『狼の牙を折れ』  書籍関係

今日は昼過ぎから銀座へ。

都知事選挙の看板。
スカスカです。

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映画を一本観た後、夕方の銀座で知人と会食。

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中華のオーダーバイキング

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80種類のメニューの中から注文。
調理したてのアツアツで少量ずついただきます。

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ちょっと食べすぎました。


〔書籍紹介〕

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1974年(昭和49年)8月30日、
丸の内仲通りで三菱重工爆破事件が起こった。
8名が死亡、385人が重軽傷を負う大惨事だった。 

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当時の報道映像は↓をクリック。

http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=3EhdmtKKKdc

当時は、
「革命思想」が一部の人間に吹きあふれ、
いつ隣で爆破事件が起こっても不思議ではない世相であった。

その後も同一犯と思われる犯行が、
三井物産、帝人、大成建設、鹿島建設爆破事件、間組
などを標的に次々と爆弾が仕掛けられた。

アナキスト集団「東アジア反日武装戦線」
犯行声明を出し、
日本国家をアジア侵略の元凶とみなし、
アジア侵略に加担しているとされた企業に対し
断続的に爆破事件を起こしたものと分かる。

しかし、犯人たちは、
普通の勤め人を装って
大東京の中に埋没し、
その潜伏先は分からない。

本書は、
三菱重工爆破事件直後に
警視庁丸の内警察署に設置された特別捜査本部を中心に
刑事たちの地道な捜査で
犯人たちを追いつめていく経過が辿られる。

地下出版された爆弾の製造法やゲリラ戦法などを記した教程本「腹腹時計」
用いられたタイプライターの字体が同一であり、
同じ機種で打たれていたことが判明。
そのため「腹腹時計」作成者と
犯行グループは同一である可能性が高まった。

特別捜査本部は当初被疑者として、
アイヌ人解放など「東アジア反日武装戦線」と革命理論が酷似しているとして、
当時「新左翼評論家」であった太田竜を拘束したが、
やがて潔白と分かった。
しかし、太田竜が関係していた
「現代思潮社」「レボルト社」に狙いを定めた結果、
その捜査対象である佐々木のアパートに
たまたま届いていた北海道からの荷物によって
齋藤和と佐々木規夫が浮上し、
この二人を追尾していくうちに、
犯行グループと思われるメンバーが
一人二人と把握されていった。

この経過で、
疑わしい人間に的をしぼり、
地道に張り込みを続ける刑事たちの行動が
迫真的に描かれる。
著者の門田隆将は、
当時の捜査関係者に会い、
重い口を開かせて語らせた、
その結果である。
なにしろ、当時の捜査員が
実名で登場するのだ。
その迫真力は並ではない。

たとえば、佐々木則夫のアパートに張りついていた古川原巡査部長が
普段と違う行動を取る佐々木の後を尾行し、
京浜東北線、都電を乗り継ぎ、
東尾久3丁目駅で降り、
佐々木の入ったアパートをみつけ、
片岡(益永)利明にたどり着く場面。

また、ある日、近所の公園で佐々木が
一台のセダンと接触、中に乗り込んだ際、
浮浪者を装って近づいてナンバーを確認、
その番号から大道寺将司、あや子夫妻にたどりつく場面。

佐々木が引っ越すことになり、
そのトラックを追尾する場面。
その時出したゴミ袋を開いて、
「腹腹時計」の続編にする予定だった
モデルガンの弾丸や薬莢を発見する場面。

佐々木のアパートを訪ねて来た若い女性を特定するために、
梅島駅から上野駅を経由して、
東北本線に乗り、
仙台で下車、
タクシーで追尾して、
福祉看護学校の女子寮に入った彼女が
一室の電灯を付けるまで尾行を続ける場面。

捜査員の張り込みと尾行の成果が
次第に関係者があぶり出されて来る経過は
小説のようにスリリングだ。


連続企業爆破事件に先立つ2年半前、
警視庁警務部長の土田國保邸で
郵便物による爆破事件が起こった。
民子夫人が犠牲になった。

↓写真の左端が土田氏、右端が民子夫人。

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この時の記述は涙を誘う。
民子夫人は野口明・元お茶の水女子大学長の娘である。
その父親野口氏を事件後、四谷駅で迎えた
弟子の鈴木勲(後の文化庁長官)氏の言葉。

私が申し上げる言葉もなく、
無言でお荷物をお持ちいたしますと、
先生は、私に、
『民子は苦しみましたか。即死でしたか』
と訊ねられました。
私は言葉に詰まりましたが、
『数社の記事では
爆発と同時のようでございます』
と申し上げたところ、
先生は、落ち着いた言葉で、
『そうでしたか、それならよかった。
数万の職員に代わって逝ったことだろうから、
民子も悔いてはいないだろう』
とおっしゃられました。
私は涙で声がつまり、
御返事ができませんでした。

土田氏自身の日記には、このようにある。

勝手口から寝室に入る。
天井には、まだ爆煙が立ちこめている。
今夜から、隣の弟の家で厄介になることにして、
身の廻りの物を集めようとするが力が入らない。
民子の布団や枕、
その他柩に入れる物を整理しようとしても、
嘆息と涙だけが出て来る。
あんなに苦労して、
やっと新築の家が出来て、
銀婚の祝いを迎えて、
将来はだんだんと楽が出来そうだと、
そしていろいろ趣味をふやしてゆくのだと
楽しみにしていたのに。
・・・この25年、
随分苦労を掛け通して来てしまった。
『私が死んだら、よよと泣き伏すくせに』などと、
日頃冗談で言っていた民子が、
本当にこうなってしまった。
本当に泣き伏したい気持だ。
しかし、まだ我慢せねはどならぬ。
まだ、これからやらねばならぬことがある。
(中略)
4時頃、目白署に着く。
剣道の江成婦警が、
目を腫らして、お茶を入れて呉れた。
夕刊一面トップに記事。
やがて、記者が集まったというので、
二階で百数十人にのぼる、
マスコミ関係者との共同会見。
ここで、犯人に対する世人の認識と、
再発防止への連帯を強く訴えなければ、
そして、民子の死が、
第一線の仲間達の本当の身代わりとして、
お役に立つことにならねばうそである。

こうして、土田氏は記者会見で、
後に語り草になる言葉を発する。

「この凶行をおかした犯人に
私は呼びかけたい。
君らは卑怯だ。
自分の犯した重大な結果について
自ら責任を負うことはできないだろう。
しかし少なくとも一片の良心があるならば、
このような凶行は
今回限りでやめてもらいたい。
そして、私の家内の死が
善良な何の関係も無い都民、
あるいは警視庁の第一線で働いている
交番の巡査諸君や
機動隊の諸君や
家族の身代わりになってくれたのだというような結果が
ここで生まれるならば
私は満足いたします。
以上です」


そして、三菱重工爆破事件から5カ月後の
1975年2月1日、
土田氏は警視総監に就任する。
記者会見で土田警視総監は、こう述べた。

「爆弾事件は必ず解決します。
私は、爆弾事件で家内を亡くした時、
現場のあまりの惨状を見て、
これが本当に解決できるのかと思いました。
しかし、1年3カ月に及ぶ捜査員の懸命の努力で、
無事、解決することができた。
しっかりした地取り捜査と
情報面からの捜査を徹底すれば、
必ず犯人に辿りつくと思っております。
全力を尽くします」


そして、1975年5月19日、
主要メンバーである
大道寺将司、大道寺あや子、佐々木規夫、益永利明、
斎藤和、浴田由紀子、黒川芳正
と協力者1人が
一斉に逮捕された。

この時のマスコミとの攻防も迫真的だ。
産経新聞が逮捕の情報をキャッチ、
19日朝刊でスクープを飛ばしたのである。
その了解を前夜に土田総監に取りに行く
産経新聞福井キャップの決意はなみなみならぬものがあった。
記事の差し止めを要請する土田氏。
しかし、地道に取材した記者たちを裏切るわけにはいかない福井は決意する。

私自身も、この日の朝のことは覚えている。
朝刊の見出しに、
「爆破犯 数人に逮捕状」
とあった時、仰天した。
その日の朝、逮捕だという。
犯人たちに情報が漏れて逃亡されないのか、と心配した

実際、逮捕に向かった刑事たちは、
伊勢崎線の梅島駅で、
逮捕を告げる産経新聞を目にして驚いているのである。

後で分かったことだが、
このスクープは最終版だけとし、
犯人の住居近辺では配達を遅らせ、
放送局にも配達を遅らせるという配慮をした。
NHKには、逆に土田総監が電話をかけ、
8時30分までは報道をしない協定を結んだという。

逮捕の瞬間の取材合戦もすごい。
警視庁から出る車を追跡する
記者たちも次々とまかれる。
その中で、ついに逮捕現場までたどりついた小野義雄カメラマン
大道寺将司の逮捕の瞬間の撮影に成功するあたりは、
一篇のサスペンス小説を読むかの趣きがある。

その時のスクープ写真が↓。

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逮捕され、尋問を受けた犯人たちは、
意外とあっさりと犯行を自供した。

国民が驚いたのは、
もうひとつ、
彼らが真面目で一途な横顔を持っていたことである。
高校時代から社会のさまざまな問題や矛盾に目を向ける
ひたむきささえ持つ若者たちだった。
だが、その真面目さが
逆に極限まで突きつめられ、
やがては、狂気の爆弾闘争にまで進んでいった。
そこでは、
人間の「命」さえ、
自分たちの目的のためには奪っていいという、
手前勝手で子供じみた思想が受け入れられた。
その時に、
「いや、目的のために人の命を奪うことは許されない」
と疑問の声を発するメンバーが
一人としていなかったことが、
この狂気の犯罪の本質を物語っている。
彼らは、その時、
「思想家」ではなく、
単なる狭隘な「殺人者」と成り果ててしまったのである。


その後、
1975年8月に日本赤軍によるクアラルンプール事件で
佐々木規夫が超法規的措置で釈放し逃亡。
また1977年に日本赤軍によるダッカ日航機ハイジャック事件で
大道寺あや子と浴田由紀子が超法規的措置で釈放され、
国外逃亡した。

裁判では1987年3月24日に大道寺将司と益永利明への死刑、
黒川芳正に無期懲役、
協力者には懲役8年が確定。
1995年に、
逃亡していた浴田由紀子がルーマニアで潜伏中に身柄を拘束され
日本に移送となり、懲役20年が確定した。

2014年現在、
大道寺将司も益永利明も確定死刑囚として東京拘置所に、
黒川芳正は宮城刑務所に、
浴田由紀子は栃木刑務所にそれぞれ収監されている。
国外逃亡犯に対する捜査が終わっていないため、
死刑は執行されていない。
国外逃亡した大道寺あや子と佐々木規夫は国際指名手配されている。
まだ事件は終わっていないのである。








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