秋草鶉図屏風」

酒井抱一筆「桜に小禽図」

何よりも蒔絵や理野の担当する下絵の製作過程が詳細に描かれ、
これに関する蘊蓄も豊富で、
よくぞ蒔絵師でもない作者が
これほど蒔絵師の内面と美に入り込めるものだと感心する。
もちろん取材力によるものだが、
取材したものを再構築するのは想像力の賜物で、
小説家の頭の中をのぞいたみたくなる。
職人と芸術家であることの意味を問い、
あくなき美を探究する姿勢が
いつの時代にも通じるものとして感銘を与える。
そして、物語の端々に描かれる草花などの自然描写、
季節の描写も胸に染みる。
長い作品なのに、
似た表現や描写が一つもない。
人物を取り巻く状況を作者が
既に目にしているからに違いない。
「命は分からないものね、
若くして死ぬと残念だと言い、
お年寄りが安らかに終われば
長生きで幸せだったと言うけど、
それだけとは思えないし」
「兄はこれからでした。
あと十年もあれば
蒔絵師として大成していたでしょう」
「追うものがある人は八十でもあと十年の夢を見るものよ」
どうにか死別の哀しみを乗り越えて
蒔絵に集中しはじめたころ、
新しい下絵を見た胡蝶が、
「あら、花も笑うのね」
と言った。
この何気ない、
しかし的確を感想に
理野は目の覚める思いだした。
狭い根岸の里には
才能がひしめいていて、
絡み合い、
多彩な色模様を織り出している。
はじめ異質に感じた世界も、
正体が見えるにつれて
輝く一方になった。
同化するには
こちらも輝くしかないし、
残された居場所はそこにしかなかった。
「古いものにもよさはあると思います。
光琳から学ぶのもそういうことでしょうし、
中には追い越せないものもあります」
「そういうものは黙っていても残ります。
しかしそれでいいと思うのは、
先人の偉業に打たれ、
優れた先輩に私淑しながら
何もしないのと同じでしょう」
蒔絵師も大きな工房を持ち、
沢山の職人を抱えると、
時間の使い方も異なって来る。
羊遊斎の時間の大部分は、
来客の応対と
外部への営業となる。
そして、売れるものを中心とした
数物(量産物)に傾いていく。
原羊遊斎作・酒井抱一下絵「四季草花蒔絵茶箱」

そして、師の名前で代作をする虚しさと罪悪感を
理野は其一と共有する。
「ずっと不思議に思っていました、
落款が偽物なら贋作で、
落款が本物なら筆が偽物でも真作になります。
なぜこの楓の図は其一さまの落款ではいけないのでしょう、
上人さまの屏風でなければならないのなら、
上人さまが描くべきです」
「画業では弟子が師のかわりに描くことはよくあります。
特に無償で人に贈るものはそうです、
画料を得るものには約束の期日がありますし、
大作であれば数人の弟子の筆が入ることも珍しくはありません、
そうして完成したものが師の筆に比べて
著しく劣るなら問題ですが、
佳(よ)いものなら価直は変わりません、
それは世間が許しています」
「本当にそうでしょうか、
真実を知って落胆する人も多いはずです、
代作も真作とするなら、
偽作とはどういうものを言うのですか」
このあたり、
ルーベンスが工房を作って
画を量産したのにも通じる。
「これは自分のために描く、
いつかあなたが言ったように
画家は自分の内側から湧いてくるものに逆らってはいけない、
無理をしてもそういう時間(とき)を持たなければ
小器用な絵描きで終わってしまう」
「職人はみんなそうです、
身につけた技を磨いて生きてゆくしかありません、
あとに残るのは丹精して造ったものだけで
名前すら残りません」
「今のところ
あれが先生の頂点だろうか」
「あれ以上のものがあるか、
これから生まれるとしたら、
見なければなりません」
「自分で造ればいい、
いつまでも憧れていてもはじまらない」
祐吉のセリフ
「今は壁を感じる、
どうやら蒔絵に馴れすぎてしまっいたらしい、
思い切って何かを壊さないと駄目だろうな、
蒔絵は精進すれば
あるところまではゆく、
そこで躓く、
躓きを知らない職人は幸せだが成功もしない、
平凡な細工に満足して、
一生名品とは縁のない不幸な蒔絵師で終わる、
そうなりたくなかったら
大事なものを犠牲にしても挑むしかない、
後悔して苦しむ分だけ
蒔絵で取り返す、
そういうところまで来てしまったらしい」
亀田老人と婦人の華やかな季節は過ぎ去り、
豊かな実を落とし、
葉も枯れて、
今は虚しさに耐えるときであったが、
それも二人を見ていると
自然の成りゆきに思われた。
どうかして人には命の終わりと闘うときがあって、
長い苦しみになることがあったが、
理野は何もなく終わるよりは
ましではないかという気がした。
理野の江戸での生活は3年で終わり、
故郷の松江に戻り、
一人だけの工房を建てて蒔絵に取り組む。
8年の歳月が経ち、
其一が旅の途中に立ち寄る。
彼女は独り言を言い、
歩き方にも現れる其一を確かめていた。
長い間、心の器に溜めてきた感情がついに溢れて、
はらはらと滴るようであった。
旅人を迎えるために彼女は立ってゆき、
玄関先に待ちながら、
そのときになって何と言おうかと思った。
お待ちしておりましたと言うには
長すぎる歳月を挟んでいたし、
よくいらっしゃいましたと言うには
すぐに先に別れの見えている再会であった。
懐かしさに吐息を交えて話しながら、
彼女は鮮明になってゆく昔へ還っていった。
こんな自然な形で其一と語らえるとは
正直思っていなかった。
彼はあったかもしれない青春の続きを温めてきたとみえて、
八年分老けた女を見ても驚かなかったが、
家庭という現実を持つ男にも
見飽きぬ夢があるのを彼女は忘れていた。
「月日が経つのは早い、
うかうかしていると
あれもこれも後ろへ流されてしまう、
抜け殻になりたくなかったら、
大切なものは取り戻さないといけない」
鈴木其一筆「藤花図」

鈴木其一筆「業平東下り図」

「十年か、
思い切り駆けても
何もしなくても
すぐに過ぎてしまいますね」
「突きつめると、
我々の仕事は
自分自身が客かもしれない、
自分で喜びを覚えるものほど
優れているし、
世間の批評も気にならない」
関連書籍↓

俵屋宗達から始まり、
本阿弥光悦、尾形光琳、
尾形乾山、野々村仁清らの作品や
酒井抱一による琳派再興、
明治のアール・ヌーボーまで
琳派の作品の系譜を概観出来る。
写真も満載。
東京芸術刊。

乙川優三郎が書く
江戸時代の女流蒔絵師の物語。
蒔絵(まきえ)は、漆工芸技法の一つ。
漆器の表面に漆で絵や文様、文字などを描き、
それが乾かないうちに
金や銀などの金属粉を「蒔く」ことで
器面に定着させる。





尾形光琳作「八橋蒔絵箱」(国宝)

西村松雲作「高台寺蒔絵中棗(なつめ)」

松江の蒔絵師の家に生まれた理野は
長兄が継いだ父の工房を後に
次兄の修行について江戸に向かう。
次兄は当代一流の蒔絵師原羊遊斎に弟子入りし、
二人は羊遊斎の妾の管理する寮に住み込む。
次兄は貪欲に学び、みるみる腕を磨いていくが、
根をつめたのがたたって亡くなってしまう。
一人残された理野は帰郷を勧められるが、
「兄の道具はわたくしも使えます。
どうか原先生の弟子にして下さい」と頼み込み、
弟子になる。
この江戸で修行する理野を縦糸に
江戸後期の二十代の女性の生き方を横糸に
物語は紡がれていく。
羊遊斎の妾で寮母の胡蝶、
天才肌で気難しいが女が魅せられる蒔絵師の祐吉、
兄弟子の金次郎、
好意を寄せる画家の鈴木其一
など多彩な人物が脇を固める。
江戸時代の実在の光琳派画家酒井抱一も出て来る。
原羊遊斎と鈴木其一も実在の人物である。
尾形光琳筆「燕子花図屏風」

酒井抱一筆「月に秋草鶉図屏風」

酒井抱一筆「桜に小禽図」

何よりも蒔絵や理野の担当する下絵の製作過程が詳細に描かれ、
これに関する蘊蓄も豊富で、
よくぞ蒔絵師でもない作者が
これほど蒔絵師の内面と美に入り込めるものだと感心する。
もちろん取材力によるものだが、
取材したものを再構築するのは想像力の賜物で、
小説家の頭の中をのぞいたみたくなる。
職人と芸術家であることの意味を問い、
あくなき美を探究する姿勢が
いつの時代にも通じるものとして感銘を与える。
そして、物語の端々に描かれる草花などの自然描写、
季節の描写も胸に染みる。
長い作品なのに、
似た表現や描写が一つもない。
人物を取り巻く状況を作者が
既に目にしているからに違いない。
「命は分からないものね、
若くして死ぬと残念だと言い、
お年寄りが安らかに終われば
長生きで幸せだったと言うけど、
それだけとは思えないし」
「兄はこれからでした。
あと十年もあれば
蒔絵師として大成していたでしょう」
「追うものがある人は八十でもあと十年の夢を見るものよ」
どうにか死別の哀しみを乗り越えて
蒔絵に集中しはじめたころ、
新しい下絵を見た胡蝶が、
「あら、花も笑うのね」
と言った。
この何気ない、
しかし的確を感想に
理野は目の覚める思いだした。
狭い根岸の里には
才能がひしめいていて、
絡み合い、
多彩な色模様を織り出している。
はじめ異質に感じた世界も、
正体が見えるにつれて
輝く一方になった。
同化するには
こちらも輝くしかないし、
残された居場所はそこにしかなかった。
「古いものにもよさはあると思います。
光琳から学ぶのもそういうことでしょうし、
中には追い越せないものもあります」
「そういうものは黙っていても残ります。
しかしそれでいいと思うのは、
先人の偉業に打たれ、
優れた先輩に私淑しながら
何もしないのと同じでしょう」
蒔絵師も大きな工房を持ち、
沢山の職人を抱えると、
時間の使い方も異なって来る。
羊遊斎の時間の大部分は、
来客の応対と
外部への営業となる。
そして、売れるものを中心とした
数物(量産物)に傾いていく。
原羊遊斎作・酒井抱一下絵「四季草花蒔絵茶箱」

そして、師の名前で代作をする虚しさと罪悪感を
理野は其一と共有する。
「ずっと不思議に思っていました、
落款が偽物なら贋作で、
落款が本物なら筆が偽物でも真作になります。
なぜこの楓の図は其一さまの落款ではいけないのでしょう、
上人さまの屏風でなければならないのなら、
上人さまが描くべきです」
「画業では弟子が師のかわりに描くことはよくあります。
特に無償で人に贈るものはそうです、
画料を得るものには約束の期日がありますし、
大作であれば数人の弟子の筆が入ることも珍しくはありません、
そうして完成したものが師の筆に比べて
著しく劣るなら問題ですが、
佳(よ)いものなら価直は変わりません、
それは世間が許しています」
「本当にそうでしょうか、
真実を知って落胆する人も多いはずです、
代作も真作とするなら、
偽作とはどういうものを言うのですか」
このあたり、
ルーベンスが工房を作って
画を量産したのにも通じる。
「これは自分のために描く、
いつかあなたが言ったように
画家は自分の内側から湧いてくるものに逆らってはいけない、
無理をしてもそういう時間(とき)を持たなければ
小器用な絵描きで終わってしまう」
「職人はみんなそうです、
身につけた技を磨いて生きてゆくしかありません、
あとに残るのは丹精して造ったものだけで
名前すら残りません」
「今のところ
あれが先生の頂点だろうか」
「あれ以上のものがあるか、
これから生まれるとしたら、
見なければなりません」
「自分で造ればいい、
いつまでも憧れていてもはじまらない」
祐吉のセリフ
「今は壁を感じる、
どうやら蒔絵に馴れすぎてしまっいたらしい、
思い切って何かを壊さないと駄目だろうな、
蒔絵は精進すれば
あるところまではゆく、
そこで躓く、
躓きを知らない職人は幸せだが成功もしない、
平凡な細工に満足して、
一生名品とは縁のない不幸な蒔絵師で終わる、
そうなりたくなかったら
大事なものを犠牲にしても挑むしかない、
後悔して苦しむ分だけ
蒔絵で取り返す、
そういうところまで来てしまったらしい」
亀田老人と婦人の華やかな季節は過ぎ去り、
豊かな実を落とし、
葉も枯れて、
今は虚しさに耐えるときであったが、
それも二人を見ていると
自然の成りゆきに思われた。
どうかして人には命の終わりと闘うときがあって、
長い苦しみになることがあったが、
理野は何もなく終わるよりは
ましではないかという気がした。
理野の江戸での生活は3年で終わり、
故郷の松江に戻り、
一人だけの工房を建てて蒔絵に取り組む。
8年の歳月が経ち、
其一が旅の途中に立ち寄る。
彼女は独り言を言い、
歩き方にも現れる其一を確かめていた。
長い間、心の器に溜めてきた感情がついに溢れて、
はらはらと滴るようであった。
旅人を迎えるために彼女は立ってゆき、
玄関先に待ちながら、
そのときになって何と言おうかと思った。
お待ちしておりましたと言うには
長すぎる歳月を挟んでいたし、
よくいらっしゃいましたと言うには
すぐに先に別れの見えている再会であった。
懐かしさに吐息を交えて話しながら、
彼女は鮮明になってゆく昔へ還っていった。
こんな自然な形で其一と語らえるとは
正直思っていなかった。
彼はあったかもしれない青春の続きを温めてきたとみえて、
八年分老けた女を見ても驚かなかったが、
家庭という現実を持つ男にも
見飽きぬ夢があるのを彼女は忘れていた。
「月日が経つのは早い、
うかうかしていると
あれもこれも後ろへ流されてしまう、
抜け殻になりたくなかったら、
大切なものは取り戻さないといけない」
鈴木其一筆「藤花図」

鈴木其一筆「業平東下り図」

「十年か、
思い切り駆けても
何もしなくても
すぐに過ぎてしまいますね」
「突きつめると、
我々の仕事は
自分自身が客かもしれない、
自分で喜びを覚えるものほど
優れているし、
世間の批評も気にならない」
関連書籍↓

俵屋宗達から始まり、
本阿弥光悦、尾形光琳、
尾形乾山、野々村仁清らの作品や
酒井抱一による琳派再興、
明治のアール・ヌーボーまで
琳派の作品の系譜を概観出来る。
写真も満載。
東京芸術刊。
『誰よりも狙われた男』 映画関係
〔映画紹介〕

ドイツのハンブルグ。
一人の青年が密入国を果たす。
青年の名前はイッサ・カルポフ。
チェチェン人で、テロリストとして国際指名手配をされている。

映像解析でその入国をキャッチしたテロ諜報チーム。
そのリーダーのギュンター・バッハマンは、
イッサの拘束を迫る上部組織やCIAに対し、
すぐには逮捕せず、
イッサを泳がせることを主張する。
イッサの動向を通じて、
更なる大物を逮捕したいというのだ。
トルコ人の家庭に匿われたイッサは、
やがて祖国喪失者支援団体の弁護士アナベル・リヒターの庇護を受け、
銀行の経営者トミー・ブルーと接触する。

ブルーの銀行には、
イッサの父親でロシア軍幹部だった男の秘密口座が存在していた。
イッサが父の遺産を嫌悪し、
それをチェチェンの支援団体などに寄付しようとしていることを察知した
バッハマンはアナベルとブルーを籠絡し、
テロ組織への資金源となっているイスラム学者、
ファイサル・アブドゥラ博士をはめようとするが・・・
舞台となるハンブルグは、
9・11実行犯の潜伏先。
テロの兆候に気づくことができなかったトラウマが、
ドイツにおける諜報活動のポリシーを変えてしまった
いわく付きの町だ。
その町に潜入したテロリストを巡って、
ドイツ当局とバッハマンとの確執が
CIAを巻き込んで展開される。
ハンブルグの陰鬱な雰囲気が
作品によく反映されている。
特に後半、
アナベルを拉致し、
狡猾な説得で取り込んでからのバッハマンの組織の活動がスリリングだ。
イッサの潜伏先に盗聴カメラを取り付けて四六時中監視。
ブルーと博士の接触を万年筆型マイクで盗聴し、
送金の様子を隠しカメラで見守る。

スパイ活動の最先端はこういうものかと感心させられる。
バッハマンの手法は、
いたずらに逮捕せず、
自分の陣営に引きずり込み、活用しようとするのだが、
その手法が必ずしも受け入れられない。
カーチェイスや銃撃戦などという派手な見せ場はないが、
現代の諜報活動が、圧倒的なリアリティを持って描かれる。
それは、まさに高度な心理戦なのだ。
しかし、何といってもこの映画を支えているのは、
バッハマンを演ずるフィリップ・シーモア・ホフマンの存在感だろう。

かつて部下を死なせた失敗のトラウマを抱え、
自分自身を存在しないものとせざるをえない
諜報組織のリーダーをホフマンが哀愁を持って演ずる。
常にタバコを吹かせ、
出っ張った腹からズボンがずり落ちそうになるようなカッコ悪さが、
魅力的に見えるから不思議だ。
ラストのホフマンの咆哮は切ない。

原作よりバッハマンの存在が大きくなっており、
それもこれもホフマンの演技の賜物で、
ホフマン最後の主演作品として、花道的な作品だと思う。
人権派弁護士のレイチェル・マクアダムスは、
「アバウト・タイム」とは全く違う役どころを演じ、まるで別人。
実力をうかがわせる。
そして銀行家ブルーにウィレム・デフォー。

CIAの調査役にロビン・ライト。
バッハマンの部下イルナにニーナ・ホス。

アブドゥラ博士にホマユン・エルシャディ。
イッサにグレゴリー・ドブリギン。

特にドブリギンの演技は、
ロシア人の父とチェチェン人の母を持ち、
拷問のトラウマを抱える内向的な青年を演じて出色。
渋い配役と共に、
全員がこぞって好演。
良い映画が出来る時の化学反応を感じさせる。
ジョン・ル・カレによる小説の映画化。

夾雑物を外し、バッハマン中心に組み立て直した
好脚色はアンドリュー・ボーヴェル。
監督はアントン・コービン。
スパイ・サスペンスに新風を吹き込む見応えある作品である。
5段階評価の「4.5」。
予告編は、↓をクリック。
http://www.youtube.com/watch?v=pjJV-DDnTwY&feature=player_embedded

ドイツのハンブルグ。
一人の青年が密入国を果たす。
青年の名前はイッサ・カルポフ。
チェチェン人で、テロリストとして国際指名手配をされている。

映像解析でその入国をキャッチしたテロ諜報チーム。
そのリーダーのギュンター・バッハマンは、
イッサの拘束を迫る上部組織やCIAに対し、
すぐには逮捕せず、
イッサを泳がせることを主張する。
イッサの動向を通じて、
更なる大物を逮捕したいというのだ。
トルコ人の家庭に匿われたイッサは、
やがて祖国喪失者支援団体の弁護士アナベル・リヒターの庇護を受け、
銀行の経営者トミー・ブルーと接触する。

ブルーの銀行には、
イッサの父親でロシア軍幹部だった男の秘密口座が存在していた。
イッサが父の遺産を嫌悪し、
それをチェチェンの支援団体などに寄付しようとしていることを察知した
バッハマンはアナベルとブルーを籠絡し、
テロ組織への資金源となっているイスラム学者、
ファイサル・アブドゥラ博士をはめようとするが・・・
舞台となるハンブルグは、
9・11実行犯の潜伏先。
テロの兆候に気づくことができなかったトラウマが、
ドイツにおける諜報活動のポリシーを変えてしまった
いわく付きの町だ。
その町に潜入したテロリストを巡って、
ドイツ当局とバッハマンとの確執が
CIAを巻き込んで展開される。
ハンブルグの陰鬱な雰囲気が
作品によく反映されている。
特に後半、
アナベルを拉致し、
狡猾な説得で取り込んでからのバッハマンの組織の活動がスリリングだ。
イッサの潜伏先に盗聴カメラを取り付けて四六時中監視。
ブルーと博士の接触を万年筆型マイクで盗聴し、
送金の様子を隠しカメラで見守る。

スパイ活動の最先端はこういうものかと感心させられる。
バッハマンの手法は、
いたずらに逮捕せず、
自分の陣営に引きずり込み、活用しようとするのだが、
その手法が必ずしも受け入れられない。
カーチェイスや銃撃戦などという派手な見せ場はないが、
現代の諜報活動が、圧倒的なリアリティを持って描かれる。
それは、まさに高度な心理戦なのだ。
しかし、何といってもこの映画を支えているのは、
バッハマンを演ずるフィリップ・シーモア・ホフマンの存在感だろう。

かつて部下を死なせた失敗のトラウマを抱え、
自分自身を存在しないものとせざるをえない
諜報組織のリーダーをホフマンが哀愁を持って演ずる。
常にタバコを吹かせ、
出っ張った腹からズボンがずり落ちそうになるようなカッコ悪さが、
魅力的に見えるから不思議だ。
ラストのホフマンの咆哮は切ない。

原作よりバッハマンの存在が大きくなっており、
それもこれもホフマンの演技の賜物で、
ホフマン最後の主演作品として、花道的な作品だと思う。
人権派弁護士のレイチェル・マクアダムスは、
「アバウト・タイム」とは全く違う役どころを演じ、まるで別人。
実力をうかがわせる。
そして銀行家ブルーにウィレム・デフォー。

CIAの調査役にロビン・ライト。
バッハマンの部下イルナにニーナ・ホス。

アブドゥラ博士にホマユン・エルシャディ。
イッサにグレゴリー・ドブリギン。

特にドブリギンの演技は、
ロシア人の父とチェチェン人の母を持ち、
拷問のトラウマを抱える内向的な青年を演じて出色。
渋い配役と共に、
全員がこぞって好演。
良い映画が出来る時の化学反応を感じさせる。
ジョン・ル・カレによる小説の映画化。

夾雑物を外し、バッハマン中心に組み立て直した
好脚色はアンドリュー・ボーヴェル。
監督はアントン・コービン。
スパイ・サスペンスに新風を吹き込む見応えある作品である。
5段階評価の「4.5」。
予告編は、↓をクリック。
http://www.youtube.com/watch?v=pjJV-DDnTwY&feature=player_embedded
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ルーマニア・ブルガリアの旅・そのBシギショアラ 旅行関係
ルーマニアの大地をバスは走ります。

時々町を通過します。

赤い屋根が可愛い。

遠くに城が見えます。

ブラショフから120q走って、
シギショアラの町に着きました。

シギショアラは城塞都市。
門が迎えます。

ギルド(職人組合)が建てたもので、
これは洋服屋のギルドの建設。

1191年にハンガリーのクラウス王の命で、
ザクセン人が入植したことから町が始まりました。

それで、シェースブルクというドイツ名も持っています。

15〜16世紀の繁栄の絶頂期には、
15のギルドがあったといいます。

シギショアラの旧市街は、
世界遺産に指定されています。

トランシルヴァニア地方の中心に存在します。

この教会は、内部撮影が可能。

正教会でないからでしょうか。

正教会系は撮影不可が多く、

内心「ケチ」とつぶやいていました。

ここは、町の広場。




これもドラキュラ。

なぜ日本刀?

花嫁、発見!


町のシンボル、時計塔。

高さ60m。
14世紀に、シギショアラが
商工ギルドによる自治都市になったのを記念して建てられました。
1670年に大火で焼失したのを再建したもの。

からくり時計になっており、
毎正時に人形が動きます。

今は歴史博物館になっています。
ここは、ヴラド・ドラクルの家。

ドラキュラのモデルとなった
ヴラド・ツェペシュの父、
ヴラド・ドラクルが
1431〜35年の4年間、
ハンガリー王によって幽閉されていた家。
今はレストランになっており、

通称ドラキュラ・レストラン。

内部は、それらしい装飾がなされています。





このレストランで昼食。


血の色をした、トマトのスープ。

メインも、なんとなく赤い。


実は、ドラキュラのモデルとなった
ヴラド・ツェペシュの生家でもあり、
上階に「ドラキュラの生まれた部屋」というのがあります。

5レイ払って入ってみると、
怪しげな音楽と照明で、
ドラキュラが棺の中に寝ています。

と、突然、ドラキュラが起き上がります。

後ろから一人のおじさんが
娘の肩を掴みます。
娘は「ギャー!」と絶叫。
そういえば、お金を受け取ったおじさんが、
「ちょっと待って」と言って、
中に入り、しばらくしてから
「どうぞ」と招き入れましたが、
あれは、
「今から客が来るぞ、寝てろ、寝てろ」
とやっていたに違いありません。
隣の部屋には、それなりの装飾が。






誰も客が来ない日は、
このおじさんは、何をしているのでしょうか。

もう一つの名所、山上教会は、
自由時間に行ってくれ、との扱い。

行くには、
この階段を173段上がらないとなりません。


上がってからの景色。

これが、その山上教会。
14世紀の建物です。

有料なのに、撮影不可。
しゃくだから、1枚撮りました。

後ろから。

牧師館?

お墓がありました。



降りるのも、この階段。

何だか地獄に落ちるよう。

丘の上からシギショアラの町をのぞみます。




ここにもドラキュラ像?

午後は、ビェルタンの要塞教会に向かいます。

時々町を通過します。

赤い屋根が可愛い。

遠くに城が見えます。

ブラショフから120q走って、
シギショアラの町に着きました。

シギショアラは城塞都市。
門が迎えます。

ギルド(職人組合)が建てたもので、
これは洋服屋のギルドの建設。

1191年にハンガリーのクラウス王の命で、
ザクセン人が入植したことから町が始まりました。

それで、シェースブルクというドイツ名も持っています。

15〜16世紀の繁栄の絶頂期には、
15のギルドがあったといいます。

シギショアラの旧市街は、
世界遺産に指定されています。

トランシルヴァニア地方の中心に存在します。

この教会は、内部撮影が可能。

正教会でないからでしょうか。

正教会系は撮影不可が多く、

内心「ケチ」とつぶやいていました。

ここは、町の広場。




これもドラキュラ。

なぜ日本刀?

花嫁、発見!


町のシンボル、時計塔。

高さ60m。
14世紀に、シギショアラが
商工ギルドによる自治都市になったのを記念して建てられました。
1670年に大火で焼失したのを再建したもの。

からくり時計になっており、
毎正時に人形が動きます。

今は歴史博物館になっています。
ここは、ヴラド・ドラクルの家。

ドラキュラのモデルとなった
ヴラド・ツェペシュの父、
ヴラド・ドラクルが
1431〜35年の4年間、
ハンガリー王によって幽閉されていた家。
今はレストランになっており、

通称ドラキュラ・レストラン。

内部は、それらしい装飾がなされています。





このレストランで昼食。


血の色をした、トマトのスープ。

メインも、なんとなく赤い。


実は、ドラキュラのモデルとなった
ヴラド・ツェペシュの生家でもあり、
上階に「ドラキュラの生まれた部屋」というのがあります。

5レイ払って入ってみると、
怪しげな音楽と照明で、
ドラキュラが棺の中に寝ています。

と、突然、ドラキュラが起き上がります。

後ろから一人のおじさんが
娘の肩を掴みます。
娘は「ギャー!」と絶叫。
そういえば、お金を受け取ったおじさんが、
「ちょっと待って」と言って、
中に入り、しばらくしてから
「どうぞ」と招き入れましたが、
あれは、
「今から客が来るぞ、寝てろ、寝てろ」
とやっていたに違いありません。
隣の部屋には、それなりの装飾が。






誰も客が来ない日は、
このおじさんは、何をしているのでしょうか。

もう一つの名所、山上教会は、
自由時間に行ってくれ、との扱い。

行くには、
この階段を173段上がらないとなりません。


上がってからの景色。

これが、その山上教会。
14世紀の建物です。

有料なのに、撮影不可。
しゃくだから、1枚撮りました。

後ろから。

牧師館?

お墓がありました。



降りるのも、この階段。

何だか地獄に落ちるよう。

丘の上からシギショアラの町をのぞみます。




ここにもドラキュラ像?

午後は、ビェルタンの要塞教会に向かいます。
『男ともだち』 書籍関係
↓は、
「不正解だけども
才能を感じる
テストでの
珍回答24選」。
http://fundo.jp/10046
笑えますので、お読み下さい。
〔書籍紹介〕

神名(カンナ)葵は、
プロを目指すイラストレーターで、
最近は仕事が増えている。
5年前から彰人という男と同棲生活をしているが、
既に「同居人」となり、
一方で、医者の真司と浮気している。
真司は妻子のいる鼻持ちならない人物。
学生時代のサークルで一緒だった
長谷雄(ハセオ)と連絡を取り合っているが、
肉体関係はなく、
ただ、神名のことを一番良く知ってくれている「男ともだち」だ。
大晦日と元旦もハヤオと共に富山で過ごしたが、
何事も起きない。
だが、一緒にいるだけで癒される。
こうした人間関係の中での神名の日常を描く。
ちなみに、神名も長谷雄も苗字である。
小説家としての才気は感じるが、
私はこういう若い女性の恋愛ごっこには関心がないので、
「とうでもいい」小説に思える。
先の直木賞候補作でなかったら、
途中で放り出していただろう。
そこで、今回は、
直木賞選考委員の感想を列挙して
お茶をにごすことにしますので、勘弁。
浅田次郎
「一人称で人間関係を描くことは難しいのだが、
視点を変えずに三人の男性との関係を書き切ったのは、
力のある証拠であろう。
しかし、この作品でよかろうと思いつつ、
どうしても最終章のまとめ方に納得がゆかなかった」
東野圭吾
「まず、この題名で小説を書こうとした度胸に
拍手を送りたい。
ただしハセオという人物には、
やや魅力が足りなかったように思う」
「作者は自分なりに、懸命に考察を続けたのだと思う。
とうとう答えを出せずに幕を閉じた印象だが、
この挑戦には意味がある」
宮部みゆき
「(引用者注:「ミッドナイト・バス」「本屋さんのダイアナ」と共に)
もっとびっくりさせてほしかったと願うのは、
作品世界を壊してしまうリスクをとれと要求することであり、
そんな冒険は読者にも歓迎されないかもしれません。
でも、私は読んでみたかった」
桐野夏生
「同棲相手、不倫相手、
そして肉体関係はないけれども魂が呼応する相手。
書き分けながら、
肉体関係によって失われるものは何か、と考えている。
だが、魂が呼応する相手ハセオだけはリアリティがない」
「自分たち世代の恋愛と性を書こうとする真摯な姿勢に好感が持てる」
北方謙三
「「私」やハセオの、ほかの異性関係は、
情事であって恋愛ではない。
二人とも、汚れても、
決してほんとうには汚れないなにかを、
大事に守っているのではないのか。
そう読めば、現代に成立し得た、
稀な純愛小説である」
高村薫
「評者はもとより本作を女性の妄想
――こんな男がいたらいいのに――
の物語として読んだが、
妄想を抱く身体のリアリティが、
いかにもというステレオタイプに留まっており、
登場する男たちに小説的な魅力がない」
林真理子
「頭で書いた印象がぬぐえない」
「この男友だちのくだらなさにまるで共感出来ない。
若い女の子と適当に遊ぶ医者は、
イヤらしいリアリティに溢れているのに、
肝心の男友だちはつまらない絵空ごとのようなのである」
伊集院静
「新しい小説に挑戦する作者の意欲を感じた。
登場人物が都合良過ぎるのではという
他選考委員の声があったが、
私はそれは作者の意図の中にあるのではと捉えた」
「不正解だけども
才能を感じる
テストでの
珍回答24選」。
http://fundo.jp/10046
笑えますので、お読み下さい。
〔書籍紹介〕

神名(カンナ)葵は、
プロを目指すイラストレーターで、
最近は仕事が増えている。
5年前から彰人という男と同棲生活をしているが、
既に「同居人」となり、
一方で、医者の真司と浮気している。
真司は妻子のいる鼻持ちならない人物。
学生時代のサークルで一緒だった
長谷雄(ハセオ)と連絡を取り合っているが、
肉体関係はなく、
ただ、神名のことを一番良く知ってくれている「男ともだち」だ。
大晦日と元旦もハヤオと共に富山で過ごしたが、
何事も起きない。
だが、一緒にいるだけで癒される。
こうした人間関係の中での神名の日常を描く。
ちなみに、神名も長谷雄も苗字である。
小説家としての才気は感じるが、
私はこういう若い女性の恋愛ごっこには関心がないので、
「とうでもいい」小説に思える。
先の直木賞候補作でなかったら、
途中で放り出していただろう。
そこで、今回は、
直木賞選考委員の感想を列挙して
お茶をにごすことにしますので、勘弁。
浅田次郎
「一人称で人間関係を描くことは難しいのだが、
視点を変えずに三人の男性との関係を書き切ったのは、
力のある証拠であろう。
しかし、この作品でよかろうと思いつつ、
どうしても最終章のまとめ方に納得がゆかなかった」
東野圭吾
「まず、この題名で小説を書こうとした度胸に
拍手を送りたい。
ただしハセオという人物には、
やや魅力が足りなかったように思う」
「作者は自分なりに、懸命に考察を続けたのだと思う。
とうとう答えを出せずに幕を閉じた印象だが、
この挑戦には意味がある」
宮部みゆき
「(引用者注:「ミッドナイト・バス」「本屋さんのダイアナ」と共に)
もっとびっくりさせてほしかったと願うのは、
作品世界を壊してしまうリスクをとれと要求することであり、
そんな冒険は読者にも歓迎されないかもしれません。
でも、私は読んでみたかった」
桐野夏生
「同棲相手、不倫相手、
そして肉体関係はないけれども魂が呼応する相手。
書き分けながら、
肉体関係によって失われるものは何か、と考えている。
だが、魂が呼応する相手ハセオだけはリアリティがない」
「自分たち世代の恋愛と性を書こうとする真摯な姿勢に好感が持てる」
北方謙三
「「私」やハセオの、ほかの異性関係は、
情事であって恋愛ではない。
二人とも、汚れても、
決してほんとうには汚れないなにかを、
大事に守っているのではないのか。
そう読めば、現代に成立し得た、
稀な純愛小説である」
高村薫
「評者はもとより本作を女性の妄想
――こんな男がいたらいいのに――
の物語として読んだが、
妄想を抱く身体のリアリティが、
いかにもというステレオタイプに留まっており、
登場する男たちに小説的な魅力がない」
林真理子
「頭で書いた印象がぬぐえない」
「この男友だちのくだらなさにまるで共感出来ない。
若い女の子と適当に遊ぶ医者は、
イヤらしいリアリティに溢れているのに、
肝心の男友だちはつまらない絵空ごとのようなのである」
伊集院静
「新しい小説に挑戦する作者の意欲を感じた。
登場人物が都合良過ぎるのではという
他選考委員の声があったが、
私はそれは作者の意図の中にあるのではと捉えた」
『グレース・オブ・モナコ』 映画関係
〔映画紹介〕

ハリウッドのトップ女優で、
モナコ公妃として嫁いだグレース・ケリー。
女優としての頂点を究めた
鮮やかな引退劇だった。

それから6年。
モナコ公室になじめず、
元女優ということで周囲から軽んじられ、
政治的発言は夫によって封じられ、
自分の居場所を探して苦しんでいた。

そんなグレースをかつて「裏窓」で監督をつとめた
アルフレッド・ヒッチコックが訪れ、
新作「マーニー」への出演を打診する。
再び女優としてハリウッドに戻るべきか迷うグレース。
しかし、それは
公妃という立場から逃げ去ることを意味していた。
そんな時、モナコは
大国フランスの圧力により
独立国家としての存続の危機に陥っていた。
フランスがアルジェリアでの戦費調達のため、
無税のモナコに移転している企業への課税を求め、
それをフランスに納税するように求めて来たのだ。
フランスに制裁されれば、
電気水道ガスのライフラインをはじめ、
軍隊までもフランスに依存するモナコは国として立ち行かない。
モナコをフランス領にすることも辞さない大国の強行姿勢に、
小国モナコは震える。
その状況の中、
モナコが持つ「武器」として、
グレースの存在がクローズアップされる。
その「武器」=グレースを使った起死回生の策として、
モナコに各国の元首級を招待して赤十字の舞踏会が開催される。
そこでグレースは国を救う大演説をするのだが・・・

モナコと言えば、
ヴァチカンに続く、
世界第2位のミニ国家。


大国の横暴の前に風前の灯火だったのを、
女優出身のグレース・ケリーが一世一代の大芝居を打つ、
というシチュエーションが映画的。
一人の女性が
使命に目覚め、
元首夫人として国を救う、
という自分にしかできない「役」を演ずるというのだから、
俳優から公妃に転身した女性としては
この上ない光栄な立場だろう。
ヒチコックの要請を受けてハリウッドに戻れば、
そこに自分の居場所はある。
かつて栄光に包まれた世界だ。
彼女は戻ることを考え、
一人で「マーニー」の台詞の練習をするほどの力の入れようだ。
同じセリフをパターンを変えて演じるところに、
俳優の役作りがうかがえて興味深い。
しかし、モナコの窮状は現実の問題だ。
グレースの相談役で後見人のタッカー神父は
「人生最高の役を演じるためにモナコに来たはずだ」
と彼女を諭す。
こうして、国の行く末を愁いたグレースは、
女優復帰の夢を捨て、
「国の母」となることを選ぶ。
歴史的事実としては「?」を付けられる内容らしいが、
一般女性から貴族の仲間入りした女性を巡るフィクションと見れば、
大変面白い内容だ。
ダイアナ妃、雅子妃を彷彿とさせる。
二人とも「落第」だが、
この映画のグレースは「合格」となる。
グレース・ケリーを演ずるのは、
今ハリウッドでこの役を演ずることの出来るのは、
この人しかいない、
と目されるニコール・キッドマン。
よく考えるとグレース・ケリーとはキャラクターが違うのだが、
渾身の演技でグレースになりきる。
特殊な立場に置かれた女性が
一人の人間として悩み、
磨かれ、強くなる人間像がよく演じられている。
始めの頃精彩がないのに、
自分の使命に目覚めてからは、
ぐんぐん輝きを増し、
最後は神々しいまでの光を放つ。
夫のモナコ大公レーニエ3世をティム・ロス、

タッカー神父をフランク・ランジェラが演ずる。
他に海運王オナシス、フランス大統領ド・ゴール、
歌手のマリア・カラス、ヒッチコックなどの有名人が実名で登場する。
ただ、最後の演説は
期待したほどの盛り上がりは見せない。
こちらとしては、
チャップリンの「独裁者」級の大演説を期待したのだが。
5段階評価の「4.5」。
予告編は、↓をクリック。
http://www.youtube.com/watch?v=nfpwL8NEhR4&feature=player_embedded
背景に流れ、
本編でもマリア・カラスによって歌われた歌は、
プッチーニの短編オペラ「ジャンニ・スキッキ」の中の有名なアリア
「私のお父さん」。
↓は、私が「切手少年」だった昭和30年代前半のコレクションから。

押し入れの中から引っ張りだしてスキャン。
なお、切手少年だった時代のことは、
ブログ↓「押し入れの中の秘宝」を参照。
http://star.ap.teacup.com/applet/shokuniku/20100410/archive

ハリウッドのトップ女優で、
モナコ公妃として嫁いだグレース・ケリー。
女優としての頂点を究めた
鮮やかな引退劇だった。

それから6年。
モナコ公室になじめず、
元女優ということで周囲から軽んじられ、
政治的発言は夫によって封じられ、
自分の居場所を探して苦しんでいた。

そんなグレースをかつて「裏窓」で監督をつとめた
アルフレッド・ヒッチコックが訪れ、
新作「マーニー」への出演を打診する。
再び女優としてハリウッドに戻るべきか迷うグレース。
しかし、それは
公妃という立場から逃げ去ることを意味していた。
そんな時、モナコは
大国フランスの圧力により
独立国家としての存続の危機に陥っていた。
フランスがアルジェリアでの戦費調達のため、
無税のモナコに移転している企業への課税を求め、
それをフランスに納税するように求めて来たのだ。
フランスに制裁されれば、
電気水道ガスのライフラインをはじめ、
軍隊までもフランスに依存するモナコは国として立ち行かない。
モナコをフランス領にすることも辞さない大国の強行姿勢に、
小国モナコは震える。
その状況の中、
モナコが持つ「武器」として、
グレースの存在がクローズアップされる。
その「武器」=グレースを使った起死回生の策として、
モナコに各国の元首級を招待して赤十字の舞踏会が開催される。
そこでグレースは国を救う大演説をするのだが・・・

モナコと言えば、
ヴァチカンに続く、
世界第2位のミニ国家。


大国の横暴の前に風前の灯火だったのを、
女優出身のグレース・ケリーが一世一代の大芝居を打つ、
というシチュエーションが映画的。
一人の女性が
使命に目覚め、
元首夫人として国を救う、
という自分にしかできない「役」を演ずるというのだから、
俳優から公妃に転身した女性としては
この上ない光栄な立場だろう。
ヒチコックの要請を受けてハリウッドに戻れば、
そこに自分の居場所はある。
かつて栄光に包まれた世界だ。
彼女は戻ることを考え、
一人で「マーニー」の台詞の練習をするほどの力の入れようだ。
同じセリフをパターンを変えて演じるところに、
俳優の役作りがうかがえて興味深い。
しかし、モナコの窮状は現実の問題だ。
グレースの相談役で後見人のタッカー神父は
「人生最高の役を演じるためにモナコに来たはずだ」
と彼女を諭す。
こうして、国の行く末を愁いたグレースは、
女優復帰の夢を捨て、
「国の母」となることを選ぶ。
歴史的事実としては「?」を付けられる内容らしいが、
一般女性から貴族の仲間入りした女性を巡るフィクションと見れば、
大変面白い内容だ。
ダイアナ妃、雅子妃を彷彿とさせる。
二人とも「落第」だが、
この映画のグレースは「合格」となる。
グレース・ケリーを演ずるのは、
今ハリウッドでこの役を演ずることの出来るのは、
この人しかいない、
と目されるニコール・キッドマン。
よく考えるとグレース・ケリーとはキャラクターが違うのだが、
渾身の演技でグレースになりきる。
特殊な立場に置かれた女性が
一人の人間として悩み、
磨かれ、強くなる人間像がよく演じられている。
始めの頃精彩がないのに、
自分の使命に目覚めてからは、
ぐんぐん輝きを増し、
最後は神々しいまでの光を放つ。
夫のモナコ大公レーニエ3世をティム・ロス、

タッカー神父をフランク・ランジェラが演ずる。
他に海運王オナシス、フランス大統領ド・ゴール、
歌手のマリア・カラス、ヒッチコックなどの有名人が実名で登場する。
ただ、最後の演説は
期待したほどの盛り上がりは見せない。
こちらとしては、
チャップリンの「独裁者」級の大演説を期待したのだが。
5段階評価の「4.5」。
予告編は、↓をクリック。
http://www.youtube.com/watch?v=nfpwL8NEhR4&feature=player_embedded
背景に流れ、
本編でもマリア・カラスによって歌われた歌は、
プッチーニの短編オペラ「ジャンニ・スキッキ」の中の有名なアリア
「私のお父さん」。
↓は、私が「切手少年」だった昭和30年代前半のコレクションから。

押し入れの中から引っ張りだしてスキャン。
なお、切手少年だった時代のことは、
ブログ↓「押し入れの中の秘宝」を参照。
http://star.ap.teacup.com/applet/shokuniku/20100410/archive
タグ: 映画