『122対0の青春』  書籍関係

〔書籍紹介〕

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先日、高校野球のコールドゲームについて書き↓、

http://star.ap.teacup.com/applet/shokuniku/20140728/archive

規約制定の契機となった
122対0の試合のことに触れたが、
本書は、その試合を巡るドキュメントである。

冒頭に青森県の地図が載っているが、
その地図で見ると、
深浦高校のある深浦町は、
青森県の西海岸にある。

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第1章は、
1998年7月18日、
青森市の県営球場での
東奥義塾深浦高校との
歴史に残る122対0の試合を記録する。

東奥義塾が甲子園にも行ったことのある名門校であったのに対し、
深浦高校は部員が10名しかおらず、
そのうち野球経験者は4名、
それも「経験がある」程度の弱小チームだった。
そもそも深浦高校は普通科、商業科1クラスずつの小規模な学校で、
98年当時の在校生は
3学年合わせて143人しかいなかった。

やる前から実力差がはっきりとした対戦で、
東奥義塾は初回で39点を取る。
普通、このような一方的な試合になった場合、
攻撃側はバント作戦に転じて、
アウトカウントを増やし、
かつ次の試合に備えて戦力を温存したり、
控えの選手を投入するものだが、
「どんな相手にも全力で当たる」
という東奥義塾の監督の方針で、
2回目以降も攻撃の手を休めず、
10点を追加。
その後も3回11点、4回17点、5回16点で、
5回までに93対0という大差がついた。

当時、青森県のコールドゲームの規程では
7回までは試合は継続することになっていた。
5回、グラウンド整備の一時中断の間、
深浦高校の監督の工藤と部長の畠山が相談する。
そして、選手たちに問いかける。
「ここで試合をやめるということもできる。
やるか、やめるか、おれにまかせるか、
この三つから選んでくれ」
工藤の腹づもりでは「試合放棄」と決まっての問いである。
ただ、押しつけることはできない。
おそらく生徒は監督に任せるだろうと内心思い、
それを受けて結論とするつもりだった。
大部分の生徒が黙っているか「まかせる」という回答の中、
三年の佐藤勝敏がポツリと言う。
「やめてもいいんだばって、
ここまで応援してくれる人いたしなー、
このままつづけたほうがいいべ」
こうして試合続行の雰囲気が出来、
それでも決断できないでいる時、
球審の神(じん)洋司が駆け寄った。
「さ、いきましょう」

審判として試合をスムーズに進行させることを
第一に考える神が深浦ベンチに声をかける。
謙介は、てっきり審判が
「試合をつづけるかやめるか、どうしますか」
ときいてくるものと思っていたので一瞬意外な気がした。
ワンサイドのゲームであっても、
先入観をもってプレーをみたり点差を意識しない。
試合中はあくまで流れにそって
試合をスムーズに進行させることだけを考える。
終わってみてはじめて結果を確認する。
これが審判のあり方だと神はいう。
この元気づけるような呼びかけに、
選手たちは腰を浮かせてグラブを探しはじめた。

試合を放棄すれば、
没収試合となり、
記録は「9対0」がつく。
100点差の試合は記録されない。
しかし、選手たちと審判が共鳴して、
試合は継続する。

守備につく深浦ナインがグラウンドに散らばっていくと、
スタンド全体から
いままでにない大きな拍手と
「がんばれ!」という声が響いた。
敵も味方もない、
スタンドの反応だった。

試合は続行し、
東奥義塾は6回12点、7回17点と点を重ね、
7回浦の深浦高校の攻撃が終わった時点で、
122対0という歴史的な点差の試合となったのである。

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東奥義塾は打者149人、86安打、四死球36、
本塁打7、三塁打21、二塁打31、盗塁78、三振1。
ヒット数86で得点122というのは、
四球とエラーでの得点が多かったため。
対する深浦は打者25人でヒットゼロ。
アウト25のうち三振は16だった。
東奥義塾の主砲の珍田はダイヤモンドを約14周、
距離にして1.5q走ったことになる。

深浦の選手たちは、
ともかく試合が終わったことでほっとしていた。
もっと練習しておけばよかった、
と思ったのは一年の辰輝だ。
しかし、だれひとりとして泣いたものはいない。
涙を流したのは、
なにもできなかったことへの口惜しさを噛みしめていた
監督の工藤だけだった。
野球を知っていればこその涙である。
選手たちは、
悔しさを感ずるほどの実力もなければ、
報われないことを悔やむ努力や鍛練もまだ経験していなかった。
試合直後はそれほど落ち込むことはなかった。

という反応も面白い。

第2章では翌日の新聞での報道以降の反応を描く。
スポーツ新聞の翌日のトップを飾るネタはあったのに、
サイケイスポーツと日刊スポーツの一面は
この「122対0」の試合だった。
テレビは新聞より一足早く、
試合当日からこの結果を報道した。
青森県の過疎の町の高校が注目を浴び、
報道が加熱した。
「最後まで投げずによく頑張った」
という意見と反対に
「そんなに弱いなら試合に出るのは失礼だ」
という意見もあった。
このことについては、
同じ青森出身の甲子園のヒーロー太田幸司のコメントが正論をあらわしている。

「(深浦の選手は)122対0で負けてよかったと思う。
今の教育はなんでも平等で、
運動会でも順位をつけなかったりするけど、
そういうことがかわいそうだというのはおかしい。
彼らが晒し者になるという考えは
大人の悪いところですよ」

第3章は、
過疎の町深浦に県立高校が出来た経緯と
野球部創設の経緯、
さらに前任者から引き継いだ工藤慶憲が
足りない部員を勧誘し、
基礎から教え込む苦労が描かれる。
そして成長の途上で東奥義塾と対戦して
記録に残る大敗を喫した後も
やめることなく野球部員の指導に当たり、
次第に力をつけていく過程が描かれる。
しかし、練習試合でも勝てず、
本大会ではくじ運が悪く強豪とばかり当たって
初勝利が獲得できないくて苦労した。

感動的なのは、
あの試合に出た選手が誰一人野球をやめることなく
卒業まで野球を続けたことである。
卒業を前にして、
三年生の部員が口々にいうことは、
「仲間がよかった」
あるいは
「工藤さんだったから」
続けてきたということだったという。

誰一人野球をやめなかった、ということで救われた人がいる。
東奥義塾の小笠原監督である。

試合から2年余を経たとき、
当時の深浦高校の選手のその後を知って
肩の荷が下りた気がした。
「あれで、深浦の子が野球をやめてたら、
おれはまちがったことをしたのかなーって、
思ったろうな」

それは工藤監督も同じで、

「あのころは、
もし自分が東奥義塾の側だったら、
9点、10点とったあたりで
試合を早く終わらせようとしただろうって思ったけれど、
いまだったら全力でいくでしょう。
というのは、
そうしても相手は大丈夫だということを
自分たちが身をもってわかりましたから」

第4章は、その後の深浦高校野球部の成長と
選手たちのその後が描かれる。
勝てないままに選手たちは卒業し、
あの「122対0」の試合の経験者は工藤監督だけになり、
その工藤監督も他校に異動し、
新監督になった2002年春、
公式戦で初勝利をおさめる。
「122対0」の試合から3年9カ月が経っていた。

そして、選手たちのその後も描かれる。
ある者は寿司の修行で東京へ
ある者は大学進学で秋田市へ
ある者は専門学校で青森市へ
元野球部員の中で深浦に残る者は一人もいなかった。
ここに、過疎の町の現実が浮かび上がる。

深浦高校はその後、
青森県立木造高等学校の分校化により、
現在は「木造(きづくり)高校深浦校舎」となっている。

「122対0」という歴史的な試合を通じて、
様々な問題を浮き彫りにしつつ、
高校野球の球児たちの姿に胸打たれる名著である。

最後に、
選手たちと同級生の野呂和美という
一人の女子校生の挿話を紹介しよう。

「0対122」の試合が終わった夏、
和美は地元の民宿でアルバイトをした。
その時、そこで働く若い女性が
和美を深高生だと知って、
「あんなに点数をとられるなんて、なんなの」
とばかりに深高野球部の悪口をいう。
「一生懸命やったんですから点数は関係ないんじゃないですか」
和美は憤慨した。
それでも相手はさらに
監督や選手を侮辱するようなことをいいはじめたので、
彼女はさらに反発し、
喧嘩になってしまった。
「野球は中学校のときから好きだったし、
野球部員はクラスの仲間で好きだし。
うまいとはいえないけれど、
毎日練習してるのをみてたし、
がんばったのにそんなことをいうなんて」
今でも許せないとばかりに、
卒業を前に和美はいった。







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