帰国しました 旅行関係
昨日、夕刻、シルクロードの旅から帰国しました。
コースは下記のとおり。

上海経由で西安に入り、
飛行機でウルムチに。
ここからトルファン、敦煌、嘉峪関、西安と、
西からシルクロードの起点、西安(昔の長安)への道を辿ります。
旅行社は、いつものトラピックス(阪急交通社)。

参加者は17人。
ご夫婦の参加者が2組、
男性の友人同士が1組、
あとの11人は一人参加で、
男性7人、女性4人。
一人参加の多さに驚かされますが、
たとえば、ある奥さんに「ご主人は?」と訊くと、
「主人、中国が嫌いで・・・」
という答が帰って来ました。
シルクロードの旅は、絵になる風景が多く、
沢山写真を撮りました。
林立する風力発電の風車。

高昌古城。

「西遊記」にも出て来る、火焔山。

夜行の寝台列車に乗って、

中国大地の朝焼けと

日の出を見ました。

鳴沙山と


月牙泉。

世界遺産・莫高窟。(ただし、これは掲示写真で、実際は修復中)

万里の長城の西の果て、嘉峪関。

懸壁長城。

西安の町の中心にある鐘楼。ライトアップがきれい。

世界遺産・兵馬俑坑。

秦始皇帝陵の文物も見ました。

大雁塔。

夜のショー。

今回、毎日の報告が出来なかったのは、
中国のホテルは、
WiFiがロビーでしか使えず、
その上、電波が弱いのか、
Yahooまでは入れるものの、
ブログには、
「ページが開けません」と出て、
入れなかったからです。
詳しい写真は、
順に旅行記に掲載します。
乞うご期待。
コースは下記のとおり。

上海経由で西安に入り、
飛行機でウルムチに。
ここからトルファン、敦煌、嘉峪関、西安と、
西からシルクロードの起点、西安(昔の長安)への道を辿ります。
旅行社は、いつものトラピックス(阪急交通社)。

参加者は17人。
ご夫婦の参加者が2組、
男性の友人同士が1組、
あとの11人は一人参加で、
男性7人、女性4人。
一人参加の多さに驚かされますが、
たとえば、ある奥さんに「ご主人は?」と訊くと、
「主人、中国が嫌いで・・・」
という答が帰って来ました。
シルクロードの旅は、絵になる風景が多く、
沢山写真を撮りました。
林立する風力発電の風車。

高昌古城。

「西遊記」にも出て来る、火焔山。

夜行の寝台列車に乗って、

中国大地の朝焼けと

日の出を見ました。

鳴沙山と


月牙泉。

世界遺産・莫高窟。(ただし、これは掲示写真で、実際は修復中)

万里の長城の西の果て、嘉峪関。

懸壁長城。

西安の町の中心にある鐘楼。ライトアップがきれい。

世界遺産・兵馬俑坑。

秦始皇帝陵の文物も見ました。

大雁塔。

夜のショー。

今回、毎日の報告が出来なかったのは、
中国のホテルは、
WiFiがロビーでしか使えず、
その上、電波が弱いのか、
Yahooまでは入れるものの、
ブログには、
「ページが開けません」と出て、
入れなかったからです。
詳しい写真は、
順に旅行記に掲載します。
乞うご期待。
中欧旅行記・10 ベルリン 旅行関係
いよいよ、最終目的地・ベルリンへ。

市内に入ってすぐ目に付くのは、
わずかに残されている壁。
壁画のギャラリーにもなっており、

日本人の作品もあります。

大聖堂。

高さ114mの天蓋を持ちます。

正面入口左右には、
宗教改革者・ルターのレリーフがあります。


旧博物館。
ベルリンの建物は、とにかく巨大です。



噴水に、私の旅で恒例の虹が出ました。

大聖堂の近所には、
博物館が集まったところがあり、
世界遺産に指定されています。
前にペルガモン博物館で、
ゼウスの祭壇を見て、
度肝を抜かれた記憶があります。
テレビ塔。

ベルリンの旧市街地の建物は、
景観を保つために、
17世紀に定められた高さ制限(25m)があったのですが、
東ドイツは、制限を無視して、こんな高いものを作りました。
ある場所に行くと、道にこんなものが。

辿っていくと、

ここにつながります。

東西対立の象徴、ベルリンの壁。

1961年8月13日0時、
東ドイツ政府は、
東西ベルリン間68の道全てを遮断し、
有刺鉄線で、最初の「壁」の建設を開始しました。
6時までに東西間の通行はほとんど不可能になり、
午後1時までにほぼ建設が完了し、
2日後には石造りの壁の建設が開始されました。

東ドイツは当時、
この壁は西側からの軍事的な攻撃を防ぐためのものであると主張しましたが、
これは名目で、
実際には東ドイツ国民が西ベルリンを経由して
西ドイツへ流出するのを防ぐためのものでした。
壁は、後に数度作り変えられ、
1975年に完成した最終期のものは
コンクリートでできており、
壁の総延長は155kmに達しました。

こうして、ベルリンの壁は、
東西冷戦対立の象徴となり、
引き裂かれた家族の悲劇を生んみます。
壁を突破して西ベルリンに逃れる人も多くありました。
やがて、雪解けが起こり、
1989年になると、
東ヨーロッパ諸国が相次いで民主化されます。
同年5月、
ハンガリー政府がオーストリアとの国境を開放。
ハンガリー経由での亡命に希望を持った
東ドイツ国民が夏期休暇の名目でハンガリーを訪れました。
ハンガリー経由での出国が可能になった以上、
もはやベルリンの壁は有名無実化しつつあり、
11月9日、
東ドイツは、旅行自由化の政令案を作成、
政令の発表は翌日の11月10日の朝を予定していたのですが、
手違いにより国境警備隊への連絡の前に
生放送で記者会見が行われ、
東ドイツ政府のスポークスマンが
「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、
すべての国境通過点から出国が認められる」
と誤って発表してしまいます。
テレビがこれを報道し、
同日夜、多数の東ベルリン市民が
ベルリンの壁周辺の検問所に多数詰めかけます。
国境警備隊員は市民の暴動と思い込んで
とっさに検問所のゲートを開けてしまい、
壁は意味を失ってしまいます。
日付が変わった11月10日未明、
興奮した東西両ベルリン市民によって
壁が破壊され、
のちに東ドイツによってほぼすべてが撤去されました。
ただし歴史的な意味のある建造物のため、
一部は記念碑として残されています。
ベルリンの壁崩壊により
東西両ドイツの国境は事実上なくなり、
東西ドイツの融合を加速し、
1990年10月3日の
東西ドイツの統一につながります。
その年号が地面の帯には刻まれています。

しかし、壁の崩壊から既に24年たつとは。
あの頃は永遠に壁が続くかと思えたのに。
壁自体は意外と薄い。
上には、乗り越えにくいように、
蒲鉾型の瓦のようなものが乗っています。

ここの保存された壁は、
展示場にもなっており、

ナチスの狂気とユダヤ人弾圧の歴史を教えています。

主に写真です。

説得力があります。

ナチスの台頭。

反対者への弾圧。

焚書。

「本を焼く国は、やがて人を焼くようになる」
と言ったのは、どなたでしたっけ。

ユダヤ人の烙印。


それにしても、
こんな目つきの悪い小男に、何故
ドイツ国民は熱狂したのでしょうか。



まあ、もじゃもじゃ髪の風采のあがらない
太った男を「将軍さま」と呼んで敬愛した隣国の例もありますし。

若者たちもとりこに。

身の毛もよだつ大集会。

トイレはどうしたのでしょう。

人類の教訓としていきましょう。

ベルリンは今、建設ラッシュのようです。


窓から見えるこれは何?


ユダヤ人犠牲者記念館でした。

このコンクリート製石碑は、

全部で2711本あり、

どこへとも分からず連れて行かれた

ユダヤ人たちの恐怖と不安を表しているのだとか。

地下に展示室があります。


↓戦勝記念塔。

1864年から1871年までの
3つの戦争に勝利を記念して建てられました。
高さ67mの上に、
金色の勝利の女神ヴィクトリアが。

シャルロッテンブルク宮殿。

初代プロイセン国王フリードリヒ一世の妃、
ゾフィー・シャルロッテの夏の別荘。

屋根の上の像は、
風向きによって方向を変えます。

その他、

あれこれ建物を見ましたが、


やはり、ここを見なければ終わりません。

ブランデンブルク門です。

ベルリンにはかつて18の市門がありましたが、
現存しているのは、
ブランデンブルク門だけ。
ここにも壁の跡があります。

古い写真で、このとおり。

崩壊した壁の上に乗る人々。
このあたりの壁は厚かったようです。

1788〜91年に、
プロイセン国王の凱旋門として、
アテネの神殿の門を手本にして建てられました。
門の上には、勝利の女神と4頭立ての馬車。

1806年にプロイセンを破ったナポレオンが
パリに持って行ってしまいましたが、
1814年に返されました。
↓は、元のグランド・ホテル。

ここの窓からマイケル・ジャクソンが子供を見せ、
「幼児虐待」と言われた所です。
テレビ塔の丸い部分に光が当ると
十字架に見えるのは、
「ローマ法皇の復讐だ」という話もあったとか。

壁があった時代は通れませんでしたが、
今は誰もが通行可能。

今は自由を謳歌しています。
↓は、足こぎ自転車。
ビールを飲みながらこぐので、
酔いが回るのが早いとか。

冷戦時代を知らず、

おどける人たち。

平和です。

ゆるキャラ?



ブランデンブルク門の見納めです。

翌朝はベルリン空港から出発。

アムステルダム空港内にはカジノがあります。

絶好の暇つぶしですが、
あっという間に20ユーロ吸い上げられました。

空港内のラーメン屋。

一番安い野菜ラーメンを注文。

9ユーロ50。(1250円位)味は微妙。

再び機上の人となって成田まで。

ずっと天気に恵まれて、
素晴らしい旅が出来ました。
バスによる走行距離は2017q。
モロッコの時より長く、
日本列島より長い距離を走ったことになります。
これで中欧旅行記は終わりです。
すぐまたシルクロード旅行記が始まります。

市内に入ってすぐ目に付くのは、
わずかに残されている壁。
壁画のギャラリーにもなっており、

日本人の作品もあります。

大聖堂。

高さ114mの天蓋を持ちます。

正面入口左右には、
宗教改革者・ルターのレリーフがあります。


旧博物館。
ベルリンの建物は、とにかく巨大です。



噴水に、私の旅で恒例の虹が出ました。

大聖堂の近所には、
博物館が集まったところがあり、
世界遺産に指定されています。
前にペルガモン博物館で、
ゼウスの祭壇を見て、
度肝を抜かれた記憶があります。
テレビ塔。

ベルリンの旧市街地の建物は、
景観を保つために、
17世紀に定められた高さ制限(25m)があったのですが、
東ドイツは、制限を無視して、こんな高いものを作りました。
ある場所に行くと、道にこんなものが。

辿っていくと、

ここにつながります。

東西対立の象徴、ベルリンの壁。

1961年8月13日0時、
東ドイツ政府は、
東西ベルリン間68の道全てを遮断し、
有刺鉄線で、最初の「壁」の建設を開始しました。
6時までに東西間の通行はほとんど不可能になり、
午後1時までにほぼ建設が完了し、
2日後には石造りの壁の建設が開始されました。

東ドイツは当時、
この壁は西側からの軍事的な攻撃を防ぐためのものであると主張しましたが、
これは名目で、
実際には東ドイツ国民が西ベルリンを経由して
西ドイツへ流出するのを防ぐためのものでした。
壁は、後に数度作り変えられ、
1975年に完成した最終期のものは
コンクリートでできており、
壁の総延長は155kmに達しました。

こうして、ベルリンの壁は、
東西冷戦対立の象徴となり、
引き裂かれた家族の悲劇を生んみます。
壁を突破して西ベルリンに逃れる人も多くありました。
やがて、雪解けが起こり、
1989年になると、
東ヨーロッパ諸国が相次いで民主化されます。
同年5月、
ハンガリー政府がオーストリアとの国境を開放。
ハンガリー経由での亡命に希望を持った
東ドイツ国民が夏期休暇の名目でハンガリーを訪れました。
ハンガリー経由での出国が可能になった以上、
もはやベルリンの壁は有名無実化しつつあり、
11月9日、
東ドイツは、旅行自由化の政令案を作成、
政令の発表は翌日の11月10日の朝を予定していたのですが、
手違いにより国境警備隊への連絡の前に
生放送で記者会見が行われ、
東ドイツ政府のスポークスマンが
「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、
すべての国境通過点から出国が認められる」
と誤って発表してしまいます。
テレビがこれを報道し、
同日夜、多数の東ベルリン市民が
ベルリンの壁周辺の検問所に多数詰めかけます。
国境警備隊員は市民の暴動と思い込んで
とっさに検問所のゲートを開けてしまい、
壁は意味を失ってしまいます。
日付が変わった11月10日未明、
興奮した東西両ベルリン市民によって
壁が破壊され、
のちに東ドイツによってほぼすべてが撤去されました。
ただし歴史的な意味のある建造物のため、
一部は記念碑として残されています。
ベルリンの壁崩壊により
東西両ドイツの国境は事実上なくなり、
東西ドイツの融合を加速し、
1990年10月3日の
東西ドイツの統一につながります。
その年号が地面の帯には刻まれています。

しかし、壁の崩壊から既に24年たつとは。
あの頃は永遠に壁が続くかと思えたのに。
壁自体は意外と薄い。
上には、乗り越えにくいように、
蒲鉾型の瓦のようなものが乗っています。

ここの保存された壁は、
展示場にもなっており、

ナチスの狂気とユダヤ人弾圧の歴史を教えています。

主に写真です。

説得力があります。

ナチスの台頭。

反対者への弾圧。

焚書。

「本を焼く国は、やがて人を焼くようになる」
と言ったのは、どなたでしたっけ。

ユダヤ人の烙印。


それにしても、
こんな目つきの悪い小男に、何故
ドイツ国民は熱狂したのでしょうか。



まあ、もじゃもじゃ髪の風采のあがらない
太った男を「将軍さま」と呼んで敬愛した隣国の例もありますし。

若者たちもとりこに。

身の毛もよだつ大集会。

トイレはどうしたのでしょう。

人類の教訓としていきましょう。

ベルリンは今、建設ラッシュのようです。


窓から見えるこれは何?


ユダヤ人犠牲者記念館でした。

このコンクリート製石碑は、

全部で2711本あり、

どこへとも分からず連れて行かれた

ユダヤ人たちの恐怖と不安を表しているのだとか。

地下に展示室があります。


↓戦勝記念塔。

1864年から1871年までの
3つの戦争に勝利を記念して建てられました。
高さ67mの上に、
金色の勝利の女神ヴィクトリアが。

シャルロッテンブルク宮殿。

初代プロイセン国王フリードリヒ一世の妃、
ゾフィー・シャルロッテの夏の別荘。

屋根の上の像は、
風向きによって方向を変えます。

その他、

あれこれ建物を見ましたが、


やはり、ここを見なければ終わりません。

ブランデンブルク門です。

ベルリンにはかつて18の市門がありましたが、
現存しているのは、
ブランデンブルク門だけ。
ここにも壁の跡があります。

古い写真で、このとおり。

崩壊した壁の上に乗る人々。
このあたりの壁は厚かったようです。

1788〜91年に、
プロイセン国王の凱旋門として、
アテネの神殿の門を手本にして建てられました。
門の上には、勝利の女神と4頭立ての馬車。

1806年にプロイセンを破ったナポレオンが
パリに持って行ってしまいましたが、
1814年に返されました。
↓は、元のグランド・ホテル。

ここの窓からマイケル・ジャクソンが子供を見せ、
「幼児虐待」と言われた所です。
テレビ塔の丸い部分に光が当ると
十字架に見えるのは、
「ローマ法皇の復讐だ」という話もあったとか。

壁があった時代は通れませんでしたが、
今は誰もが通行可能。

今は自由を謳歌しています。
↓は、足こぎ自転車。
ビールを飲みながらこぐので、
酔いが回るのが早いとか。

冷戦時代を知らず、

おどける人たち。

平和です。

ゆるキャラ?



ブランデンブルク門の見納めです。

翌朝はベルリン空港から出発。

アムステルダム空港内にはカジノがあります。

絶好の暇つぶしですが、
あっという間に20ユーロ吸い上げられました。

空港内のラーメン屋。

一番安い野菜ラーメンを注文。

9ユーロ50。(1250円位)味は微妙。

再び機上の人となって成田まで。

ずっと天気に恵まれて、
素晴らしい旅が出来ました。
バスによる走行距離は2017q。
モロッコの時より長く、
日本列島より長い距離を走ったことになります。
これで中欧旅行記は終わりです。
すぐまたシルクロード旅行記が始まります。
中欧旅行記・9 ドレスデン 旅行関係
ドイツでは、ケムリッツという町に泊まりました。
ホテルの側を散策しました。

このホテルは林の中、

住宅街にあります。

何の工場の煙突でしょうか。カラフル。

近所に池もあります。

これで、夜10時。

ベンチと教会と煙突。

翌日は、ドレスデンへ。

ドレスデンは、
16世紀以降、ザクセン王国の首都として栄えました。
「エルベの真珠」「エルベのフィレッツェ」と讃えられました。
劇場広場。

その名前のとおり、
ここには、ザクセン州の州立歌劇場があります。

建設者のゴットリート・ゼンパーの名前から、
「ゼンパー・オペラ」と呼ばれています。
リヒャルト・ワーグナーが初代指揮者。
ワーグナーの「さまよえるオランダ人」
「タンホイザー」は、この劇場で初演されました。
正面上の像はバッカス夫妻。

入口の左右を飾る像は、

ゲーテと

シラーの像。

建物正面にそびえる騎馬像は、

この劇場の発注者の
ザクセン王ヨハン。


ドレスデン城。


旧宮廷教会。

実は、ドレスデンは、
第二次大戦の際、
連合軍の空襲を受け、
9割が破壊されました。
それで、これらは、戦後の復旧したもの。
従って、世界遺産ではありません。

エルベ川にかかる橋。

エルベ川は、モルダウ川が流れ込み、北海に注ぎます。

観光船の煙突は、
橋をくぐる時、倒れます。

城壁には、こんな絵が。

「君主の行列」。
102mあります。

歴代のザクセン王35名が行進する壁画は、

約2万5千枚もの磁器製です。

第二次世界大戦の空襲でも、
奇跡的に損壊をのがれました。

行進の最後には、

ちゃっかり作者も描かれています。
コテを持っているのが作者のウィルヘルム・ワルサー。

アルトマルク広場。

ここに建つのが、フラウエン教会。

実は、空襲でこんなになりました。

建てるのには6118日もかかったのに、
破壊には、
1945年2月13日のわずか1夜しかかかりませんでした。
戦争の悲惨さを伝えるために、
廃墟のままの姿をさらしていましたが、
1994年に再建が始まり、
2005年10月30日に昔の姿で蘇りました。
破片を元通りに積み直す作業は「世界最大のパズル」と言われました。
30万個の瓦礫が組み合わさって再現されています。
↓瓦礫の一部が展示されています。

教会の前にはルターの像が立っています。

こんな通路もあります。

ツヴィンガー宮殿。

中庭。

宮殿は、
強王の名を持つザクセン王アウグスト1世が

1709〜32年にかけて建てた

ドイツ・バロック建築の傑作。

ヨハン王の像の見える通路にある

入口は、

アルトマイスター絵画館。

アウグスト強王の息子、
アウグスト二世によって集められた世界の名画の数々。
館内は撮影禁止ですので、
購入した写真集から。
ティツィアーノ「貢の銭」

レンブラント「レンブラントとサスキア」

リオタール「ショコラの娘」

フェルメール「窓辺で手紙を読む娘」

フェルメール「娼婦宿の女主人」(「取り持ち女」「やり手婆」ともいう)

これで、見たフェルメールは13作になりました。
37作全て見るのには、まだ道は遠い。
コレッジョ「聖ゲオルギウスの聖母」

エル・グレコ「盲人の治癒」

ヴァン・ダイク「聖ヒエロニムス」

ムリーリョ「マリアと子供」

こんなマリアは初めてです。
ベラスケス「紳士の肖像画」

ルーベンス「噴水のバスセバ」

デューラー「ベルンハルト・フォン・レーゼンの肖像」

ホルバイン「シャルル・デュ・ソリエール、シュー・デュ・モレットの肖像画」

どうです、この面構え。
この人は、兵士であり、
のちに外交使節としてフランスの国王4人に仕えた人物。
カロリーネ・シュレーゲルは
「肖像画が永久に存在するとすれば、
この絵がそれである」
と言っています。
とにかく、
よくこれだけ粒選りの絵ばかり集めたというばかりの名画揃い。
しかし、
何と言っても、この絵画館の目玉は、
ラファエロの「システィーナのマドンナ」

ほれぼれするような素晴らしさ。
教皇ユリウス二世が発注者で、
(ミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の天井画を描かせたのもユリウス二世)
左側に描かれた
三世紀の教皇で殉教した聖シクストゥスが、
ユリウス二世に似ていると言われています。
右側の女性は、
やはり三世紀に殉教した聖バルバラ。
ところで、絵の下の方に描かれている天使二人。

どこかで見たことがありませんか?
マウスパッドやマグカップなどにプリントされたこの天使、
この絵がオリジナルです。
眼福に恵まれたドレスデン。
次は最終地・ベルリンです。
ホテルの側を散策しました。

このホテルは林の中、

住宅街にあります。

何の工場の煙突でしょうか。カラフル。

近所に池もあります。

これで、夜10時。

ベンチと教会と煙突。

翌日は、ドレスデンへ。

ドレスデンは、
16世紀以降、ザクセン王国の首都として栄えました。
「エルベの真珠」「エルベのフィレッツェ」と讃えられました。
劇場広場。

その名前のとおり、
ここには、ザクセン州の州立歌劇場があります。

建設者のゴットリート・ゼンパーの名前から、
「ゼンパー・オペラ」と呼ばれています。
リヒャルト・ワーグナーが初代指揮者。
ワーグナーの「さまよえるオランダ人」
「タンホイザー」は、この劇場で初演されました。
正面上の像はバッカス夫妻。

入口の左右を飾る像は、

ゲーテと

シラーの像。

建物正面にそびえる騎馬像は、

この劇場の発注者の
ザクセン王ヨハン。


ドレスデン城。


旧宮廷教会。

実は、ドレスデンは、
第二次大戦の際、
連合軍の空襲を受け、
9割が破壊されました。
それで、これらは、戦後の復旧したもの。
従って、世界遺産ではありません。

エルベ川にかかる橋。

エルベ川は、モルダウ川が流れ込み、北海に注ぎます。

観光船の煙突は、
橋をくぐる時、倒れます。

城壁には、こんな絵が。

「君主の行列」。
102mあります。

歴代のザクセン王35名が行進する壁画は、

約2万5千枚もの磁器製です。

第二次世界大戦の空襲でも、
奇跡的に損壊をのがれました。

行進の最後には、

ちゃっかり作者も描かれています。
コテを持っているのが作者のウィルヘルム・ワルサー。

アルトマルク広場。

ここに建つのが、フラウエン教会。

実は、空襲でこんなになりました。

建てるのには6118日もかかったのに、
破壊には、
1945年2月13日のわずか1夜しかかかりませんでした。
戦争の悲惨さを伝えるために、
廃墟のままの姿をさらしていましたが、
1994年に再建が始まり、
2005年10月30日に昔の姿で蘇りました。
破片を元通りに積み直す作業は「世界最大のパズル」と言われました。
30万個の瓦礫が組み合わさって再現されています。
↓瓦礫の一部が展示されています。

教会の前にはルターの像が立っています。

こんな通路もあります。

ツヴィンガー宮殿。

中庭。

宮殿は、
強王の名を持つザクセン王アウグスト1世が

1709〜32年にかけて建てた

ドイツ・バロック建築の傑作。

ヨハン王の像の見える通路にある

入口は、

アルトマイスター絵画館。

アウグスト強王の息子、
アウグスト二世によって集められた世界の名画の数々。
館内は撮影禁止ですので、
購入した写真集から。
ティツィアーノ「貢の銭」

レンブラント「レンブラントとサスキア」

リオタール「ショコラの娘」

フェルメール「窓辺で手紙を読む娘」

フェルメール「娼婦宿の女主人」(「取り持ち女」「やり手婆」ともいう)

これで、見たフェルメールは13作になりました。
37作全て見るのには、まだ道は遠い。
コレッジョ「聖ゲオルギウスの聖母」

エル・グレコ「盲人の治癒」

ヴァン・ダイク「聖ヒエロニムス」

ムリーリョ「マリアと子供」

こんなマリアは初めてです。
ベラスケス「紳士の肖像画」

ルーベンス「噴水のバスセバ」

デューラー「ベルンハルト・フォン・レーゼンの肖像」

ホルバイン「シャルル・デュ・ソリエール、シュー・デュ・モレットの肖像画」

どうです、この面構え。
この人は、兵士であり、
のちに外交使節としてフランスの国王4人に仕えた人物。
カロリーネ・シュレーゲルは
「肖像画が永久に存在するとすれば、
この絵がそれである」
と言っています。
とにかく、
よくこれだけ粒選りの絵ばかり集めたというばかりの名画揃い。
しかし、
何と言っても、この絵画館の目玉は、
ラファエロの「システィーナのマドンナ」

ほれぼれするような素晴らしさ。
教皇ユリウス二世が発注者で、
(ミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の天井画を描かせたのもユリウス二世)
左側に描かれた
三世紀の教皇で殉教した聖シクストゥスが、
ユリウス二世に似ていると言われています。
右側の女性は、
やはり三世紀に殉教した聖バルバラ。
ところで、絵の下の方に描かれている天使二人。

どこかで見たことがありませんか?
マウスパッドやマグカップなどにプリントされたこの天使、
この絵がオリジナルです。
眼福に恵まれたドレスデン。
次は最終地・ベルリンです。
『生きて、生きて、生きて』 書籍関係
〔書籍紹介〕

著者が16人の宣教者+曽野綾子とあるように、
賢人・曽野綾子さんが運営している
「海外邦人宣教者活動支援後援会」(略称JOMAS)の
活動を通じて知り合った
海外で宣教している神父やシスターたちを描く。
6月21日に紹介した
曽野綾子さんの「朝はアフリカの歓び」↓
http://star.ap.teacup.com/applet/shokuniku/20130621/archive
と対になるような本で、
16人の宣教者たちの手記と
曽野綾子さんの著作からの関連箇所を重ねた構成。
宣教師たちの手記は、
おそらく聞き取りで、
その国の現状、問題点、
実際の活動の現場報告だ。
アフリカのシュラレオネ、コンゴ、
南アフリカ、チャド、カメルーン、
アルジェリア、マダガスカル、
中南米のボリビア、ペルー、
ハイチ、メキシコ
アジアのインド、ネパールなど
広範な地域に宣教者たちが派遣され、
その土地に根を下ろして生活している。
最近、「こんなところに日本人が」として、
辺境に住む日本人が紹介されているが、
テレビ番組顔負けの多彩さだ。
冒頭、「その人たち」のことと題して、
曽野綾子さんが、宣教師たちの生活を紹介する。
その一文。
現代でもまだ、
この地球の片隅で、
人に知られることもあまりなく、
この日本の快適な生活を捨てて、
ほとんど原始に近い暮らしの中に身を置き、
人の生命と精神の双方の救援のために働いている人たちがいる。
抽象的な意味ではない。
現実に放っておけば、
チフスやコレラや栄養失調や難産で死ぬ人たちを救おうと、
単純にして明快な人命救助のために働いている人たちである。
「日本の快適な生活を捨てて」というところが肝心なところ。
休暇で日本に帰って来ても、
一刻も早く任地に帰りたいと願うという。
人間にとって価値あるものとは何かを考えさせられる。
南アフリカのエイズのケア・センターのことを書いた記述。
患者は子供に会いたいと始終話しています。
でも、家族は頻繁に子供を連れて来られません。
子供に会えないまま死んでしまう患者も後を絶ちません。
「子供の顔を一度見て死にたい」
「死期を感じるから親に会いたい」
と懇願する患者を
家に連れて帰ったこともあります。
しかし、たいてい家族に歓迎されませんでした。
末期の患者は寝たきり、運がよくて車椅子生活ですから、
帰ってこられると
二日でも三日でも面倒をみなくてはいけません。
大半の人が、
白人の家のメイドや草むしりの仕事をしています。
働き口のない人は沢山いますから、
一日でも休むと簡単にクビにされます。
せっかく仕事につけたのに、
また仕事を探さなくてはいけなくなるのです。
それでも、
「お母さん、一日でもいいからそばに置いて」
と頼んだ子がいました。
私もお願いして、
どうにか置いてくれることになったのですが、
彼女はその日のうちに
ケア・センターへ一人で戻って来ました。
たぶん、親は冷たくあしらったのでしょう。
それもやむを得なかったのかもしれません。
その後、彼女は家族の話は一切口にしないまま、
施設で亡くなりました。
貧困ゆえに、
暖かく接することの出来なかった家族。
おそらく亡くなった後、
「どうしてもっとやさしくしてあげられなかったのか」
と悔やんだことだろう。
ペルーの貧民窟での記述。
昨年、マリアという三十二歳の黒人の母親が、
初聖体を受けた日の光景は忘れられません。
初聖体の前日に告解(懺悔)をするのですが、
教会に行くまでの道で、
「シスター、悪かったことは
何もかも言わなくてはいけないの?」
と聞くので、「そうよ」と答えたら、
「売春していたことも?」と言うのです。
彼女が告解している間、
私は後ろのほうで見守っていましたが、
告解場の中で
彼女はひざまずいて
三十分くらい泣き続けていました。
日本で援助交際をしている女の子たちは、
「自分の体をどう使おうが勝手でしょ。
何が悪いの?」
と言うけれど、
ペルーの女性は
売春が悪いことだとわかっている、
わかっているけれど、
生きていくためにしょうがないから体を売っているのです。
そして、こう書く。
キリスト教では売春は罪ですが、
神さまは彼女たちを赦してくださると私は思います。
一日も早くやめたいと思いながら、
食べるため、子供や家族を養うために
やらざるを得なくてやっているのですから。
ボリビアで働くシスターは、このように書く。
私は、通っていたラサール校の校長先生に、
こう教わりました。
私たちにはお金で買えるものと買えないものがある。
すばらしいベッド、羽布団はお金で買うことができる。
でも、心地よい眠りをお金で買うことはできない。
私たちは、すばらしい辞書と百科事典を買うことができる。
でも、知識を買うことはできない。
お金で快楽を買うことはできる。
でも、美しい思いやりの心は買えない、と。
本書には宣教師やシスターの顔写真が
小さく紹介されているのだが、
その顔には共通点がある。
決然と任地に赴く爽やかさである。
神が示した土地を
骨を埋める場所として疑わず、
背後に日本の豊かな生活を
惜しみなく捨てて来た潔さである。
見返りの少ない奉仕の生活。
しかし、それも神の御心と受け入れる心の広さである。
曽野さんは、チャドのシスターの生活をこのように書く。
シスターたちは貧しさの極限の暮らしの中で、
毎日陽気に冗談を言い、
時には村人の気まぐれに困らされることはあっても、
そのゆるぎない人間的なあらゆる属性を愛し、
その土地のあるがままの姿に惹かれていた。
チャドはシスター・永瀬をはじめとする
修道女たちの心を完全に捉えていた。
貧しい人々は時々狡さも見せたが、
それもシスターは
母親のように苛立たずに受け入れていた。
矛盾だらけで遅々として進歩の見えない
チャドとかかわることは、
どんなに疲れることだろう、
と私は思った。
しかしそれが神の望まれる道だと
疑わなかったから
シスターたちは誰も迷わなかった。
ただ時にはどんなに、
透明で瑞々しく緑したたる日本の山河を、
日本人の細やかな配慮を、
そして日本の食事を、
シスターたちは懐かしんだことだろう。
しかし、シスター・永瀬は
遺体としても日本に帰らなかった。
子供の時から私は、
自ら納得した使命に殉ずる人に
深い尊敬を抱いて来た。
私自身はそうした強い暮らしをできなかったから、
せめてその人々のために
少しでも働きたいと希って来た。
そうした人々は私の前方に輝く星であった。
実際、アフリカや中南米での奉仕は、
無益なことが多い。
どんなに援助しても、
為政者の無能と無作為で押し寄せる貧困が飲み込んでしまう。
だが、初期のアフリカ宣教師派遣の際、
こう言われたという。
「決して報いを求めてはならない」。
働いても働いても報われない。
これほど辛いことはないだろうが、
宣教師たちは、それを受け入れ、
任地に赴き、
時には殉教したのである。
次のような曽野さんの記述は胸を打つ。
私の周囲には、
私に苦い言葉を言い続ける友人たちが数人いた。
アフリカを援助しようと思うのは、むだだ、
と言い切る人もいた。
汚職、縁故採用などは極く当たり前の腐った社会に、
外国の援助が届けば、
無能で強欲な為政者が喜ぶばかりである。
だからアフリカはいっそのこと、
一度徹底して悲惨のどん底まで落ちなければだめだ。
あなたのような人が、
むしろアフリカ問題の徹底的解決を延ばして、
アフリカを不幸にしているのだ、
とまで言う人もいた。
私はそうした言葉に全く怒らなかった。
誰一人として正しい考えや予測をできる人はいない。
あちこちで間違えながら、
何とか生きて行く他はない。
アフリカの貧困の特徴は、
今日食べるものがない、ということだ。
人間の不幸の順位は付け難いが、
空腹に耐えるということは
その中でもかなり辛いことだ、
と私は素朴に考えた。
私は多分
アフリカの貧困の根本を解決するためには
逆の方向に足を引っ張るという悪事をしているだろう。
しかしすべてのことの解決は
そんなにすぐにはできない。
私たちの援助によって
僅かな数の人々が
どうやら今日から明日を生き延び、
その間に遅れながら
アフリカの貧困が解決の方向を辿る。
そう思うことにしよう。

著者が16人の宣教者+曽野綾子とあるように、
賢人・曽野綾子さんが運営している
「海外邦人宣教者活動支援後援会」(略称JOMAS)の
活動を通じて知り合った
海外で宣教している神父やシスターたちを描く。
6月21日に紹介した
曽野綾子さんの「朝はアフリカの歓び」↓
http://star.ap.teacup.com/applet/shokuniku/20130621/archive
と対になるような本で、
16人の宣教者たちの手記と
曽野綾子さんの著作からの関連箇所を重ねた構成。
宣教師たちの手記は、
おそらく聞き取りで、
その国の現状、問題点、
実際の活動の現場報告だ。
アフリカのシュラレオネ、コンゴ、
南アフリカ、チャド、カメルーン、
アルジェリア、マダガスカル、
中南米のボリビア、ペルー、
ハイチ、メキシコ
アジアのインド、ネパールなど
広範な地域に宣教者たちが派遣され、
その土地に根を下ろして生活している。
最近、「こんなところに日本人が」として、
辺境に住む日本人が紹介されているが、
テレビ番組顔負けの多彩さだ。
冒頭、「その人たち」のことと題して、
曽野綾子さんが、宣教師たちの生活を紹介する。
その一文。
現代でもまだ、
この地球の片隅で、
人に知られることもあまりなく、
この日本の快適な生活を捨てて、
ほとんど原始に近い暮らしの中に身を置き、
人の生命と精神の双方の救援のために働いている人たちがいる。
抽象的な意味ではない。
現実に放っておけば、
チフスやコレラや栄養失調や難産で死ぬ人たちを救おうと、
単純にして明快な人命救助のために働いている人たちである。
「日本の快適な生活を捨てて」というところが肝心なところ。
休暇で日本に帰って来ても、
一刻も早く任地に帰りたいと願うという。
人間にとって価値あるものとは何かを考えさせられる。
南アフリカのエイズのケア・センターのことを書いた記述。
患者は子供に会いたいと始終話しています。
でも、家族は頻繁に子供を連れて来られません。
子供に会えないまま死んでしまう患者も後を絶ちません。
「子供の顔を一度見て死にたい」
「死期を感じるから親に会いたい」
と懇願する患者を
家に連れて帰ったこともあります。
しかし、たいてい家族に歓迎されませんでした。
末期の患者は寝たきり、運がよくて車椅子生活ですから、
帰ってこられると
二日でも三日でも面倒をみなくてはいけません。
大半の人が、
白人の家のメイドや草むしりの仕事をしています。
働き口のない人は沢山いますから、
一日でも休むと簡単にクビにされます。
せっかく仕事につけたのに、
また仕事を探さなくてはいけなくなるのです。
それでも、
「お母さん、一日でもいいからそばに置いて」
と頼んだ子がいました。
私もお願いして、
どうにか置いてくれることになったのですが、
彼女はその日のうちに
ケア・センターへ一人で戻って来ました。
たぶん、親は冷たくあしらったのでしょう。
それもやむを得なかったのかもしれません。
その後、彼女は家族の話は一切口にしないまま、
施設で亡くなりました。
貧困ゆえに、
暖かく接することの出来なかった家族。
おそらく亡くなった後、
「どうしてもっとやさしくしてあげられなかったのか」
と悔やんだことだろう。
ペルーの貧民窟での記述。
昨年、マリアという三十二歳の黒人の母親が、
初聖体を受けた日の光景は忘れられません。
初聖体の前日に告解(懺悔)をするのですが、
教会に行くまでの道で、
「シスター、悪かったことは
何もかも言わなくてはいけないの?」
と聞くので、「そうよ」と答えたら、
「売春していたことも?」と言うのです。
彼女が告解している間、
私は後ろのほうで見守っていましたが、
告解場の中で
彼女はひざまずいて
三十分くらい泣き続けていました。
日本で援助交際をしている女の子たちは、
「自分の体をどう使おうが勝手でしょ。
何が悪いの?」
と言うけれど、
ペルーの女性は
売春が悪いことだとわかっている、
わかっているけれど、
生きていくためにしょうがないから体を売っているのです。
そして、こう書く。
キリスト教では売春は罪ですが、
神さまは彼女たちを赦してくださると私は思います。
一日も早くやめたいと思いながら、
食べるため、子供や家族を養うために
やらざるを得なくてやっているのですから。
ボリビアで働くシスターは、このように書く。
私は、通っていたラサール校の校長先生に、
こう教わりました。
私たちにはお金で買えるものと買えないものがある。
すばらしいベッド、羽布団はお金で買うことができる。
でも、心地よい眠りをお金で買うことはできない。
私たちは、すばらしい辞書と百科事典を買うことができる。
でも、知識を買うことはできない。
お金で快楽を買うことはできる。
でも、美しい思いやりの心は買えない、と。
本書には宣教師やシスターの顔写真が
小さく紹介されているのだが、
その顔には共通点がある。
決然と任地に赴く爽やかさである。
神が示した土地を
骨を埋める場所として疑わず、
背後に日本の豊かな生活を
惜しみなく捨てて来た潔さである。
見返りの少ない奉仕の生活。
しかし、それも神の御心と受け入れる心の広さである。
曽野さんは、チャドのシスターの生活をこのように書く。
シスターたちは貧しさの極限の暮らしの中で、
毎日陽気に冗談を言い、
時には村人の気まぐれに困らされることはあっても、
そのゆるぎない人間的なあらゆる属性を愛し、
その土地のあるがままの姿に惹かれていた。
チャドはシスター・永瀬をはじめとする
修道女たちの心を完全に捉えていた。
貧しい人々は時々狡さも見せたが、
それもシスターは
母親のように苛立たずに受け入れていた。
矛盾だらけで遅々として進歩の見えない
チャドとかかわることは、
どんなに疲れることだろう、
と私は思った。
しかしそれが神の望まれる道だと
疑わなかったから
シスターたちは誰も迷わなかった。
ただ時にはどんなに、
透明で瑞々しく緑したたる日本の山河を、
日本人の細やかな配慮を、
そして日本の食事を、
シスターたちは懐かしんだことだろう。
しかし、シスター・永瀬は
遺体としても日本に帰らなかった。
子供の時から私は、
自ら納得した使命に殉ずる人に
深い尊敬を抱いて来た。
私自身はそうした強い暮らしをできなかったから、
せめてその人々のために
少しでも働きたいと希って来た。
そうした人々は私の前方に輝く星であった。
実際、アフリカや中南米での奉仕は、
無益なことが多い。
どんなに援助しても、
為政者の無能と無作為で押し寄せる貧困が飲み込んでしまう。
だが、初期のアフリカ宣教師派遣の際、
こう言われたという。
「決して報いを求めてはならない」。
働いても働いても報われない。
これほど辛いことはないだろうが、
宣教師たちは、それを受け入れ、
任地に赴き、
時には殉教したのである。
次のような曽野さんの記述は胸を打つ。
私の周囲には、
私に苦い言葉を言い続ける友人たちが数人いた。
アフリカを援助しようと思うのは、むだだ、
と言い切る人もいた。
汚職、縁故採用などは極く当たり前の腐った社会に、
外国の援助が届けば、
無能で強欲な為政者が喜ぶばかりである。
だからアフリカはいっそのこと、
一度徹底して悲惨のどん底まで落ちなければだめだ。
あなたのような人が、
むしろアフリカ問題の徹底的解決を延ばして、
アフリカを不幸にしているのだ、
とまで言う人もいた。
私はそうした言葉に全く怒らなかった。
誰一人として正しい考えや予測をできる人はいない。
あちこちで間違えながら、
何とか生きて行く他はない。
アフリカの貧困の特徴は、
今日食べるものがない、ということだ。
人間の不幸の順位は付け難いが、
空腹に耐えるということは
その中でもかなり辛いことだ、
と私は素朴に考えた。
私は多分
アフリカの貧困の根本を解決するためには
逆の方向に足を引っ張るという悪事をしているだろう。
しかしすべてのことの解決は
そんなにすぐにはできない。
私たちの援助によって
僅かな数の人々が
どうやら今日から明日を生き延び、
その間に遅れながら
アフリカの貧困が解決の方向を辿る。
そう思うことにしよう。
中欧旅行記・8 プラハ 旅行関係
プラハに入りました。

町の中央をヴルタヴァ川(ドイツ名:モルダウ川)が流れています。

ここのホテルが、
今回のツァーでは一番のホテル。

なにしろ、スイートルーム。

広い寝室と

広いリビング。

台所もあり、
電磁調理器具もあります。

日本の衛星放送も受信。
「あまちゃん」は、日本と同じ朝8時に始まりました。

何だか、短時間の滞在がもったいないくらい。

この夜は、オプショナル・ツァー
「ウフレクレストランのご夕食(ビール1杯付)と
プラハ夜景鑑賞(夕食付)」
に参加。

バンドも付いていて、


たまたま居合わせた、
多摩の方の文化交流団体の方たちの
「南京珠すだれ」の芸を見せてもらったりしました。

まさかプラハで「南京珠すだれ」を見ようとは思いませんでした。

ビールはそこそこで、

前菜のハムは絶品でしたが、

その後のメインディッシュは貧弱で、
その上、夜景は↓この程度。

どこか高いところに行って町の灯を眺めるわけでもなく、
建物がパリみたいにライトアップされているわけでもなく、
王宮あたりの道、しかも暗い夜道を走ってホテルに戻りました。
これで「プラハ夜景鑑賞」とは看板倒れ。
9000円の参加費が嘘みたいな内容。
こういうことをしていると、
オプショナル・ツァーに参加する人はいなくなってしまいます。
ガイドさんや添乗員さんに一応言いましたが、
彼らも弱い立場なので、
最終日に配られる「アンケート」に書くことにしました。
で、翌日の観光は、まず王宮から。
880年から890年の間に創設されました。

「晴れ男」には珍しく、小雨でしたが、
じきに止みました。
↓は王宮の中庭。

↓は、聖ヴィート大聖堂。

尖塔の高さ96.6m、

930年のロマネスク様式の教会から始まって、
幾度かの改築後、
1344年からゴシック様式の教会に大改築。
完成したのが20世紀に入ってからといいますから、
気の長い話です。

内部の幅60m、奥行き124m。

美しいステンドグラスが飾られています。




↓旧王宮の建物。

ここは、城の正門。

毎正時には、衛兵の交代が行われます。





王宮は、ヴルタヴァ川西岸の小高い丘に
プラハ市街を見下ろす形で建っています。

カレル橋が見えます。後で行きます。

この階段を降りて行きます。

市民の足は、中欧はみんな路面電車。

マクドナルドはどの国に行ってもあります。
世界戦略を立てているのでしょう。
反対にコンビニは全くありません。

カレル橋に着きました。

ヴルダヴァ川にかかる最古の石橋。

カレル4世の命により、
1357年に着工、
60年近くかかって完成した
ゴシック様式の橋です。
全長520m、幅は約10m。

欄干に30の聖人像が並びます。

橋の完成と共にあったわけではなく、
17〜19世紀にかけて加えられたものです。
聖書から題材を取ったり、
歴史的な聖人やチェコの英雄をモデルにしています。

これが最初に立てられた彫像。
1683年の制作。

チェスキー・クルムロフでも紹介した
橋の守護聖人ヤン・ネポムツキー像。

脇のパネルに、そのいわれが描かれています。
神父に王妃が告白しています。
王は王妃の貞操を疑い、
告白の内容を明かすようにヤンに迫ります。
しかし、告悔の内容は口外しないのが聖職者の掟。
ヤンは拒否します。

そこで、王は、ヤンを橋の上から突き落として殺してしまいます。

ブロンズの一部が光っているのは、

こうして、みんなが触れて、
幸運を呼び寄せようとするため。

この像は、日本にもなじみの深い、
フランシスコ・ザビエル。

ザビエルを支える人の姿は、
弁髪、目の形などから、
日本人には見えません。

とうとうと流れるヴルタヴァ川。

スメタナ作曲「わが祖国」の中の
「モルダウ」のメロディーが聞こえて来るようです。

「モルダウ」を聞きたい方は、↓をクリック。
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=M3SmylXuTUc#t=65s
元のメロディーはユダヤの古い民謡。
やがてイスラエルの国家「ハティクバ(希望)」となり、
賛美歌85番にもなっています。

さだまさしは、
「モルダウ」に歌詞を付けて、
「男は大きな河になれ」と歌いました。↓
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=zkN4gz0iPME

橋の上からの景色は美しく、

「世界で一番美しい町」と言われるのも、納得できます。


橋の上では似顔絵描きや

オルガン弾きがいたり、

橋の景色が売られていたりします。

こうした30の彫像を眺めながら、

対岸に着きました。
この橋門塔は、
この種の塔としては、
欧州で最も美しいと言われています。

橋のたもとにある教会の脇を通って、

旧市街へ。

プラハは、モーツァルトが愛した町。

町中でコンサートをやっています。



バレエや

ミュージカルも盛ん。

お土産物屋。



ここは、旧市街広場。

ここにあるのが、天文時計。

15世紀に作られ、
当時のままの姿で動いています。
当時の宇宙観(天動説)に基づいた天体の動きと時間を表しています。
上が地球を中心に回る太陽と月、
下は黄道12宮と農村における四季の作業が描かれた暦です。

毎正時になると、人が集まるのは、

時が来ると、
死神が鐘を鳴らし、
窓が開き、
キリストの12弟子が顔を現し、
ゆっくりと動きます。
最後に一番上で鶏が一声鳴いて終了。

時計塔は旧市庁舎塔で、
高さ69.5m。

上に登れます。

で、さっそく登ってみます。

階段で登るのを覚悟したら、
エレベーターがありました。

上からの眺め。


ティーン教会。




眼下に旧市街広場が。

下に降りてみました。


ヤン・フス像。
15世紀のチェコにおける宗教改革の先駆者。

ローマ教会の堕落を激しく批判したため、
異端として1415年、火あぶりの刑に処されてしまいました。
フスの死は民衆に衝撃を与え、
フス派を名乗って立ち上がりました。


この通りは、パリ通りと呼ばれています。

旧市街広場は、

いつも人があふれています。

火薬塔。城門の一つです。

市民会館。
プラハで最も有名なアール・ヌーボーの建物。

エサビック駅。


「モルダウ」のメロディーを頭の中に巡らせ、

プラハともお別れ。
国境を越えて、
6カ国目、ドイツに入ります。

町の中央をヴルタヴァ川(ドイツ名:モルダウ川)が流れています。

ここのホテルが、
今回のツァーでは一番のホテル。

なにしろ、スイートルーム。

広い寝室と

広いリビング。

台所もあり、
電磁調理器具もあります。

日本の衛星放送も受信。
「あまちゃん」は、日本と同じ朝8時に始まりました。

何だか、短時間の滞在がもったいないくらい。

この夜は、オプショナル・ツァー
「ウフレクレストランのご夕食(ビール1杯付)と
プラハ夜景鑑賞(夕食付)」
に参加。

バンドも付いていて、


たまたま居合わせた、
多摩の方の文化交流団体の方たちの
「南京珠すだれ」の芸を見せてもらったりしました。

まさかプラハで「南京珠すだれ」を見ようとは思いませんでした。

ビールはそこそこで、

前菜のハムは絶品でしたが、

その後のメインディッシュは貧弱で、
その上、夜景は↓この程度。

どこか高いところに行って町の灯を眺めるわけでもなく、
建物がパリみたいにライトアップされているわけでもなく、
王宮あたりの道、しかも暗い夜道を走ってホテルに戻りました。
これで「プラハ夜景鑑賞」とは看板倒れ。
9000円の参加費が嘘みたいな内容。
こういうことをしていると、
オプショナル・ツァーに参加する人はいなくなってしまいます。
ガイドさんや添乗員さんに一応言いましたが、
彼らも弱い立場なので、
最終日に配られる「アンケート」に書くことにしました。
で、翌日の観光は、まず王宮から。
880年から890年の間に創設されました。

「晴れ男」には珍しく、小雨でしたが、
じきに止みました。
↓は王宮の中庭。

↓は、聖ヴィート大聖堂。

尖塔の高さ96.6m、

930年のロマネスク様式の教会から始まって、
幾度かの改築後、
1344年からゴシック様式の教会に大改築。
完成したのが20世紀に入ってからといいますから、
気の長い話です。

内部の幅60m、奥行き124m。

美しいステンドグラスが飾られています。




↓旧王宮の建物。

ここは、城の正門。

毎正時には、衛兵の交代が行われます。





王宮は、ヴルタヴァ川西岸の小高い丘に
プラハ市街を見下ろす形で建っています。

カレル橋が見えます。後で行きます。

この階段を降りて行きます。

市民の足は、中欧はみんな路面電車。

マクドナルドはどの国に行ってもあります。
世界戦略を立てているのでしょう。
反対にコンビニは全くありません。

カレル橋に着きました。

ヴルダヴァ川にかかる最古の石橋。

カレル4世の命により、
1357年に着工、
60年近くかかって完成した
ゴシック様式の橋です。
全長520m、幅は約10m。

欄干に30の聖人像が並びます。

橋の完成と共にあったわけではなく、
17〜19世紀にかけて加えられたものです。
聖書から題材を取ったり、
歴史的な聖人やチェコの英雄をモデルにしています。

これが最初に立てられた彫像。
1683年の制作。

チェスキー・クルムロフでも紹介した
橋の守護聖人ヤン・ネポムツキー像。

脇のパネルに、そのいわれが描かれています。
神父に王妃が告白しています。
王は王妃の貞操を疑い、
告白の内容を明かすようにヤンに迫ります。
しかし、告悔の内容は口外しないのが聖職者の掟。
ヤンは拒否します。

そこで、王は、ヤンを橋の上から突き落として殺してしまいます。

ブロンズの一部が光っているのは、

こうして、みんなが触れて、
幸運を呼び寄せようとするため。

この像は、日本にもなじみの深い、
フランシスコ・ザビエル。

ザビエルを支える人の姿は、
弁髪、目の形などから、
日本人には見えません。

とうとうと流れるヴルタヴァ川。

スメタナ作曲「わが祖国」の中の
「モルダウ」のメロディーが聞こえて来るようです。

「モルダウ」を聞きたい方は、↓をクリック。
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=M3SmylXuTUc#t=65s
元のメロディーはユダヤの古い民謡。
やがてイスラエルの国家「ハティクバ(希望)」となり、
賛美歌85番にもなっています。

さだまさしは、
「モルダウ」に歌詞を付けて、
「男は大きな河になれ」と歌いました。↓
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=zkN4gz0iPME

橋の上からの景色は美しく、

「世界で一番美しい町」と言われるのも、納得できます。


橋の上では似顔絵描きや

オルガン弾きがいたり、

橋の景色が売られていたりします。

こうした30の彫像を眺めながら、

対岸に着きました。
この橋門塔は、
この種の塔としては、
欧州で最も美しいと言われています。

橋のたもとにある教会の脇を通って、

旧市街へ。

プラハは、モーツァルトが愛した町。

町中でコンサートをやっています。



バレエや

ミュージカルも盛ん。

お土産物屋。



ここは、旧市街広場。

ここにあるのが、天文時計。

15世紀に作られ、
当時のままの姿で動いています。
当時の宇宙観(天動説)に基づいた天体の動きと時間を表しています。
上が地球を中心に回る太陽と月、
下は黄道12宮と農村における四季の作業が描かれた暦です。

毎正時になると、人が集まるのは、

時が来ると、
死神が鐘を鳴らし、
窓が開き、
キリストの12弟子が顔を現し、
ゆっくりと動きます。
最後に一番上で鶏が一声鳴いて終了。

時計塔は旧市庁舎塔で、
高さ69.5m。

上に登れます。

で、さっそく登ってみます。

階段で登るのを覚悟したら、
エレベーターがありました。

上からの眺め。


ティーン教会。




眼下に旧市街広場が。

下に降りてみました。


ヤン・フス像。
15世紀のチェコにおける宗教改革の先駆者。

ローマ教会の堕落を激しく批判したため、
異端として1415年、火あぶりの刑に処されてしまいました。
フスの死は民衆に衝撃を与え、
フス派を名乗って立ち上がりました。


この通りは、パリ通りと呼ばれています。

旧市街広場は、

いつも人があふれています。

火薬塔。城門の一つです。

市民会館。
プラハで最も有名なアール・ヌーボーの建物。

エサビック駅。


「モルダウ」のメロディーを頭の中に巡らせ、

プラハともお別れ。
国境を越えて、
6カ国目、ドイツに入ります。