『122対0の青春』  書籍関係

〔書籍紹介〕

クリックすると元のサイズで表示します

先日、高校野球のコールドゲームについて書き↓、

http://star.ap.teacup.com/applet/shokuniku/20140728/archive

規約制定の契機となった
122対0の試合のことに触れたが、
本書は、その試合を巡るドキュメントである。

冒頭に青森県の地図が載っているが、
その地図で見ると、
深浦高校のある深浦町は、
青森県の西海岸にある。

クリックすると元のサイズで表示します

第1章は、
1998年7月18日、
青森市の県営球場での
東奥義塾深浦高校との
歴史に残る122対0の試合を記録する。

東奥義塾が甲子園にも行ったことのある名門校であったのに対し、
深浦高校は部員が10名しかおらず、
そのうち野球経験者は4名、
それも「経験がある」程度の弱小チームだった。
そもそも深浦高校は普通科、商業科1クラスずつの小規模な学校で、
98年当時の在校生は
3学年合わせて143人しかいなかった。

やる前から実力差がはっきりとした対戦で、
東奥義塾は初回で39点を取る。
普通、このような一方的な試合になった場合、
攻撃側はバント作戦に転じて、
アウトカウントを増やし、
かつ次の試合に備えて戦力を温存したり、
控えの選手を投入するものだが、
「どんな相手にも全力で当たる」
という東奥義塾の監督の方針で、
2回目以降も攻撃の手を休めず、
10点を追加。
その後も3回11点、4回17点、5回16点で、
5回までに93対0という大差がついた。

当時、青森県のコールドゲームの規程では
7回までは試合は継続することになっていた。
5回、グラウンド整備の一時中断の間、
深浦高校の監督の工藤と部長の畠山が相談する。
そして、選手たちに問いかける。
「ここで試合をやめるということもできる。
やるか、やめるか、おれにまかせるか、
この三つから選んでくれ」
工藤の腹づもりでは「試合放棄」と決まっての問いである。
ただ、押しつけることはできない。
おそらく生徒は監督に任せるだろうと内心思い、
それを受けて結論とするつもりだった。
大部分の生徒が黙っているか「まかせる」という回答の中、
三年の佐藤勝敏がポツリと言う。
「やめてもいいんだばって、
ここまで応援してくれる人いたしなー、
このままつづけたほうがいいべ」
こうして試合続行の雰囲気が出来、
それでも決断できないでいる時、
球審の神(じん)洋司が駆け寄った。
「さ、いきましょう」

審判として試合をスムーズに進行させることを
第一に考える神が深浦ベンチに声をかける。
謙介は、てっきり審判が
「試合をつづけるかやめるか、どうしますか」
ときいてくるものと思っていたので一瞬意外な気がした。
ワンサイドのゲームであっても、
先入観をもってプレーをみたり点差を意識しない。
試合中はあくまで流れにそって
試合をスムーズに進行させることだけを考える。
終わってみてはじめて結果を確認する。
これが審判のあり方だと神はいう。
この元気づけるような呼びかけに、
選手たちは腰を浮かせてグラブを探しはじめた。

試合を放棄すれば、
没収試合となり、
記録は「9対0」がつく。
100点差の試合は記録されない。
しかし、選手たちと審判が共鳴して、
試合は継続する。

守備につく深浦ナインがグラウンドに散らばっていくと、
スタンド全体から
いままでにない大きな拍手と
「がんばれ!」という声が響いた。
敵も味方もない、
スタンドの反応だった。

試合は続行し、
東奥義塾は6回12点、7回17点と点を重ね、
7回浦の深浦高校の攻撃が終わった時点で、
122対0という歴史的な点差の試合となったのである。

クリックすると元のサイズで表示します

東奥義塾は打者149人、86安打、四死球36、
本塁打7、三塁打21、二塁打31、盗塁78、三振1。
ヒット数86で得点122というのは、
四球とエラーでの得点が多かったため。
対する深浦は打者25人でヒットゼロ。
アウト25のうち三振は16だった。
東奥義塾の主砲の珍田はダイヤモンドを約14周、
距離にして1.5q走ったことになる。

深浦の選手たちは、
ともかく試合が終わったことでほっとしていた。
もっと練習しておけばよかった、
と思ったのは一年の辰輝だ。
しかし、だれひとりとして泣いたものはいない。
涙を流したのは、
なにもできなかったことへの口惜しさを噛みしめていた
監督の工藤だけだった。
野球を知っていればこその涙である。
選手たちは、
悔しさを感ずるほどの実力もなければ、
報われないことを悔やむ努力や鍛練もまだ経験していなかった。
試合直後はそれほど落ち込むことはなかった。

という反応も面白い。

第2章では翌日の新聞での報道以降の反応を描く。
スポーツ新聞の翌日のトップを飾るネタはあったのに、
サイケイスポーツと日刊スポーツの一面は
この「122対0」の試合だった。
テレビは新聞より一足早く、
試合当日からこの結果を報道した。
青森県の過疎の町の高校が注目を浴び、
報道が加熱した。
「最後まで投げずによく頑張った」
という意見と反対に
「そんなに弱いなら試合に出るのは失礼だ」
という意見もあった。
このことについては、
同じ青森出身の甲子園のヒーロー太田幸司のコメントが正論をあらわしている。

「(深浦の選手は)122対0で負けてよかったと思う。
今の教育はなんでも平等で、
運動会でも順位をつけなかったりするけど、
そういうことがかわいそうだというのはおかしい。
彼らが晒し者になるという考えは
大人の悪いところですよ」

第3章は、
過疎の町深浦に県立高校が出来た経緯と
野球部創設の経緯、
さらに前任者から引き継いだ工藤慶憲が
足りない部員を勧誘し、
基礎から教え込む苦労が描かれる。
そして成長の途上で東奥義塾と対戦して
記録に残る大敗を喫した後も
やめることなく野球部員の指導に当たり、
次第に力をつけていく過程が描かれる。
しかし、練習試合でも勝てず、
本大会ではくじ運が悪く強豪とばかり当たって
初勝利が獲得できないくて苦労した。

感動的なのは、
あの試合に出た選手が誰一人野球をやめることなく
卒業まで野球を続けたことである。
卒業を前にして、
三年生の部員が口々にいうことは、
「仲間がよかった」
あるいは
「工藤さんだったから」
続けてきたということだったという。

誰一人野球をやめなかった、ということで救われた人がいる。
東奥義塾の小笠原監督である。

試合から2年余を経たとき、
当時の深浦高校の選手のその後を知って
肩の荷が下りた気がした。
「あれで、深浦の子が野球をやめてたら、
おれはまちがったことをしたのかなーって、
思ったろうな」

それは工藤監督も同じで、

「あのころは、
もし自分が東奥義塾の側だったら、
9点、10点とったあたりで
試合を早く終わらせようとしただろうって思ったけれど、
いまだったら全力でいくでしょう。
というのは、
そうしても相手は大丈夫だということを
自分たちが身をもってわかりましたから」

第4章は、その後の深浦高校野球部の成長と
選手たちのその後が描かれる。
勝てないままに選手たちは卒業し、
あの「122対0」の試合の経験者は工藤監督だけになり、
その工藤監督も他校に異動し、
新監督になった2002年春、
公式戦で初勝利をおさめる。
「122対0」の試合から3年9カ月が経っていた。

そして、選手たちのその後も描かれる。
ある者は寿司の修行で東京へ
ある者は大学進学で秋田市へ
ある者は専門学校で青森市へ
元野球部員の中で深浦に残る者は一人もいなかった。
ここに、過疎の町の現実が浮かび上がる。

深浦高校はその後、
青森県立木造高等学校の分校化により、
現在は「木造(きづくり)高校深浦校舎」となっている。

「122対0」という歴史的な試合を通じて、
様々な問題を浮き彫りにしつつ、
高校野球の球児たちの姿に胸打たれる名著である。

最後に、
選手たちと同級生の野呂和美という
一人の女子校生の挿話を紹介しよう。

「0対122」の試合が終わった夏、
和美は地元の民宿でアルバイトをした。
その時、そこで働く若い女性が
和美を深高生だと知って、
「あんなに点数をとられるなんて、なんなの」
とばかりに深高野球部の悪口をいう。
「一生懸命やったんですから点数は関係ないんじゃないですか」
和美は憤慨した。
それでも相手はさらに
監督や選手を侮辱するようなことをいいはじめたので、
彼女はさらに反発し、
喧嘩になってしまった。
「野球は中学校のときから好きだったし、
野球部員はクラスの仲間で好きだし。
うまいとはいえないけれど、
毎日練習してるのをみてたし、
がんばったのにそんなことをいうなんて」
今でも許せないとばかりに、
卒業を前に和美はいった。




『キリング・フィールド』  映画関係

〔旧作を観る〕

クリックすると元のサイズで表示します

「消えた画 クメール・ルージュの真実」を観た後、
「キリング・フィールド」を借り、
再見した。
30年前に観た時の強烈な記憶が蘇った。

「消えた画 クメール・ルージュの真実」については、↓をクリック。

http://star.ap.teacup.com/applet/shokuniku/20140712/archive


1984年制作の英国映画。
ニューヨーク・タイムズ記者としてカンボジア内戦を取材し、
後にピューリッツァー賞を受賞した
シドニー・シャンバーグの体験に基づく実話を映画化
1984年のアカデミー賞において、
助演男優賞・編集賞・撮影賞の3部門受賞
監督は長編初監督のローランド・ジョフィ
脚本はブルース・ロビンソン
製作はデヴィッド・パットナム
シドニーをサム・ウォーターストンが演ずる。

カンボジア人助手のプランを演じたハイン・S・ニョールについては、
少し詳しく述べると、
カンボジアで産婦人科医、また軍医として働いていたニョールは、
1975年にクメール・ルージュに捕らえられ、
4年余りの間、強制労働と拷問に耐える生活を強いられた。
処刑を逃れるため、
医者であることと教育を受けたことを隠さなければならなかった。
またその間に、
妻と子供を早産で亡くしている(処刑された可能性もあり)。
1979年にタイに脱出、
1980年に難民としてアメリカ合衆国に移住する。
その後、カンボジア内戦に関する映画を制作中の
キャスティング・ディレクターに見出され、
「キリング・フィールド」に出演。
それまで演技経験がなかったにもかかわらず
アカデミー助演男優賞を受賞した。
その後も映画に出演したり、
人権活動などに携わっていたが、
1996年にロサンゼルスの自宅近くで強盗により射殺され、
55歳の生涯を閉じた。
射殺事件の真相は今だに謎である。


あらすじ(Wikipedia による) :

アメリカ人ジャーナリストのシドニーと、
現地の新聞記者であり通訳でもあるカンボジア人のプランは
カンボジア内戦を取材している。

クリックすると元のサイズで表示します

ポル・ポト率いるクメール・ルージュが優勢となり、
アメリカ軍が撤退を開始する。
シドニーはプランの一家をアメリカに亡命させようとするが、
プランは仕事への使命感から妻子のみをアメリカに逃がし、
自分はカンボジアに残ることを決意する。

クメール・ルージュのプノンペンへの進軍、
それを迎える民衆、
すぐに始まった虐殺、
都市住民の農村への強制移住、
ヘリコプターで逃走する米国大使館員、
延々と鉄道を移住する難民など、
描写はリアルで
本物ではないかと疑うほどの臨場感に満ちる。
特に、銃を持った言葉の違う兵士の描写が不気味。

クリックすると元のサイズで表示します

やがて、カンボジアは完全にクメール・ルージュに支配され、
シドニーたちはフランス大使館に避難する。
シドニーや他社の記者は、
外国人であるから帰国により逃れることができるが、
カンボジア人であるプランはその道は閉ざされている。
タイに逃れる道もあったが、
シドニーらはパスポートを偽造してプランをアメリカに亡命させようと画策する。
ところが、粗悪な印画紙に焼き付けたために、
偽造パスポートの写真の画像が消えてしまい、
プランを逃すことに失敗する。
そのためプランはフランス大使館を出ることを余儀なくされ、
クメール・ルージュの支配する集団農場へと移送されてしまう。

クリックすると元のサイズで表示します

二人の別れのシーンは
ワンカットで撮影され、
監督の意欲がうかがえる。

ニューヨークに戻ったシドニーは
プランの行方を
赤十字の難民キャンプに写真を送って探すが
行方は知れない。

このニューヨークの描写から
フランコ・コレッリの歌う
プッチーニ「トゥーランドット」の中の
「誰も寝てはならぬ」のアリアで
一挙に
カンボジアの情景に映る演出の手順は見事。

プランは集団農場で労働についている。
機械を否定し、文明を否定する
原始共産制の社会で
全ては人力で行われる。
集団農場では、人は特別な理由もなく銃殺されていく。
農場への往復の際に荷馬車に乗っていただけで銃殺され、
作業が緩慢という理由だけで殺される。
また身分を隠していた元教師、元医師たちは、
「クメール・ルージュは君たちを許す」という嘘にだまされて、
身分を明かしてしまい、
その結果、銃殺されていく。

クリックすると元のサイズで表示します

プランは集団農場から脱走を図る。
その途中、プランが目にしたのはおびただしい人の白骨だった。
まさにカンボジア全土が
同民族同士で殺し合う、キリング・フィールドとなっていたのである。

クリックすると元のサイズで表示します

プランは脱走に力尽き行き倒れてしまうが、
別の集団農場の幹部に助けられ、
その幹部の身の回りの世話をすることになる。

シドニーはピューリッツァー賞を受賞した際に、
カンボジアで取材仲間だった記者に
プランを見捨てたと非難され、
自責の念に駆られていく。
この記者を演ずるのが、ジョン・マルコビッチ

プランは、拾われた幹部に親身に扱われるが、
元新聞記者であった経歴を隠そうとする。
身分が明らかになると、
元教師、元医師たちのように殺されてしまうかもしれないからだ。
しかし、
BBC放送を隠れて聞いているところをその幹部に見つかってしまい、
インテリであったことがばれてしまう。
ところが、幹部はプランを銃殺せず、
プランに自分の信条を話し出す。
その幹部は、
「カンボジアを愛しているが、
クメール・ルージュのやり方は間違っている」と言う。
そして「自分に万一のことがあったときは、
自分の子供をつれて外国に逃亡してほしい」
と地図と金を渡す。
しばらくして、虐殺をやめさせようとしたためにその幹部は殺されてしまう。

立派な人物、
時代が別ならば、
良い為政者にもなったと思われる人物が
あっけなく殺されてしまう、衝撃的シーンだ。

プランは幹部の子供を連れて他の仲間たちと国外への逃亡を図る。
ベトナム戦闘機の空爆、
クメール・ルージュの目を逃れての道、
幹部の子供は途中で地雷によって死亡してしまう。
山を越え、谷を過ぎ、
プランはたった一人でタイ国境の難民キャンプにたどり着く。
その知らせを聞いたシドニーは現地に向かい、
二人は再会する。
「許してくれ」と言うシドニーに
プランは「許すことなど、何もありません」と答え、
抱擁しあうのだった。

今観ても迫真力に満ちた立派な作品である。

この映画が公開された直後、
本多勝一は政治的で差別的な内容であるとして、
映画への批判を行ない、
「無知な人々だけが感激する『キリング=フィールド』」
という記事を書いた。
本多はかつて、ポル・ポト派寄りの記事を書いたことがあり、
虐殺行為についても懐疑的であった。
本田勝一は本当にいやな奴だと思う。

このDVDは、
ローランド・ジョフィ監督自身による音声解説がついている。
2時間21分の間、
監督はじゃべりまくる。
「ここは、タイの学校で撮った」
「このヘリコプターはサンディエゴだ」
「このシーンはワン・カットで撮りたかったんだ」
などと解説し、
当時短編しか経験のなかった監督が
製作者デヴィッド・パットナムと出会い、
監督を委嘱される経緯など、
興味深い話も聞ける。

偶然この仕事の話が舞い込んだ。
「炎のランナー」の原作者コリン・ウェランドの紹介で
デヴィッド・パットナムと出会った。
私と仕事をしたことをコリンが話したらしく、
デヴィッドから連絡が来た。
私に読ませたい脚本があるという。
「雑誌の記事をもとにした脚本だ。
悩んでる。
目を通してくれ。意見を聞きたい」
届いた脚本は300ページもあり、ものすごい厚さだ。
それを家へ持ち帰り、さっそく読んでみた。
読み始めたら、途中でやめられなくなった。
現実とは思えない話に
引き込まれたんだ。
ベトナム戦争については聞いていた。
その当時、反戦運動もしていた。
だが戦争の実情を理解していなかった。
脚本を夢中で読んだ。
単なる戦争物語ではない。
人生が描かれていた。
読み終わってからも、離せなかった。
映像が浮かび、眠れなかった。
翌日、手紙を書いた。
「デヴィッド、これは戦争の話でなく、愛の物語だ。
脚本が長すぎるとは思うが・・・
これだけは覚えておいてくれ。
この作品は、友情についての物語だ。
そして深い愛情をテーマにしている。
ただの戦争映画にしてしまっては、
作品の核となる部分が伝わらない」
手紙を出してから、もう一度考えた。
自分にはこの作品を映画化できるはずがない。
経験がなかった。
それから1年、音沙汰なしだった。
あれは年末だったと思う。
当時私が製作したテレビ映画が
英国アカデミー賞にノミネートされて、
授賞式に出席した。
デヴィッドもそこに来ていて、
にこやかに挨拶を交わした。
彼に来年の予定を聞かれ、
書いている脚本の話をした。
アンゴラで戦う英国人の映画を作る予定だった。
だが彼は「多分無理でろう」と言った。
映画は念願だったから、落ち込んだよ。
すると「会いに来い」と言う。
翌日オフィスに来るように言われて、
ロンドンにいる彼を訪ねて行った。
入ると彼は暖炉のそばにいた。
立ち上がると、机に向かって歩き、こう聞く。
「『キリング・フィールド』を読んだか?」とね。
「大勢が監督に立候補している」とも言う。
彼は一流監督の名前を挙げた。
それは、私にとって憧れの監督たちだった。
そして私にこう言った。
「彼らとはやりたくない」
そう聞いて胸が高鳴った。
「皆この作品をよく理解していないんだ」
私が「残念だ」と言うと、
「ふさわしい監督を一人見つけてある。
彼と撮りたい」
と言って、
手紙を出して見せた。
私が出した手紙だった。
手紙の内容を尋ねられ、こう答えた。
「この作品のテーマは、愛であり、
人間の心を描いた作品だ。
互いを思う気持ちを伝える映画だ。
決して戦争映画ではない。
それではいい作品にならない」
デヴィッドは私に、
この映画を撮れと言った。
きう言われて一瞬呆然とした。
長編映画もメジャー作品も撮ったことがなかった。
デヴィッドは言った。
「経験ではなく、
やる気があるか聞いている」
さすがに一瞬考えたが、私はこう答えた。
「ぜひ撮らせてほしい」
私たちは握手し、
それから5日後、タイにいた。

最後に監督はハイン・S・ニョールについて触れる。

最後にハインのことを話しておきたい。
彼はこの映画の数年後に亡くなった。
ある日事件が起きた。
彼が帰宅する時だった。
通りで男に撃たれた。
事件の真相は今だに不明のままだ。
葬式の弔辞で言っていた。
「彼を思うことで
彼の魂が
新たな美しい命に生まれ変わる」
私はこう思う──
ハインはあんな風に死なねばならなかった。
なぜなら、
愛する人を戦禍で失い、
自分は生き残った。
ベッドで死ぬのは耐えられないので、
彼は自分の最期を選んだのだと。
ハインはこの映画に愛を注いだ。
愛を経験した
愛にあふれた人だった。

ローランド・ジョフィ監督は
この2年後、
あの「ミッション」を撮っている。



タグ: 映画

靖国参拝と河野さんの使命  政治関係

安倍首相は昨15日、
終戦記念日の靖国神社参拝を見送った。
中国、韓国への配慮の結果だ。

首相は萩生田光一総裁特別補佐を通じ、
自民党総裁として私費で玉串料を奉納した。
萩生田氏によると、
玉串料奉納にあたり、首相から
「国のために犠牲となられた
ご英霊のみたまに
尊崇の念を持って
謹んで哀悼の誠をささげてほしい。
揺るぎない恒久平和をしっかり培っていく」
と伝えられたという。

窮屈なことだ。
自身で奉納することも出来ず、
メッセージを代理人を通じて伝えるしかないとは。
一方、閣僚では、
新藤義孝総務相と
古屋圭司国家公安委員長、
稲田朋美行政改革担当相の3人が参拝した。
昨年と同じ顔ぶれだ。
19人いる閣僚のうち、
3人しか参拝しないとは、情けない。
国会議員は84人が参拝。
しかし、3閣僚や多くの国会議員が参拝したことに
中韓両国は批判を強めている。

中国外務省の華春瑩報道官は15日、
安倍晋三首相が靖国神社に玉串料を奉納し、
閣僚が参拝したことについて、
「日本政府の歴史問題に対する誤った態度を反映しており、
断固として反対する」
と非難する談話を発表。
華報道官は安倍首相が参拝を見送ったことは評価せず、
「日本が過去の侵略史を正視、反省し
軍国主義と決別してこそ、
中日関係の発展が実現できる」
と日本批判を展開した。
閣僚の参拝についても
中国の華僑向け通信社、中国新聞社は
「閣僚の参拝放任は
侵略史の美化、右傾の激化という企みを反映している」
と批判。

韓国外務省の報道官は15日、
靖国神社に安倍晋三首相が玉串料を奉納したことや閣僚らが参拝したことに対し、
「慨嘆を禁じ得ない」
と批判する論評を発表した。
論評は靖国神社を
「日本の植民地侵略戦争美化の象徴」
と形容。
「日本の政治家が歴史修正主義的な行動を捨て、
歴史に対する真摯な反省を行動で示したとき、
韓日関係も安定的に発展ができる」
と強調した。

まことに的外れで
悪意丸出しの意図的な批判だ。
軍事費増大世界一の国が
隣国を「軍国主義」よばわりするなど、
漫画でしかない。

産経新聞は「主張」で、

靖国の杜には、
ふだんから参拝客が訪れる。
そういう人たちの何人が、
合祀の是非論や歴史認識を意識してお参りするだろうか。
参拝した人自身が自問すれば、
答えはおのずと明らかだろう。

と書いている。
そして、

安倍晋三首相は昨年暮れに参拝した際、
「戦犯崇拝という誤解に基づく批判があるが
戦争で人々が苦しむことのない時代をつくる決意を伝えるため」
と内外に説明した。
残念ながら中国や韓国の納得は得られなかった。
国民はいいが、指導者は許せないということだろう。

と書く。

「中国は歴史問題を日本批判の材料に使う。
罠にはまってはいけない」
(ハーバード大、ジョセフ・ナイ教授)
という忠告もある。
責められるべきは罠をかける方だ。
不当な批判を恐れていては、
先方に屈し続けることになる。

そして、こう結ぶ。

靖国論争も、
そろそろ終止符を打つ時にきているのではないか。
中国や韓国は、かたくなな態度をとり続けるのではなく、
日本人の心情を酌み、理解してほしい。

安倍首相は、
きょう参拝するかどうか、明らかにするのを避けている。
見送るなら外交的配慮による苦渋の決断だろう。
天の時、地の利、そして人の和が備わる時まで
信念を持ち続け、
再びそれを実現してもらいたい。

私が危惧するのは、
安倍首相のような骨のある人でも
中国韓国に配慮して
参拝を見送るならば、
今後、後継首相は
誰一人として靖国参拝をする人はいないだろうということだ。

今の情勢下で
相手に付け入る余地を与えてはいけない
というのが配慮だろうが、
相手はこれを政治的手段にして、
一向に態度を変えない人たちだ
ということも忘れてはならない。


一方、
韓国の朴槿恵大統領は15日、
日本による朝鮮半島統治の終結を記念する「光復節」の式典で演説した。
朴大統領は、
日韓が来年、国交正常化50年を迎えることに言及、
「来年を韓日の新たな出発の元年にしなければならない」と強調した。
対日関係について朴大統領は、
「日本の一部政治家が両国民の心を引き裂き、傷つけている」と述べ、
歴史認識問題をめぐる日本政府の姿勢を批判した。
さらに、自らが
「慰安婦の女性らが納得できる措置を日本に求めてきた」とし、
「このような問題を正しく解決してこそ、
韓日関係は堅実に発展する」
と語った。
その上で朴大統領は、
慰安婦問題などの解決に向けた
「日本の政治家の知恵と決断を期待する」
と述べ、
名指しはしなかったものの、
安倍晋三首相に問題解決に向けた努力を促した。

おやおや、自分で問題に火をつけておいて、
その火消しを相手に求めるんですか。
日韓基本条約で解決済みのことを
卑怯にも蒸し返して来たのは
自分たちだということをお忘れですか。
「来年を韓日の新たな出発の元年にしなければならない」
という一方で、
「慰安婦白書」を発信しようとしているのは、
どこの国ですか。
「新たな出発」をするなら、
「もはや過去は問わない」とでも決断したらいかがですか。

日韓首脳会談の前提として、
韓国政府が求めていることは、
「慰安婦動員の強制性立証」
「安倍首相による謝罪」
「国家による賠償」
だという。
これをクリアにしない限り、
首脳会談には応じない、と。

結構です。
応じません。
こんな無理難題を押しつけて来るということは、
首脳会談を本心では求めていないのだと解釈するしかない。

中国政府も
日中首脳会談の前提として、
尖閣諸島の領土問題があることを認証
を条件としているという。
「尖閣は日本固有の領土、
領土問題は存在しない」
としている日本政府には受け入れがたい条件だ。

どちらも本気で首脳会談をしたいと考えているとは思えない。
むしろ、首脳会談をネタに
相手が折れるのを待っている
のだろう。

ここで安易な妥協をせず、
首脳会談なしでも
国交は成立することを
守っていくしかない。

朝日新聞が慰安婦問題での誤報を認めたことで
事態は新たな局面に入ったが、
韓国側が態度を改めるとは思えない。

ここで、河野洋平元衆院議長に注文。

先頃の「河野談話」についての有識者チームがまとめた検証結果。
報告書は
元慰安婦とされた女性への聞き取り調査では、
事後の裏付け調査を行わなかった、とし、
更に、談話作成時に韓国側と文言調整しており、
その事実を対外的に非公表とすることで一致していた
ことも明らかになった。

国会に報告された検証結果について、
河野氏は
「足すこともひくこともなく、すべて正しい」
と評価した。

そこで、河野氏は
国会なり、自民党の調査会なりに出席し、
「あれは、韓国側から
強制性さえ認めてくれれば、
今後、慰安婦問題は問わない」
との要請を受けて
談話を作成した
という過程を発表したらどうか。
何月何日、こういう韓国政府の人間が来て、
そういう約束をした、
と、当事者だけが証し得る証言をしたらいい。
そして、談話発表後、
「今後、慰安婦問題は問わない」
という約束は守られなかった
もちろん政治家だから、
「だまされた」などとは言わないが。
結果として国益に反することをしてしまって申し訳ない、
謝罪したらどうだろうか。
それこそ、
政治家として、最後の花道になると思うがどうか。

私は、元慰安婦という方の中にも
「死ぬ時に嘘はつけない。
私が慰安婦になったのは、
強制ではなく、
親に売られたのだった」
正直に言う人が出て来るのを期待している。

それこそ、
日韓の問題を解決する
最後の花火になると思うのだが。



『弁護側の証人』  書籍関係

我が家のベランダの「菜園」の
アサガオが咲きました。

クリックすると元のサイズで表示します

ちょっと普通のアサガオと違う感じですね。

娘は午後4時過ぎの便で香港へ発ちました。
JYJのコンサートに参加するため。
その行動力には、
我が娘ながら感心します。


〔書籍紹介〕

クリックすると元のサイズで表示します

このブログで雫井脩介の「検察側の罪人」を紹介した時、
アガサ・クリスティに「検察側の証人」という作品があり、
この題名はそのもじり、と書いたが、
本作の題名「検察側の証人」の方がもじりが強い。
                 
1963年刊行の古い作品だが、
ちょっと興味を引かれたので、読んだ。
著者の小泉喜美子さんは、
生島治郎さんや内藤陳さんを夫に持ち、
新宿の酒場の階段から落ちて亡くなったという
ミステリアスな経歴の持ち主。

まず「序章」で、
面会室の金網ごしに対話する夫婦の描写。
妻は、まだ控訴があり、上告があると
夫を励ます。
夫は死刑判決で納得しているらしいのだが、
妻の方はまだ希望がある、
なぜなら、義父を殺した真犯人が分かったからだ、と主張する。
そして、妻は、
せっかくの夫の心の安らぎを
乱してしまったのではないか、と心配する。

第1章から第10章までが
事件の顛末。
ストリッパーでありながら
大富豪・矢島産業の社長の御曹司・杉彦と結ばれた漣子(なみこ)は、
義父・龍之助の大邸宅に移り住む。
「レベッカ」並の設定だが、
ダンバース夫人のような人はいない。
古い女中の志瀬は、それほど深く干渉はしない。
義父は離れに住み、一度会ったきりだ。
取り巻く人物像は、
義姉の洛子(らくこ)の夫は義父の会社の専務。
お気に入りの美紗子という親戚を杉彦と結ばせたかったらしい。
他に顧問弁護士の清家、
雇われ医師の竹河らが登場し、
これらの一同が屋敷に泊まった夜、
義父が何者かに撲殺される事件が起こる。
警察がやって来て、緒方警部補が捜査、
当事者たちからの聴取の結果、
容疑者が逮捕される。

まあ、ここまでは、
遺産相続を巡る親戚同士の争いで、
その結果の殺人事件と、
あまりに古臭く、
登場人物も少なく、
広がりはない。

そして、第11章の控訴審の場面で、
局面がぐるりと一転する。

(本書を読む予定のある人は、
以下は読まないで下さい。)

なんと、控訴審で被告席に座っているのは、
杉彦と思いきや、
漣子だったのだ。

序章を読み返してみると、
たしかに面会室で
どちらが容疑者でどちらが面会者かは書いていない。
しかし、読む者は夫が容疑者で、
その無実を晴らすために妻が奔走している、
と思い込んでしまう。
それは、
「澄んで、さびしげな光をたたえているあの眼!
ああしてまっすぐにわたしのほうを見おろしているあの眼!
あれが人を殺した男の眼だろうか?」
という描写に起因するのだが、
ここで読者はすっかりだまされてしまうのだ。

実際は殺したのは夫の杉彦で、
妻はその罪をかぶせられただけだった。
だから、「真犯人が分かった」という妻の主張に
夫の心の安らぎが失われたのは当然だ、
と、今になって気付く。
弁護側の証人とは、緒方警部補を指す。

「解説」で、道尾秀介氏が、

著者が描いた見事な逆さ富士を、
本物の富士山だと思い込み〜

と書いたとおりだ。

更に道尾氏は続ける。

第11章、
法廷のシーンの冒頭において、
無防備だった読者の目の前で
天地が逆転する。
突然にして水の中に嵌まり込み、
慌てて手足をばたつかせる僕たちの耳元で
著者が囁く。
「この富士山が本物だなんて、
言いましたか?」
このとき再び著者は囁く。
「その絵は、あなたが自分で描いたのではないのですか?」
もはや一言もない。
そのとおりなのだ。

 
というわけで、
小説の全体に仕掛けがほどこされており、
読者を意図的に誤誘導
させたのだ。

ただ、あれほど妻を愛した杉彦が
妻に犯行を押しつけるのが納得できないのと、
犯行後、
妻が離れを訪ねることは
事前に想定は出来なかったのではないか、
という疑念はわく。

ただ、
この作品が1963年だということに驚く。
映画の「シックス・センス」(1999)より遥か前の作品である。
「ユージュアル・サスペクツ」(1995)よりも、
「スティング」(1973)年よりも、
「テキサスの五人の仲間」(1965)よりも前の作品なのだ。

そういう意味で、
映画に「だまし」の要素が入るよりはるか前、
今から半世紀も前
このような作品が生まれていたことに驚嘆するのだ。
本書の紹介に書いてある
「日本ミステリー史に燦然と輝く
伝説の名作」
という評価もうなずける。



『めぐり逢わせのお弁当』  映画関係

〔映画紹介〕

クリックすると元のサイズで表示します

世界には珍しい職業というのがあるが、
インドのムンバイの「ダッバーワーラー」もその一つ。
ダッバーとは、ヒンディー語で「箱、容器」、
ワーラーは、「〜する人」で、
意味は「弁当箱の運び屋」
お昼の弁当を弁当屋から配達する仕事なら日本にもあるが、
ダッバーワーラーの違うところは、
家庭で奥さんが調理した弁当を個別に集め、
ご主人の勤務先へ届ける、というところ。

勤務先で供される食事が嗜好にあわないというだけでなく、
ヒンズー教やイスラム教の禁忌に触れたり、
カースト制の問題もある。
下位のカースト出身者が作った食事を食べるのに抵抗があるのだ。
確実なのは、奥さんが作った料理を食べること。
だったら、日本のように愛妻弁当を持参したらいいようなものだが、
配達料金が安いため、
運ばせた方が便利、ということらしい。

こうして、毎日17万5千個以上の弁当箱が
利用客の自宅とオフィスの間を行き来する。
配達先が遠方の場合には
一度都市単位に集めてから鉄道に乗せ、
最寄り駅から配送担当者に渡すという方式を取り、
毎日4千〜5千人のダッバーワーラーたちが
ランチタイムに間に合わせて配達している。
一ヶ月の賃金は約2千〜4千ルピー(3300円〜6700円)。
配達間違い600万個に一つの割合でしか起きていないとの事、
つまり、1月に1件である。

前向きが長くなったが、
この映画は、その600万個に一つの誤配達の物語。

主婦イラが、
最近冷たくなった夫の愛情を取り戻すために腕を振るった
4段重ねのお弁当。
回収され、自転車と電車で運ばれ、
届いたところは
保険業務に従事する勤続35年で
早期退職を控えた男やもめのサージャンの元。
契約していた弁当屋のものと思って食べたが、
そのおいしさにびっくり。
一方、帰宅したイラの夫が感想を言う料理が
自分の作ったのとは別物で、
どうやら間違って届いているらしいと気づいたイラは
翌日のお弁当に手紙を忍ばせる。
感想の返信をするサージャン。
こうして顔を知らぬ同士の、弁当箱を介した文通が始まり、
やがてイラは夫の浮気に対しての愚痴を、
サージャンは亡くなった妻との想い出を書き、
二人の心は次第に近づいていく。
「二人で一緒にブータンに行って幸福になろう」
「一度逢いましょう」という提案を受け、
カフェで二人は待ち合わせをするが・・・。

このあたりからの展開が切ない
二人の間にあったのは、
別の障害・・・。
同じ年齢層の者としてはウルウル来た。
最後のあたりは涙があふれて止まらず、困った。

サージャンを演ずるのは、
「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」で
大人になったパイを演じた
イルファーン・カーン
妻を失い、一人暮らしの中、
隣の家の家族団欒を羨ましげに眺める
男やもめを演じて味わい深い。
最初の方では窓を閉められてしまったサージャンだが、
最後は団欒の場から手を振られるのもうまい。
独身男が手料理に舌鼓を打つ心理を説得力豊かに演ずる。
最初偏屈だったサージャンが
毎日おいしい弁当を食べている間に、
次第に後輩にも心を開く様子も手に取るよう。
イラを演ずるニムラト・カウルは、
新人だが、
適度な美しさが丁度いい。
地に足のついたインドの主婦役を巧みに演ずる。
サージャンの後任者シャイクを演ずる
ナワーズッディーン・シッディーキーは、
若手の新進。
インド映画独特の笑わせ役で
孤児の頑張り屋を明るく演ずる。
「人は間違った電車に乗っても、正しい場所にたどり着く」という
大切なメッセージを伝える。
イラの階上に住む「おばさん」は
夫の介護に生きる生活で
ついに顔を出さないが、
面白い味つけ役。
このあたりも上手だ。

監督・脚本のリテーシュ・バトラは、
この作品で長編デビュー。
私の「持病」の眠気を出させない
確実な絵作りだ。

インド映画がミュージカルばかりではないことを知らせる
貴重な作品。
まさに「珠玉の一篇」の称号がふさわしい映画だ。

5段階評価の「4. 5」

予告編は、↓をクリック。

http://www.youtube.com/watch?v=EVsWqdauGHw&feature=player_embedded


なお、興味のある方のために掲載すると、
↓が標準的なステンレス製の3段重ねのダッバー。

                                           クリックすると元のサイズで表示します

こんな缶に入れられて運びます。                            

クリックすると元のサイズで表示します

大量の弁当をこうやって。   

クリックすると元のサイズで表示します

列車への積み込み。

クリックすると元のサイズで表示します

時間が不正確なインドの鉄道なのに、
ちゃんと時間通りに弁当が着くのが不思議。

こうして手押し車で運び、

クリックすると元のサイズで表示します

最後は自転車で職場へ。

クリックすると元のサイズで表示します



タグ: 映画




AutoPage最新お知らせ