南米の旅・7 クスコ 旅行関係
南米の旅8日目は、
リマからクスコへ。
クスコとは、ケチュア語で「へそ」の意味です。

リマ空港のカウンター。

気づけば、液晶画面は、

LGばかり。

発展途上国の空港のシステムを
LGがしっかり売り込んだようです。

そして、サムソン。

日本の企業の入る余地はありません。
機内で配られた箱の中には、

スナックが入っています。

クスコに着きました。


インカ帝国の黄金が迎えます。

言うまでもなく、
クスコはインカ帝国の首都でした。
インカ帝国は、スペイン語のImperio Incaで、
正式名称はタワンティン・スウユ(Tawantin Suyu, Tahuantinsuyo)といいます。
ケチュア語で、「タワンティン」とは、「4」を意味し、
「スウユ」とは、州、地方、場合によっては国を表し、
訳すと「四つの邦」という意味。
当時のインカ帝国を形成した4つの地域を示しています。
インカとはケチュア語で王(ないし皇帝)を意味する言葉で、
スペイン人はこの言葉を初めはケチュア族をさす言葉として使い、
次第に国をさす言葉として使うようになったといいます。
インカ帝国は、アンデス文明の系統における最後の先住民国家。
メキシコ・グアテマラのアステカ文明、マヤ文明と対比する
南米の原アメリカの文明として、
インカ文明と呼ばれることもあります。
インカ帝国の版図に含まれる地域には
インカ以前にも文明は存在し、プレ・インカと呼ばれています。
スペインに滅ぼされた印象が強いことから、
南米ではずっとインカ帝国が続いていたように見えますが、
実は、それ以前に様々な国家があり、
前身となるクスコ王国は13世紀に成立、
1438年のパチャクテク即位による国家としての再編を経て、
1533年にスペイン人のコンキスタドール(征服者)に滅ぼされるまでの
およそ100年の歴史しかありません。
しかし、最盛期には、
80の民族と1600万人の人口をかかえ、
現在のチリ北部から中部、
アルゼンチン北西部、
コロンビア南部にまで広がっていた大帝国でした。
クスコに着いた途端に渡された酸素ボンベ。

なにしろ、ここは標高3360mです。
富士山(3776m)より少し低い。
チベットのラサ(3700m)で高山病にかかった私としては
大いに心配するところです。
ガイドからは、
ゆっくり歩け、
深呼吸をしろ、
大声を出すな、
とうるさいほど言われました。
インカの祖先は、
ペルーの高原地方を根拠に遊牧民族として暮らしていたと思われ、
高地に適応するため、
他地域の人々に比べ肺活量が30%ほど大きくなり、
心拍数も少なく、
血液の量も他地域の人々より多い2リットルとなり、
ヘモグロビン量も2倍以上になったと言います。
インカを征服したフランシスコ・ピサロたちも、
クスコに来て高山病に苦しんだのでしょうか。
高山病という概念もない時代ですから、
何かの祟りと思ったかもしれません。
まず昼食。その場で演奏されたフォルクローレ。

ここで不意打ちを食らいました。
この音楽を聞いていると
胸にこみあげて来るものがあり、
つい落涙してしまったのです。
原因は、といえば、
祖先を同じくするDNAが働いたとしか思えません。
ペルーの人の先祖がアジアにあることは
数々の証拠で証明されています。
昔、ベーリング海が凍っていた頃、
その海を渡ってアメリカ大陸に渡った人々の末裔だと。
その証拠に、このあたりの人々には明白な蒙古斑が見いだされるといいます。
そのDNAが音楽で共鳴して現れたのだと。

そういえば、
リマの町とは違い、
クスコに来た途端、
「本当のペルーに来た」
という感じがしたことは確かです。


↓は、町の中心、アルマス広場。

カテドラル。

インカ時代のビラコチャ神殿の跡に建てられたもの。
1550年から建設が始まって、
完成したのは100年後。

ラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会。


アルマス広場からの町の情景。



石畳。

町の至るところに
インカ時代の石組みがあります。

かみそりの刃一枚入らない、
と言われる精密な加工。
↓は、有名な「12角の石」。

王の一族(12人家族)を象徴しているのだといいます。
1年の各月を表しているという説もあります。
これだけの精密な細工が
石材だけの使用で加工されたことは驚異です。

お土産物屋の一角。





町を探索してみました。









↓は、サント・ドミンゴ教会。

コリカンチャと呼ばれる太陽の神殿でした。

スペインから来た征服者は、
黄金で一杯だった神殿から
欲しいものを全て取り除いてしまうと、
上部を壊し、教会を建てました。
しかしその後、クスコに大地震があった際、
教会は無残に崩れ落ちましたが、
土台の石組みだけはひずみ一つ起こさなかったと言われています。
中は今は博物館になっています。

石組みの説明。


噴水のある中庭。




花が咲き乱れています。

これはペルーの国花、カントゥータ。

サボテンの一種。


スペインの征服者たちは、
フランシスコ・ピサロ兄弟に率いられパナマから南下し、
1526年にインカ帝国の領土に達しました。
大いなる財宝の可能性に満ちた富裕な土地に達したのは明確であったので、
ピサロは1529年の遠征の後に一旦スペインに帰国し、
その領域の征服と副王就任にかかわる国王の認可を得ます。
1532年に彼らがペルーに戻ってきたとき、
内戦と天然痘などにより、
インカ帝国はかなり弱体化しており、
ピサロは当時、
わずか168名の兵士と1門の大砲、
27頭の馬という兵力で
征服をなし遂げました。
ピサロとビセンテ・デ・バルベルデ神父らの随行者は、
少数の供しか連れていなかった皇帝アタワルパとの会見に臨みます。
バルベルデ神父は通訳を通し、
皇帝と帝国のカルロス1世への服従と
キリスト教への改宗とを要求した投降勧告状を読み上げます。
しかし、言語障壁と拙い通訳のため、
アタワルパは神父によるキリスト教の説明に幾分困惑し、
使節の意図を完全に理解できてはいなかったと言われています。
スペイン人たちは苛立ち、
皇帝の随行者を攻撃、
皇帝アタワルパを人質として捕らえます。
アタワルパはスペイン人たちに、
彼が幽閉されていた大部屋1杯分の金と2杯分の銀を提供しましたが、
1533年8月29日、
アタワルパは処刑されました。
これをもってインカ帝国は事実上滅亡しました。
その後、1572年、
最後の皇帝トゥパック・アマルは捕らえられ、クスコで処刑され、
インカ帝国の政治的権威下でのスペインによる征服への抵抗は終結しました。
こうした歴史をクスコの町は見守り続けたのです。



サクサイワマン城塞跡。

第9代インカ王パチャクテの時代に建てられた要塞だと言われています。

毎年6月には、
南米三大祭の一つである

インカ時代の儀式を再現した
「インティ・ライミ=太陽の祭」が開かれ、

住民はありし日のインカの民となり、
神聖な儀式に参加します。

クスコを後に、
バスはこんな景色を見ながら高度を下げていきます。

民家がポツポツと存在します。





虹が出ました。

途中の町にあった壁画。


この川はウルバンバ川といい、
最後はアマゾン川になります。

この日のホテルは
ウルバンバ川に近いコテッジ風ホテル。
ここは標高2800m。




どうやら日本人の観光客が多く泊まるようです。

レストランは薪の暖炉が。

さあ、いよいよ明日はマチュピチュです。
リマからクスコへ。
クスコとは、ケチュア語で「へそ」の意味です。

リマ空港のカウンター。

気づけば、液晶画面は、

LGばかり。

発展途上国の空港のシステムを
LGがしっかり売り込んだようです。

そして、サムソン。

日本の企業の入る余地はありません。
機内で配られた箱の中には、

スナックが入っています。

クスコに着きました。


インカ帝国の黄金が迎えます。

言うまでもなく、
クスコはインカ帝国の首都でした。
インカ帝国は、スペイン語のImperio Incaで、
正式名称はタワンティン・スウユ(Tawantin Suyu, Tahuantinsuyo)といいます。
ケチュア語で、「タワンティン」とは、「4」を意味し、
「スウユ」とは、州、地方、場合によっては国を表し、
訳すと「四つの邦」という意味。
当時のインカ帝国を形成した4つの地域を示しています。
インカとはケチュア語で王(ないし皇帝)を意味する言葉で、
スペイン人はこの言葉を初めはケチュア族をさす言葉として使い、
次第に国をさす言葉として使うようになったといいます。
インカ帝国は、アンデス文明の系統における最後の先住民国家。
メキシコ・グアテマラのアステカ文明、マヤ文明と対比する
南米の原アメリカの文明として、
インカ文明と呼ばれることもあります。
インカ帝国の版図に含まれる地域には
インカ以前にも文明は存在し、プレ・インカと呼ばれています。
スペインに滅ぼされた印象が強いことから、
南米ではずっとインカ帝国が続いていたように見えますが、
実は、それ以前に様々な国家があり、
前身となるクスコ王国は13世紀に成立、
1438年のパチャクテク即位による国家としての再編を経て、
1533年にスペイン人のコンキスタドール(征服者)に滅ぼされるまでの
およそ100年の歴史しかありません。
しかし、最盛期には、
80の民族と1600万人の人口をかかえ、
現在のチリ北部から中部、
アルゼンチン北西部、
コロンビア南部にまで広がっていた大帝国でした。
クスコに着いた途端に渡された酸素ボンベ。

なにしろ、ここは標高3360mです。
富士山(3776m)より少し低い。
チベットのラサ(3700m)で高山病にかかった私としては
大いに心配するところです。
ガイドからは、
ゆっくり歩け、
深呼吸をしろ、
大声を出すな、
とうるさいほど言われました。
インカの祖先は、
ペルーの高原地方を根拠に遊牧民族として暮らしていたと思われ、
高地に適応するため、
他地域の人々に比べ肺活量が30%ほど大きくなり、
心拍数も少なく、
血液の量も他地域の人々より多い2リットルとなり、
ヘモグロビン量も2倍以上になったと言います。
インカを征服したフランシスコ・ピサロたちも、
クスコに来て高山病に苦しんだのでしょうか。
高山病という概念もない時代ですから、
何かの祟りと思ったかもしれません。
まず昼食。その場で演奏されたフォルクローレ。

ここで不意打ちを食らいました。
この音楽を聞いていると
胸にこみあげて来るものがあり、
つい落涙してしまったのです。
原因は、といえば、
祖先を同じくするDNAが働いたとしか思えません。
ペルーの人の先祖がアジアにあることは
数々の証拠で証明されています。
昔、ベーリング海が凍っていた頃、
その海を渡ってアメリカ大陸に渡った人々の末裔だと。
その証拠に、このあたりの人々には明白な蒙古斑が見いだされるといいます。
そのDNAが音楽で共鳴して現れたのだと。

そういえば、
リマの町とは違い、
クスコに来た途端、
「本当のペルーに来た」
という感じがしたことは確かです。


↓は、町の中心、アルマス広場。

カテドラル。

インカ時代のビラコチャ神殿の跡に建てられたもの。
1550年から建設が始まって、
完成したのは100年後。

ラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会。


アルマス広場からの町の情景。



石畳。

町の至るところに
インカ時代の石組みがあります。

かみそりの刃一枚入らない、
と言われる精密な加工。
↓は、有名な「12角の石」。

王の一族(12人家族)を象徴しているのだといいます。
1年の各月を表しているという説もあります。
これだけの精密な細工が
石材だけの使用で加工されたことは驚異です。

お土産物屋の一角。





町を探索してみました。









↓は、サント・ドミンゴ教会。

コリカンチャと呼ばれる太陽の神殿でした。

スペインから来た征服者は、
黄金で一杯だった神殿から
欲しいものを全て取り除いてしまうと、
上部を壊し、教会を建てました。
しかしその後、クスコに大地震があった際、
教会は無残に崩れ落ちましたが、
土台の石組みだけはひずみ一つ起こさなかったと言われています。
中は今は博物館になっています。

石組みの説明。


噴水のある中庭。




花が咲き乱れています。

これはペルーの国花、カントゥータ。

サボテンの一種。


スペインの征服者たちは、
フランシスコ・ピサロ兄弟に率いられパナマから南下し、
1526年にインカ帝国の領土に達しました。
大いなる財宝の可能性に満ちた富裕な土地に達したのは明確であったので、
ピサロは1529年の遠征の後に一旦スペインに帰国し、
その領域の征服と副王就任にかかわる国王の認可を得ます。
1532年に彼らがペルーに戻ってきたとき、
内戦と天然痘などにより、
インカ帝国はかなり弱体化しており、
ピサロは当時、
わずか168名の兵士と1門の大砲、
27頭の馬という兵力で
征服をなし遂げました。
ピサロとビセンテ・デ・バルベルデ神父らの随行者は、
少数の供しか連れていなかった皇帝アタワルパとの会見に臨みます。
バルベルデ神父は通訳を通し、
皇帝と帝国のカルロス1世への服従と
キリスト教への改宗とを要求した投降勧告状を読み上げます。
しかし、言語障壁と拙い通訳のため、
アタワルパは神父によるキリスト教の説明に幾分困惑し、
使節の意図を完全に理解できてはいなかったと言われています。
スペイン人たちは苛立ち、
皇帝の随行者を攻撃、
皇帝アタワルパを人質として捕らえます。
アタワルパはスペイン人たちに、
彼が幽閉されていた大部屋1杯分の金と2杯分の銀を提供しましたが、
1533年8月29日、
アタワルパは処刑されました。
これをもってインカ帝国は事実上滅亡しました。
その後、1572年、
最後の皇帝トゥパック・アマルは捕らえられ、クスコで処刑され、
インカ帝国の政治的権威下でのスペインによる征服への抵抗は終結しました。
こうした歴史をクスコの町は見守り続けたのです。



サクサイワマン城塞跡。

第9代インカ王パチャクテの時代に建てられた要塞だと言われています。

毎年6月には、
南米三大祭の一つである

インカ時代の儀式を再現した
「インティ・ライミ=太陽の祭」が開かれ、

住民はありし日のインカの民となり、
神聖な儀式に参加します。

クスコを後に、
バスはこんな景色を見ながら高度を下げていきます。

民家がポツポツと存在します。





虹が出ました。

途中の町にあった壁画。


この川はウルバンバ川といい、
最後はアマゾン川になります。

この日のホテルは
ウルバンバ川に近いコテッジ風ホテル。
ここは標高2800m。




どうやら日本人の観光客が多く泊まるようです。

レストランは薪の暖炉が。

さあ、いよいよ明日はマチュピチュです。