中欧旅行記・4 アウシュヴィッツ  

クラクフの町から1時間ほどで、

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オシフィエンチムに着きます。

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この町は、ドイツ語でアウシュヴィッツ
あのナチの強制収容所があったところです。
今、跡地は博物館になっており、見学出来ます。

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アドルフ・ヒトラー率いるナチス党政権下のドイツが行った
ホロコーストの象徴と言われる
「アウシュヴィッツ強制収容所」は、
1940〜45年にかけて
現在のポーランド南部
オシフィエンチム市郊外につくられた、
施設群の総称です。

↓広大な敷地で、

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下の方にあるのが第一収容所で、
上にあるのが、
更に規模の大きい
第二収容所(ビルケナウ収容所)です。

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門には、
「ARBEIT MACHT FREI 」(働けば自由になる)と記されています。
嘘です。

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敷地を取り巻く鉄条網。

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高圧電流が流れていたといいます。

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鉄条網は、二重になっています。

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収容されたのは、
ユダヤ人、政治犯、ジプシー、精神障害者、身体障害者、同性愛者、捕虜、聖職者、
さらにはこれらを匿った者など。
しかし、最大はユダヤ人です。

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平均して13,000〜16,000人、
多い時で20,000人が収容されていました。
ドイツ本国の強制収容所閉鎖による流入や、
1941年を境にして顕著になった
強引な労働力確保(強制連行)により規模を拡大。
ピーク時の1943年には
アウシュヴィッツ全体で14万人が収容されたといいます。

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元々は、ポーランド軍兵営の建物でした。

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今、建物の中は、

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当時の様々な資料が

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展示されています。

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これは、

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収容所に着いて、不安を抱える人々の姿。

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各地から貨物列車に詰め込まれて

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連行された人々は、

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全財産をカバン一つに入れて来ましたが、

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まず駅でそれらは全て奪われます。

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胸に付いているのは、
強制的につけられたダビデの星。

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ユダヤ人であるしるしです。

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「死の道」と名付けられた道を

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行進させられます。

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まず行われたのは、「選別」。

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オシフェンチムの貨車駅
(1944年5月以降は
第二強制収容所ビルケナウに作られた鉄道引込線終着点)
で降ろされ、
「収容理由」「思想」「職能」「人種」「宗教」「性別」「健康状態」
などの情報をもとに
「労働者」「人体実験の検体」、
そして「価値なし」などに分けられました。
価値なしと判断された被収容者はガス室などで処分されます。
その多くが、女性、子供、老人であったとされます。
ここで言う「子供」とは身長120cm以下の者を指しますが、
学校や孤児院から集団で送られて来ていた子供たちは
形式的な審査もなく、
引率の教師とともにガス室へ送られたといいます。

一説には
「強制収容所到着直後の選別で、
70〜75%が、
なんら記録も残されないまま
即刻ガス室に送り込まれた」

とされており、
このため正確な総数の把握は現在に至っても出来ていません。

たとえ労働力として認められ、
収容されたとしても多くは使い捨てであり、
非常に過酷な労働を強いられました。

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最初の処分を免れた被収容者は、
男女問わず頭髪を全て刈られ、
消毒、写真撮影、管理番号を刺青するなど
入所にあたっての準備や手続きを行います。
私物は「選別」の段階までに、
全て没収されており、
与えられる縦じまの囚人服が唯一の所持品となります。

当初の部屋内は藁敷きでした。

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やがて薄いマットが配られ、

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三段ベッドも作られましたが、
一段に5〜9人が詰め込まれました。

この地域は、夏は最高で37度、
冬は最低でマイナス20度を下回ります。
掛け布団は汚れて穴だらけの毛布(薄手の麻布に過ぎない)のみでした。

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洗面所と

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トイレ。

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強制収容所内にヒエラルキーが形成され、
ドイツ人を頂点に、西・北ヨーロッパ人、スラブ人、
最下層にユダヤ人や同性愛者、ジプシーが置かれ、
下層にあればあるほど食料配給量や宿舎の設備、労働時間など
あらゆる面で過酷状況に置かれ、死亡率も高くなりました。
心理面では、
下層の被収容者がいることで上層の者に多少の安心を与えると共に、
被収容者全体がまとまって反抗する機運をつくらせない狙いがあったと考えられます。

被収容者の中から管理者が指名され、
カポと呼ばれました。
カポはナチの親衛隊以上に
収容者を抑圧しました。
よく殴りました。
カポには、個室やまともな食事が与えられました。

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↓は、「死の壁」。

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逃亡者や収容所内でのレジスタンス活動を行った者に対して
銃殺刑を執行した場所です。
首吊りにし、見せしめにもしました。

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懲罰は、被収容者に心理的な抑圧を与えることを目的とし、
被収容者をコントロールする要となりました。

懲罰は、
「鞭打ち」「後ろ手に縛り体を杭に吊るす」「特別監房への移送」「過重労働(懲罰隊への入隊)」「懲罰点呼」などが挙げられます。
たとえば、90cm×90cmの狭いスペースに4人を押し込む「立ち牢」や、
一切の水・食料を与えない「飢餓牢」は、体力を確実に消耗させ、
死に至らしめます。
これらの懲罰の存在は、
被収容者たちに計り知れない恐怖を与えました。
また「銃殺刑」や「絞首刑」は、
具体的な死の姿を瞬間的に見せつけ、
しばしば所内にとどろく銃声は
直接これを見ずとも
緊張と忘れがたい恐怖を植えつけるのに十分でした。
絶望のあまり自ら高圧電流が流れる鉄条網に触れて自殺する者もいたといいます。

脱走があるごとに、
脱走者の10倍の人数を見せしめとして無作為に選び、
「飢餓刑」にすることが恒常的に行われていました。
マキシミリアノ・コルベ神父が身代わりとなったのは、
失敗した脱走者に対する見せしめとしてでした。

1941年7月末、
脱走者が出たことで、
無作為に選ばれた10人が餓死刑に処せられることになりました。
囚人たちは番号で呼ばれていきましたが、
フランツェク・ガイオニチェクというポーランド人軍曹が
「私には妻子がいる」と泣き叫びだしたのです。
この声を聞いたとき、
そこにいたコルベ神父は
「私が彼の身代わりになります、
私はカトリック司祭で妻も子もいませんから」
と申し出ました。

コルベ神父↓。
日本の長崎でも宣教している、日本に縁のある神父です。

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通常、餓死刑に処せられると
その牢内において受刑者たちは
飢えと渇きによって錯乱状態で死ぬのが普通でしたが、
コルベ神父は全く毅然としており、
他の囚人を励ましていました。
時折牢内の様子を見に来た
通訳のブルーノ・ボルゴヴィツは、
牢内から聞こえる祈りと歌声によって
餓死室は聖堂のように感じられた、
と証言しています。
2週間後、
当局はコルベを含む4人はまだ息があったため、
フェノールを注射して殺害しました。

ボルゴヴィツはこの時のことを以下のように証言しています。

マキシミリアノ神父は祈りながら、
自分で腕を差し伸べました。
私は見るに見かねて、
用事があると口実を設けて外へ飛び出しました。
監視兵とボフが出て行くと、
もう一度地下に降りました。
マキシミリアノ神父は壁にもたれてすわり、
目を開け、頭を左へ傾けていました。
その顔は穏やかで、美しく輝いていました。

コルベ神父は、
「アウシュビッツの聖者」といわれ、
その後、カトリック教会は1982年、聖人に列しました。

このように、
絶望的状況の中にあっても人間性を失わなかった人がいたことは、
わずかな希望を与えます。

この収容所内の精神的問題は、
フランクルの「夜と霧」に詳しく書かれています。

食事は、
朝食:約500ccのコーヒーと呼ばれる濁った飲み物(コーヒー豆から抽出されたものではない)。
昼食:ほとんど具のないスープ。
夕食:300gほどの黒パン、3グラムのマーガリンなど。
食料の奪い合いが個人やグループ間で日常的にあったとされます。

廊下に展示された被収容者の写真。

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不条理な殺され方をした恨みがこもっているかのようです。

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この少女は、アンネ・フランクと同じ15歳

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収容所に連行されて5カ月で亡くなっています。

戦争末期、
ガス室などは、
証拠隠滅のために破壊されましたが、
アウシュヴィッツ最初のガス室とされる施設が
復元され、一般に公開されています。

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「シャワーを浴びる」と嘘をつかれ、
全裸になった犠牲者たちは、
ここに押し込められました。

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この穴からチクロンBの缶が投げ入れられました。

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チクロンBは、
ノミやシラミの退治する殺虫剤で、
揮発性が強く、
密閉した部屋での殺傷力が強いのです。
しかし、投げ込む役はナチではなく、
被収容者にさせました。
↓使用したチクロンBの缶。

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隣接した焼却炉

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ナチは、効率良く処刑を行うための研究班を配し
「32分で800名の処刑が可能であった」といわれています。

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死体から剃られた毛髪。

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死体の金歯は抜かれ、溶かされました。
今もインゴッドには、
その時の金が混ざっているかもしれません。

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ガス室への行列をあらわすジオラマ(?)。

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そんな過去の歴史も知らぬ気に、
空はこんなにも青い。

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所長だったルドルフ・フランツ・フェルディナント・ヘスは、
1947年4月16日、
戦犯として、ここで絞首刑に処せられました。

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あまりにいたましい記憶の場。

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とてもいたたまれない気持ちにさせられました。

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バスで5分ほど走ったところに、
第二収容所ビルケナウがあります。

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構内まで列車の引き込み線が入っています。

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向こうの終点でユダヤ人たちは降ろされ、
全てを奪われました。

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被収容者の増加を補うため、
1941年10月、
この村に
絶滅収容所として開所されました。
総面積は1.75平方キロメートル(東京ドーム約37個分)で、
300以上の施設からなります。

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ピーク時の1944年には9万人が収容され、
そのほとんどがユダヤ人でした。
アンネ・フランクが最初に送り込まれたのもここです。

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ここは、バラックと言うべき非常に粗末なつくりで、
もともと、ポーランド軍の馬小屋であったものや、
のちに一部は基礎工事なしで建てられたため床がなく、
上下水道が完備されていないため地面は土泥化していました。

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木造の建物で、
すきま風が否応なく吹き込みました。

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暖房は簡素なものがありましたが、
燃料の供給はされなかったと言われ、
なぜこのような暖房設備が作られたのか、
理由は不明です。

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トイレは、
長大な縦長の大きな桶の上にコンクリの板を置き、
表面の左右に丸い穴をあけただけのもので、
トイレの使用は、午前・午後2回に制限されており、
目隠しになるものもなく、一斉に使用を強制されました。

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非衛生的環境であったため、
病原性の下痢も蔓延しており、
きわめて非人間的扱いがなされました。

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ガス室は、
農家を改造したものが2棟と複合施設が4棟の計6棟があったとされます。
これらのガス室と焼却炉で、
一日4576体の遺体を処理出来たといいます。
これらは撤退時に行われた
証拠隠滅を目的とした破壊により原型をとどめていません。

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ここでは、列車から降りて
ガス室に直行する者も多く、
目的がユダヤ人の絶滅であったことが分かります。

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これらの行為は、
国として合法的に行われました。

ヒトラーを選んだのも、
ナチに政権を私渡したのも、
正式な選挙でした。

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その結果、
アウシュヴィッツだけで
150万人のユダヤ人が
ユダヤ人だというだけの理由で殺されたのです。

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こうした過ちが再び繰り返されないように、
人類の負の遺産として、
ユネスコは世界遺産に登録しました。
その名称は、
「アウシュヴィッツ・ビルケナウ〜ドイツ・ナチの強制・絶滅収容所」
「絶滅」という言葉が入っています。

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最近は、日本人の訪問者も多いらしく、
↓は売っていた2冊のバンフレット。

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このツァーを選んだのは、
アウシュヴィッツがコースに入っていたから。
20世紀に生まれた者として、
一度は訪問すべき場所だと思ったからです。






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