『光秀の定理』  書籍関係

戦国武将のシリーズ、
まだまだ続きます。

〔書籍紹介〕

クリックすると元のサイズで表示します             

レンマとはサンスクリット語。

「ある理論体系において、
その公理や定義をもとにして照明された命題。
そしてそれ以降の、推論の前提となるもの。
(例)ピタゴラスの定理。」

と冒頭に説明がある。

明智光秀の若い頃、
細川藤孝の元に身を寄せて
貧窮の中、鬱々として暮らしていた時代。

光秀は、京の街角で
食い詰めた兵法者・新九郎と
辻博打を生業とする謎の僧侶・愚息に出会う。
新九郎が辻斬りまがいのことをして金品を奪おうとしたのだが、
新九郎の腕を「見切った」光秀は
あっさり大小を差し出す。
しかし、愚息の妙なとりなしで
大小は戻され、
ここから3人の友情が始まる。

愚息が出す謎々のような問答に
「1から10まで足したらいくつか」
というのがあり、
また、愚息が出す「4つの茶碗」の賭博が
重要な伏線となっている。

それが「光秀の定理」という題名のもとだが、
その「4つの茶碗」というのは次のようなものだ。

回答者を後ろ向きにして、
伏せた四つの椀の一つに石を入れ、
石の入った一つの椀を当てさせる。
相手が一つの椀を選んだら、
他の三つの椀のうち、
空である二つを開けてみせる。
選んだ椀と残りの椀、
どちらか一つに石が入っている状態で、
再び、選択権が与えられる。
最初に賭けた椀を選ぶか、
もう一方の椀に変えるか。
確率は2分の1のはず。
しかし、回数を重ねると圧倒的に「愚息」が勝っていく。
それはなぜなのか。

光秀は織田信長に取り立てられ、
木下藤吉郎以上の待遇を受ける。
そして、信長から長光寺城攻めの命を受け、
4つの登る道の一つを選択しなければならない時、
この「4つの茶碗」を思い出すのである。

明智光秀の若い頃に焦点を当て、
3人が出会うことによって、
その後の歴史の大きな流れが形作られる。

そして、本能寺
なぜ光秀が信長に謀叛を起こしたか、
その謎を愚息と新九郎に論じさせるが、
このあたりは、
後説明で弱い。

しかし、神をも恐れぬ信長を巡る宗教論争は面白い。

たとえば、松永弾正は、
信長から「神は、いると思うておるのか」と問われ、答える。

おそらくは、いますまい、と。
「もしいたとしても、人間のことなど、
ことさら興味も持たぬかと思われます」
「何故じゃ」
「人間といえども、
所詮は流転する万物のひとつ」
なおもゆるゆると笑いながら、松永は続ける。
「あまたを照らす彼らも、
それほど暇ではありますまい」


信長と光秀の宗教観も述べられる。

信長は、
その仏の本道から外れ、
教団の利益拡大のために
仏の教えを唱える一向宗や、
世俗の権力に塗れて
形骸化していった比叡山などを、
異常なまでに憎悪した。
そもそも一向宗(浄土真宗)の遥かな開祖である
親鸞自身が、
その死に際に
「親鸞は弟子一人も持たず候」
と言い残し、
自らの教えの組織化を明確に否定しているのだ。
そのように清貧を全うした開祖の意に反して
教団を組織し、
教団利益のために変質を繰り返し、
念仏を唱えさせることによって
土民百姓を戦場に赴かせた
後世の一向宗を、
信長が許せるはずもない。
光秀もまた、
宗教というものの持つ
過去からの英知には尊敬の念を抱いていたが、
かといって、
その知的権威の上に
傲然として胡座をかく
当時の僧侶までをも尊敬するという、
べたついた心根は持っていなかった。

信長と光秀の共通点もこのように書く。

不合理な因習を廃し、
民を富ませ、
流通を盛んにすることが、
最終的には自国の富強に繋がる
最も効果的な施策だということを、
信長も光秀も
共通認識としてよく分かっていた。

朝廷については、このよう描写する。

じゃがの、と愚息はさらに首をかしげた。
「その疑問を、わしは今も持つ。
一向宗や比叡と同様、
この国の公卿や朝廷ほど
愚劣で役に立たぬものはない。
何故おぬしは、
今ではそうは思わぬのか」
すると光秀はまた力なく笑った。
「よくは分からん。なんとなくじゃ」
そう、先ほどと同じ言葉を繰り返した。
「ただ、完全に滅びぬものには
滅びぬだけの理由があるのだろう・・・
近頃よく、そう感じるのみだ」
それっきり光秀は、
この話題に関しては口をつぐんだ──。

日本という国の持つ特異性についても触れる。

「たとえばな、
わしは釈尊の言われた原典しか信じぬ。
法華宗も一向宗も、ヤソ教の教義にも、
なぜか馴染めぬものも感じる。
じゃがの、
わしが信じる仏道以外は根絶やしになればいいとも思わん。
わし自身が信じる釈尊の教えを、
人に強いようとも思わん。
わしだけではなく、
一向宗の堅門徒以外なら、
この日の本の民はみなそう思っているのではあるまいか」

「むしろ百花繚乱、
いろんな神や仏のあり方があってよい。
現にこの日の本では、
大昔から神と仏を一緒に拝むではないか」

「一人の神よりも、
百人の神がいたほうが安心する。
あるいは、
相容れぬ神が共に共存してこそ安心する」

垣根涼介初の時代小説にして、
新感覚の歴史小説である。






AutoPage最新お知らせ