『本能寺の変』  書籍関係

織田信長に関わる
戦国武将の一連の書籍も
これで打ち止め。

〔書籍紹介〕

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著者の明智憲三郎氏は、
明智光秀の末裔だという。

その手になる本能寺の変の新たなる検証

冒頭、通説として伝えられている「本能寺の変の顛末」には、
解明されていない大きな謎が
少なくとも7つある、
として挙げる。

@光秀の謀叛の動機
Aなぜ信長は、あれほど無警戒で本能寺にいたか
Bなぜ光秀は本能寺の変をやすやすと成功させ得たか
C家康の安土城訪問とその後の上洛がなぜあれほど無警戒だったか
D光秀の政権維持策
E本能寺の変の後、家康の取った行動
F秀吉の「中国大返し」がなぜあれほど成功したか

既に解明されているものもある気がするが、
筆者は新たな観点で解明の手を加える。

光秀の謀叛は
信長のよる苛烈な対応に対する
個人的怨みと天下取りの野望
を動機とするのは通説だが、
その通説は秀吉の書かせた
「惟任退治記」(これとうたいじき)が作り上げたものだ、という。

「惟任退治記」は、
本能寺の変から
わずか4カ月後の天正10年(1582年)に
羽柴秀吉が家臣の大村由己(ゆうこ)に書かせた書物。
「惟任」(これとう)とは、
光秀が朝廷から賜った名字。
この書で秀吉は、
@本能寺の変は光秀の単独犯行であった
A謀叛の動機は個人的怨みによる
B光秀は天下取りの野望を抱いていた
ということを公式化した。

時の権力者が
自分に都合の良い歴史を編むのはよくあることで、
その作為を筆者は様々な例をあげて反駁する。
たとえば、信長が光秀に辛く当たったというのは、
後の軍記物の作者が作り出したもので、
そういう例示は全くないことなど。

長い長い論証をまとめると、
次のような内容になる。

○謀叛の動機は出身母体である土岐氏再興の道を信長によって断たれそうになったこと
○信長の構造改革策で身近に親族を配し、光秀らはやがて遠ざけられることを予測した
○光秀・家康・細川藤孝の間で謀叛に対する談合があった
○信長は家康を上洛させ、本能寺で謀殺を企てており、その作戦を逆に光秀に活用された
○本能寺の変の後、家康の応援体制が整う前に秀吉が光秀を討ってしまい、家康が約束を果たせなかった
○昔自分の足軽であった光秀の配下になることを藤孝がよしとせず、談合を秀吉に打ち明けた
○秀吉は信長の実績主義のもとではやがて謀叛が出ることを予測し、光秀の謀叛を待っていた
○秀吉の迅速な「中国大返し」の実現は、毛利家の外交僧の力があった
○本能寺の変の後、朝廷は光秀政権を承認しようとしたが、秀吉の反攻が早すぎた
○秀吉・家康・藤孝の三者による秘密共有により、家康の織田領簒奪も不問に付された
○光秀との約束を果たせなかった負い目から、家康は光秀の片腕であった斎藤利三の娘・福を孫の竹千代(後の家光)の乳母に採用し、重用するという行為をとった。福は後に春日局になって権勢をふるう。また、家康は土岐氏を復活させてもいる。

という次第で、実に面白い。
もちろん反論はいくらでも出て来るのだろうが、
一つの見解として、
しかも、光秀の子孫が書いたものとして興味深く読んだ。

信長の政権運営の方法論に対する批判は、
次のような記述でなるほどと思った。

秀吉は、信長の成功の一因が
自分のような家臣を実力主義で登用するという
他の武将にはない政策によることを
よく知っていました。
しかし、この政策はいずれ
忠誠心の篤くない家臣の台頭を招くことになり、
さらには家臣相互間に軋轢を生み、
重臣の謀叛へとつながっていく
と読んでいたのではないでしょうか。

このときまで光秀は
秀吉が自分に敵対するとは
思っていなかった可能性もあります。
なぜなら、
光秀は自分の戦いを
「織田家」対「実力派家臣団」と
位置づけていたと思われるからです。
光秀の行動そのものが、
信長の政策に対抗する構図だったからです。
秀吉の中国大返しはそれだけに、
光秀にとって予想外のことだったのではないでしょうか。

また、本能寺の顛末を
脇からキリスト教の司祭・フロイスが詳細に書いて
ローマに送っていたことも興味深い。
特に、安土城の一室での信長と光秀の会議の詳細さえ
書かれているのは、
その場にいた小姓の彌助
フロイスに伝えたとされているのも面白い。
彌助とは、アフリカから連れて来られ、
信長に献上し、
信長の寵愛を得た黒人奴隷のことである。

この彌助は
本能寺の変に立ち会いながら、
信長の長子・信忠のいる二条城に行き、
信忠を守るために戦った男で、
伊東潤の「王になろうとした男」は、
この著作を参考にしたのかもしれない。

本能寺の変は、
戦国時代の一つの象徴的出来事で、
あらゆる権謀術数が集約している。
それだけに歴史家たちの興味を刺激してやまないのだろう。



クアラルンプールにて  

今日は、マラッカへ。
青雲亭寺院、オランダ広場、
セントポール教会、サンチャゴ砦
など。
2時間かけてマラッカまで行き、
2時間観光して、
又2時間かけて戻って来る、
というのも、
変なものです。
クアラルンプールに戻ってから、
オプションで、
チャイナタウン散策と
KLタワーへ。
これはよかった。
なにしろ市場とか夜市とかが
大好きですからね。
ホテルに戻ってから、
まだ早かったので、
モノレールに乗って、
繁華街ブキッ?ビンタンへ。
いやはやすごい人、人。
クアラルンプールの発展はすごいです。

指一本使っての
不自由な現地報告は、これで終わり。
帰国後、写真満載の旅行記を始めますので、
お楽しみに。

今日の写真は、ライトアップされた
ペトロナスツインタワー。

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