『想定外の老年』  書籍関係

今日は医療関係でやけに忙しい一日でした。

まず、飼い猫のこはる
一晩に5回も吐いてしまい、
昨日行ったばかりの動物病院に連れて行き、
検査のため預けました。

その後、大忙しで用意して、
カミさんの膝の治療のために
十条のクリニックに。
片道1時間半。

帰宅後、
自分の高血圧治療のために
月一度の医院詣でと、
薬の購入。

そして、
夕方、預けたこはるの引き取り。
吐いた原因は
ホルモンの関係とストレスだとか。
超音波の結果、
腎臓の片方が小さく、
片方が大きいことが判明。
それ以外の内臓は心配なし。

夫婦も飼い猫も病院通いです。


〔書籍紹介〕

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雑誌「WiLL」に連載された
賢人・曽野綾子さんのエッセイ。

「想定外」というのは、
たとえば東日本大震災の時の議論に代表されるもののことだ。
それに対して、筆者は次のように書く。

一部の世論は、
今もなお想定外ということを認めない。
人間に想定外というものがあってはならない、
という形の、
不思議な人間性否定である。

「想定外」を認めるのは、
政治の無作為、企業の身勝手だというのは
理不尽な暴力だと私は思う。
なぜなら、
それは人間の能力と責任の範囲を超えることを命じているからだ。

そして、次のように書く。

人生には、
常に想定外のことがあるものだ、
と私は思っている。
少なくとも私の今までの生涯は、
日常の小さなことまで入れると、
「想定外」の連続であった。

しかし、世の中に想定出来たことはある、
としてて、次のように書く。

私が責めたいのは、
長寿社会に与(くみ)した医師や行政官の責任である。
年寄りばかりになったら、
どうしてその年寄りの面倒を見たらいいのか、
ということは、
「想定外」だったとは言わせない。
津波は予測できないが、
長寿社会の出現は
予測可能だったからである。

そして、続ける。

しかしこうなったからには、
他人を責めている暇に、
高齢者は、
めいめいで自分の幕の引き方を、
自分の好みで決めておくことが
大切だろうと思う。

更に、こう書く。

人間は常にどこかで最悪のことが起こるかもしれないという
覚悟を常にしておくべきだ。
もちろんそれは避けたいことだが・・・
覚悟は個人の領域だ。
それを国家に補償せよとか、
肩代わりせよと言っても
できないことが多い。
不幸もまた一面では
個人の魂の領域であり、
それを国家に売り渡してはならないからである。

というわけで、
今回も金言、箴言に満ちている。

石原都知事は人を退屈させない人だ。
最近は年のせいで益々毒舌に磨きがかかってきて、
皆楽しんでいる。
「天罰で天災が起きた」
みたいな発言も、
本意はついぞ分からず仕舞いのようだが、
別に怒ることでもないだろう。
直接被害を受けたのは東北の方々だが、
天罰を受けたのは日本人全体という意味だろう、
と私は解釈している。
そういうふうに都知事の言葉を理解できない人は、
つまり日本語のニュアンスも文学も分からない人だ。
さもなくば、
何にせよ、
自分はイノセントだと思っていて、
人間共通の負い目というものに対して
理解がない人なのだろう。

泥に攫われた町は、
瓦礫を取り除いた後でも、
地面は不機嫌な泥色を残している。
その一郭の土地に、
私は一本の白百合が蕾をふくらませているのを見た。
津波に生き残ったはずはない。
誰かが百合の球根か育ちかけの苗かを、
震災後の荒れ果てた土地に、
いとおしんで埋めていったのだろう。
あの百合は必ず咲く、と
毎年、百合をたくさん植えている私には体験で分かる。
東北も必ず元よりいい土地に変わる、
と花は告げているようであった。

中国を訪れた時の経験を次のように書く。

人は総じて表情が不機嫌で、
他人のことを考えない。
事業上のパートナーとして、
こういう性格では困るだろう。
荒々しい喋り方をする。
列は守らない。
スーパーの細い出口で、
もう後一秒で私が出るというのに、
平気で向こうから進入して来る。
ヨーロッパ人も日本人が、
エレベーターに乗る時でさえ、
子供を老人がいると、
自分は外にいて、
彼らが乗るまで「開」のボタンを押していてやるのと大違いだ。
自分がこういう行動を取るとどうなるか、
という予測をする力も気も大衆にはないらしい、
偉大な自分勝手である。

中国での船旅で知り合った中国の共産党員との会話。

「三峡ダムができると、
何人が湛水地から移住することになるんですか」
「百二十万人だよ」
私はその数の多さに絶句した。
完成した後は知らないが、
当時言われていたのはそういう数字だった。
「中国って偉大ですね。
そういう大工事ができるんですから。
日本だったら、
百二十人動かすのだって大変ですよ」
「当たり前だよ。
日本は世界一の社会主義国だからね」
ということは、
中国は少なくとも日本よりは
社会主義が希薄だということが、
筋金入りの党員から証明されたのだ。

中国の党幹部の蓄財について、こう書く。

こういう深刻な不公平や、
民意の隅々にまで意識され許されている
途方もない特権階級意識や、
残忍な粛清の歴史は
誰の眼にも明らかになっているのに、
日本ではまだ政党の名に
「社会」とか「共産」などという言葉が残っていることに
驚きを示す外国人もいるし、
私もまた呆れている。

社会主義の崩壊について。

私たちは肯定と否定の双方から
選ぶ自由を与えられた。
これが社会主義では不可能なのである。
慎みのないことを言うが、
ベルリンの崩壊直後の東欧を見るのも
実におもしろかった。
人間は押しつけられた思想では
表面から素早く変わり、
物質的変化では
内面からじっくり変わるということが
分かったからである。

人生の質に対する名言。

私の話を聞くと、
医師としてこういうことを言ってはいけないのかもしれないが、
自分は人間が死ぬことはほとんど気にしていない。
誰でも必ず死ぬからだ。
しかし生きているうちの人間の生活の質は
ほんとうに大切だと思う、と言った。

しかし金持ちになったからと言って、
それで幸福になるとは限らない。
お金はあった方がいいが、
あった方がいい限度はたかが知れている。

性格は優劣ではなく、
ただ限りなく個性の問題だということだ。
その個性はしかし宝石の原石だから、
自分で磨かなくては
いつまでたっても光らないということだけは、
若者達にしっかり言い渡したらいいのである。

運勢判断に対しての指摘も面白い。

最近テレビで「今日の運勢」のような時間が減ったように思うのは、
私だけなのだろうか。
テレビの占いの時間はもともと無責任の典型だった。
「オレンジ色のものを身につけるといいことがあります」とか、
「今日はパーティーに行くと、
将来のあなたのためになる人に会うでしょう」
式のいい加減な予言で、
数百万人、或いはそれ以上のお茶の間に視聴者の時間を潰すことになる。
これはもう社会悪だ。
テレビの電波というものは、
金がありさえすれば個人で買える
というものではない。
電波はいわば社会の共有財産だから、
そういう時間を使って「今日の運勢」などを流すのは
教育的に良くないとずっと私は思っている。
この社会的「時間の浪費」の問題は、
考えてみるとなか恐ろしいことだ。
時々、県知事とか市長の祝辞なるものを聞くことがあるが、
たいていは
「間違いではないが
少しも感動するところのない凡庸なスピーチ」
である。
仮にその会場に五百人の聴衆がいて、
このつまらないスピーチを三分間聞くとすると、
計一千五百分、
一人の人間の二十五時間分の時間を、
人々に浪費させることになる。
だから地方自治体の長というような人は、
決して形式的な式辞を、
述べたり書かせたり代読させたりしてはならない。
その時間の分だけ、
必ず聴衆が新しい発見をするような
刺激的な式辞を書かねば、
大きな社会悪を及ぼすことになる。
テレビの占いの時間が減ったのは、
東日本大震災のせいではないかと私は思っている。
日本の全占い師は、
二〇一一年三月十一日をもって、
完全に敗北したと言っていい。
もし本当に予言の能力があるなら、
あれだけの二重惨事は、
はっきりと日時をあげて予告できたはずだろう。
アメリカの九・一一の世界貿易センタービルのテロがあった時も、
ほとんどの占い師が
そのことを予言できなかったらしい。
とにかく日本の占い師は
あの日をもって全滅したというべきだろう。

敗戦直後の何もない時代について、こう書く。

しかしその時、
日本人はかろうじて持っているもの
・・それは物質ではなかったが・・
を意識していただろう。
日本人の国民的な教育レベルの高さ、
その知能、勤勉な性格、
厳密を愛する気風などである。
それらは身についた才能で、
焼け出されても、
死なない限り、
その個人の体についていた財産であった。

原発については、こう書く。

理科的な頭脳のない者として、
私は原発の未来について
語らないことにしている。
というか、
語る資格がないのである。
何となく怖ろしい、という言い方も怖ろしいし、
何となく大丈夫でしょう、
という言い方も無責任である。
それに、こんなにも日本には
賢い専門家集団がいるのだから、
その人たちと、
選挙による大衆の意思に
私は従いたいと思うのである。
それで日本が破滅に至るのなら、
私もまたその運命に飲み込まれる一人として、
文句はない。

すべて人間の発明したものは、
必ず明暗両面を持つ。
もし人間に叡知があるとすれば、
その暗の部分を最小限に押さえ、
明の部分を使いこなす努力をすることだ。
しかし、暗のない明もない。

私はできれば原発なしに、
電気を完全に供給できるようにすることに賛成だ。
しかし、それは急にできるものではないだろう。
「たかが電気」ではない。
人間が創り出したものの中で、
電気は、火に匹敵する偉大なものだ。
だから安全な制御法を、
人知を集結して考えてもらい、
その結果を、
できれば私が生きているうちに
見たいと願っている。





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